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「資料集:阿木のむかしと今」から古老の語りの部分を抜粋します。 教科書だから共通語に直してあるのだろうと信じていましたが、 そんなことはありませんでした。地元にいると気がつかないものです。
参考文献
小学校資料集:阿木のむかしと今;編集:新田鉦三(1982.2)
飛行機がくるとな、すごくおそがかったわ。サイレンがなるとぉ、ランプの火を 消してな、まっくらにしたしな。穴がほったるもんでな、その中にそのなかにはいって かくれたこともあったわ。
そりゃぁ、こんになっちゃって、もう、はい、はたらかんなんし、もうそれこそ、 供出の米なんかよう、女で俵いって供出したけど、たあるかったよ。自分たちの食べる米、 のうなっちゃうで。
うんと、それはよう、戦争がおわるころだったけど、春ごろからそういう仕事始めたの。 (中略) 国のやることやもんで、どれだけいつきてということはわからんけど、なんか公団というか、 団体でやっている人々じゃあないかなあと、今思うけど、ほいで、家族ぐるみ、ほうぼう わたったるいて、戦争が終わると、同時にいつどこへ行ったか分からん感じで、引き上げちゃった。
穴を掘る人は、だいたい十六ぐらいから五十歳ぐらいの人が 穴を掘りたと。五十歳よりもっと年上の人もおりたかもしれんと。 穴を掘る工事はきついもんで、朝鮮の人の中には、きつい人もおったけど、 朝鮮の人はやさしい人だったと。
頁作者より:この話は、昭和20年に当時の朝鮮の人が、地下軍需工場のための トンネルを掘った時の様子を聞いたものです。
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