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七尾にゆかりのお雇い英国人教師 |
(1999年8月27日一部加筆修正更新)
七尾語学所時代のオーズボン(27歳) | 各国から贈られた勲章を付けたオーズボン(45歳頃) |
※写真の掲載については、写真を保管している七尾市立図書館長に直接会って快諾を得ているので、ご心配ありません。著作権はすなわち七尾図書館にあります。
ここ七尾にも幕末にひとりの英国人が、教師としてやって来た。ラフカディオ・ハーンやモラレスほど有名ではないが、七尾のみならず、金沢、岡山、横浜などで活躍。石川県における彼の英語教育の功績は大きい。このページはそんな彼を、知っていただきたく設けたものである。ただし、石川県での活動中心に記述してあります。(なお、参考にした本は、今井一良氏の「オーズボン紀行」(北國新聞発刊)である。詳しい事を知りたい方はそちらを入手し読んでください。入手できない方は、七尾市立図書館に同本及び彼に関する色んな資料がありますので、そちらにお問い合わせください。)
1.石川県での足跡
1)オーズボンの生誕
1842年(天保13年9月16日(旧8月12日)パーシヴァルがジョン・ジェンクス・オーズボンとエマ・トロットマンの次男としてロンドンに生まれる。生後母とともに、父の任地ドイツのアーヘンに帰り成長、初等教育をスイスのヴヴェイ付近で、中等教育を英国で受ける。
2)オーズボンの来日
父も既に亡くなっており、兄もアメリカへ行ってしまったために、母と妹を養う為、日本へ向かう。1867年(慶応3年、オーズボン(25歳))、米国から中国経由横浜に入る。後年、妻となる小川瀬戸(幕臣大久保源太郎(禄高5百石)の家来小川祐輔の娘)とは、加賀藩の招聘で七尾へ行く2年後までの間に、どこか横浜近辺で出会ったものと思われる。
3)加賀藩お雇い外国人教師第1号
明治2(1869)年12月中旬、加賀藩の招聘で外国人教師として、16歳の初々しい瀬戸を伴い、軍艦猶龍丸で七尾港に上陸。ここの加賀藩七尾軍艦所内の七尾語学所で、半年余りをこの地で過ごすこととなる。
招聘された理由は、抽象的な言い方をすれば、幕末・明治維新と言う時代が要求したといえる。その当時、加賀藩ではすでに、道済館という英仏学塾所があったが、日本人によるヒアリングやスピーキングを殆ど無視した文書中心の教育であった為、その道済館の読みをもじって、“ドーセ、イカン”と言われるようなありさまであったので、実際の外国人に接した教師などから、改善がせまられていた。藩は、これを受け入れ海外視察の経験のある者(佐野鼎)に外国人語学教師を探させた。そしてオーズボンが選ばれたのである。
4)当時の加賀藩の情勢と七尾語学所が作られた経緯
ペリー艦隊の来航(1853)により幕府を始め、各藩は洋式軍備整備のため明け暮れた。加賀藩も、安政元年(1854)に洋式軍隊養成学校壮猶館(そうゆうかん)を金沢の柿木畠に開校した。また西町軍艦所も開いたが、実地訓練の出来る七尾に移転し、七尾軍艦所として文久2年(1862)矢田新浜で開所し、汽船発機丸を配属、続いて季白里丸、有明丸、駿相丸、起業丸が七尾に来て、加賀藩艦船が勢揃いして梅鉢海軍と通称された。オーズボンが乗っていた猶龍丸は、明治元年購入の最新式軍艦であった。この七尾軍艦所内に、壮猶館の英学所の分校が置かれ、藩内の俊英30人が派遣されたのである。この中に工学博士平井晴次郎、海軍大将瓜生外吉、理学博士桜井錠二、工学博士石黒五十二、理学博士高峰譲吉と、明治期に各分野で活躍して名を残した人も多くいた。
オーズボンの弟子達について詳しく知りたい方はココをクリックしてください!
5)七尾に語学所が開かれた理由
藩は、道済館から分かれた英学校から優秀な生徒30人を選抜して、七尾語学所に派遣した。
6)七尾を闊歩する青い目のサムライ
明治3年(1870)、七尾語学所は授業を開始した。青年オーズボンは、熱心に授業に取り組んだ。生徒とも、よく外出し、その時の服装は、例の写真と同じ侍姿(紋服、袴に両刀差し)であった、と言われている。身長は六尺(180cm)近い(当時の日本人から見ると)大男だった。又、買い物などには、妻の瀬戸を同伴する事が多かった。明治3年5月16日には、妻の瀬戸が長男ジョージを生んでいる。
(七尾市小島町の寺・妙観院に残る「牛追善塔」のエピソード)
中島町(七尾近郊)のある百姓が、何も知らず売り払った牛が、殺されて食べられるという噂を耳にした彼は、あわてて買い戻しに駆けつけたが、その時にはもう遅く、彼の牛は既にオーズボン一家の食卓に載った後であった。嘆き悲しんだ彼は、この牛を売って得た代金でこの石碑を建て、その菩提を弔ったという。
7)金沢で過ごす4ヶ月
明治3年7月、七尾語学所は廃止され、金沢の藩立英学校である、致遠館に吸収された。理由としては、明治維新によって、日本は1つの国家として歩み始め、藩が独自の海軍力を持つ必要がなくなった事。また、七尾は戦略的価値を失い、語学所の維持は経済的に負担となった事などが揚げられる。
オーズボンは、金沢に移るが、実際には、教師としての契約期限は7月で切れており、オーズボンは、彼を藩に斡旋した佐野鼎が彼に「少なくとも3,4年は居てくれ」と言ったことをたてに、期限の延長を申し込むが藩に拒否される。藩は、執拗に期限の延長を申し出る彼に対して、イギリス領事に理非を仰ごうと言い出し、諦めさせたようである。このような経緯から、金沢に雇用契約の更新も無いまま4ヶ月も滞在、学校勤務を続けた。余暇には、金沢城内外の広壮な建物や、庭園を見て回り、近郊の森にも出かけ猟銃を楽しんでいたようである。明治3年閏10月晦日(西暦1870年12月21日)金沢を去る。(横浜へ帰る)
2.その後のオズボーン一家の年表
その後のオーズボンの業績、もう石川県とはあまり関係ないので詳しく述べませんが、年表でもいいからりたい方は、 ここをクリックして下さい。
3.2度の叙勲について
1)神奈川県訳官として
オーズボンは、1年余りの岡山県での教師生活の後、明治5年(1873)神奈川県で訳官(翻訳・通訳の官吏)として働いている。最初は、仮雇いの上、勤務状況によっては免職もありうるという不本意な条件付きであるが、真面目に精励し、本雇いの願い、期限延長の願いと根気よく請願し、結局帰国までの17年間、この仕事を続ける。
2)2度の叙勲
神奈川県は、彼の長年にわたる精励ぶりに叙勲を与えようと、明治11年と明治12年の2回にわたって内務省に働きかけた。
明治16年6月11日、勲四等旭日小授章を授与される。
明治20年10月2日、勲三等旭日中授章を授与される。
ちなみに、明治15年11月7日付、神奈川県令から内務卿への上請書には叙勲の理由として、次の4つが揚げれている。
上請書の為、いささか持上げ過ぎの書き方にも見えるが、やはり能吏であった事は間違いない。又、彼は日本政府から叙勲される前に既に、ドイツ、イタリア、ロシア、及びカンボジアの4カ国から、勲章をもらっていた。
4.七尾語学所のオーズボンの弟子達
詳しい事を知りたい方は、 ここをクリック して下さい。
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