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【 道後鉄道 】 松山市では、明治21年に松山−三津間に伊予鉄道が 日本で初めての軽便鉄道として開通していました。 みなさんは、D51(デゴイチ)という名前の機関車を知っていま すか?力強くて雄々しいSLの代表的な機関車ですが、坊ちゃ ん列車はこの機関車の半分くらい・・・といっても言い過ぎでは ないくらい小さい機関車だったのです。 軽便鉄道というのも、デゴイチのような普通の機関車が走る 軌道幅(レールの幅)よりも狭い軌道幅の鉄道・・・という意味 です。 その後、道後温泉へのルートとして、 道後湯之町の有志によって作られたのが、道後鉄道です。 xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx 【 簡単な年表 】 明治21年10月 伊予鉄道開通 明治27年 4月 道後温泉本館新築 明治28年 4月 夏目漱石が松山中学に赴任 明治28年 8月 道後鉄道開通 明治29年 3月 夏目漱石が熊本へ転任 明治33年 5月 道後鉄道が伊予鉄道と合併 明治40年 1月 夏目漱石が小説 「坊ちゃん」 を発行 xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx 【 路線 】 当時の路線は、 一番町から愛媛銀行のあたりを北上して、 松山東警察署の東を通り (このあたりは道路として現存しています。) 県民文化会館の北側で三津口からの路線と合流して 道後へと続きます。 【 合流地点 あたりの路線跡 】 ![]() 道後で折り返した路線は、 前述の県民文化会館あたりから、そのまま西へ進み、 愛媛県母子支援センター付近から北西に向きを変え、 護国神社鳥居の前あたりで、樋又通りに出ます。 そこからほぼ西へ進んで、現木屋町電停へと走り、 三津口(現萱町6丁目電停)までの全長4.8キロとなります。 このうちの木屋町−萱町6丁目間が 路線として現存しているようです。 【 松山城を中心とした路線跡全体 】 ![]() ![]() ☆ 道後鉄道は、なぜ三津口までだったのでしょうか。 ・・・それは、ほんの少し歩いた場所に、 伊予鉄道の三津口(現古町駅)があったからです。 港についた人たちは、伊予鉄道を使って城下(市内)に 入ります。ですから、その途中の駅に隣接したわけです。 (当時、伊予鉄道の駅は、三津、三津口、松山の三駅でした。) xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx 【 設立時の様子 】 ☆ 明治25年頃、城下(松山市内)と道後のあいだには、交通の便 がなく、人々は田や野原の中の道をてくてく歩いていました。 ☆ 当時、道後湯之町の初代町長である伊佐庭如矢は、道後温泉 本館の新築工事を始めていました。そこで、道後へお客を呼ぶ ために鉄道を敷くことを考えたのです。 <発起人>・・・・伊佐庭如矢 村瀬正敬 山内百太郎 八束金次郎 岡 春齢 川崎雅美 泉 丈三郎 鮒田市蔵 麻田宇平 富田金次郎 松下信光 遠藤鹿守 <資本金>・・・・三万八千円 ☆ 明治26年2月 道後鉄道発起人会を開いて、山内百太郎を出願委員と して出願の手続きをしました。 ☆ 明治26年4月10日 仮免状がおりたので、村瀬正敬を社長に選んで、道後 鉄道は第一歩を踏み出しました。 ☆ 明治28年8月 工事は難行しましたが、ようやく開通しました。 xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx 【 小説 「坊ちゃん」 より 二カ所の抜粋 】 <三津浜の港に着いたとき> 停車場はすぐ知れた。切符もわけなく買った。乗り込んでみる と、マッチ箱のような汽車だ。ごろごろと五分ばかり動いたかと思 ったら、もうおりなければならない。どうりで切符が安いと思った。 たった三銭である。それから車をやとって中学校へきたら、もう放 課後でだれもいない。 ☆ こちらは、伊予鉄道です。 ☆ ここでいう「車」は、人力車のことです。当時の松山停車場 には、今のタクシーのかわりに人力車がお客を待っていまし た。でも、 人力車といって も、ゴム輪(タイヤ)ではなかったた めにひどい乗り心地でした。 ☆ 三津浜で乗って、松山(現松山市駅)で降りています。 ☆ さて、当時の運賃はいくらだったのでしょう? ・ 三津−三津口・・・・二銭五厘 ・ 三津口−松山・・・・一銭五厘 ・ 三津−松山・・・・・・三銭五厘 ☆ なお、貨物運賃もありました。 ・ 五貫(18.7キロ)以下一個につき一銭 ・ 十貫以下 一個につき一銭五厘 ・ 十貫以上二貫ごとに三厘を加算 ☆ 松山−三津間を28分で走る。貸し座布団一銭。 ☆ わらじを脱いで乗車する人や客車の床に正座する人、列車 が松山駅に着くと、お米をまいて拝む人もあったようです。 ☆ 列車は約一時間ごとに運転し、一日十往復。 ☆ 縁日や祭礼日などには、臨時列車を増発し、一時間ごとに 運転したそうです。 <下宿から温泉に向かうとき> やがて、ピューと汽笛が鳴って、車がつく。まちあわせたれんじゅうは、ぞろぞろわれがちに乗り込む。赤シャツは、いの一番に上等へとびこんだ。上等へ乗ったって、いばれるところではない。住田まで、上等が五銭で、下等が三銭だったから、わずか二銭の違いで上下の区別がつく。こういうオレでさえ、上等をふんぱつして、白ぎっぷをにぎっているんでもわかる。もっともいなかものはけちだから、たった二銭の出入りでも、すこぶる苦になるとみえて、たいていは下等へ乗る。 ☆ 住田というのが、道後のことです。 ☆ 大街道で乗って、道後で降りています。 ☆ こちらが、道後鉄道です。 つづきへもどる xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx 【 私の独り言 】 私の実家の敷地の公図に、妙に切り取られた三角の土地が残っていました。それが、どうも昔の鉄道の軌道跡だというのです。今は家ばかりのこんな場所に汽車が走っていたなんて・・・?当時小学生だった私にとって、不思議な話でした。 母の話などから調べていくと、明治時代に、道後から古町へと、道後から一番町への、今の路線とは違う別の路線があったようです。それが「道後鉄道」でした。 夏目漱石の小説「坊ちゃん」に登場する「坊ちゃん列車」は、伊予鉄道がモデルと言われていますが、どうやらこの道後鉄道も出てくるようです。というのも、小説の中で住田の温泉に行くために汽車に乗り込むくだりがありますが、当時、伊予鉄道は道後温泉までの路線はなく、一番町から道後に向かうには、道後鉄道しかありません。伊予鉄道に吸収合併されてしまったために、歴史から消えてしまった道後鉄道にスポットを当てて、もう一度、道後の町の歴史をひもといてみようと資料を集めてみました。 xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx |
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