このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

宮田の法然堂の記事


 
地元の資料ではどう書かれているのか?

「國譯全讃史」
故中山城山著、青井常太郎校訂國譯 昭和12年6月25日藤田書店発行 (S47.8.1復刻版)より抜粋
(原本は、中山城山が文政戊子(1828年)に藩主松平家に奉献納したもの、とある。)


「全讃史」には、吉原の水茎の岡の西行庵前の句碑に刻まれた3首を含めて、たくさんの和歌が載せられている。
しかるに、法然の歌については、法然寺の「おぼつかな・・・」の1首のみで、法然堂や小松庄にはそれ以外の歌は一切書かれていない。
これは、中山城山がこれを書いた文政年間の頃には法然堂に歌は掲示されていなかったことを示しているのではなかろうか。

「増補西讃府志」
舊丸龜藩京極家編輯、昭和4年11月3日藤田書店発行 (S48.10.20復刻版)より抜粋

「西讃府志」にも吉原の水茎の岡や筆の海の歌はいくつも載せられているのに、ここには歌は載せられていない。
「西讃府志」はいつ頃書かれたのか。安政戊午(1858)か嘉永6年(1853)かそれとも明治初期か、増補を繰り返したらしく、いくつもの年代が書かれている。「香川県大百科事典」四国新聞社編によると「西讃府志」は安政5(1858)完成となっている。 「全讃史」にせよ「西讃府志」にせよ、幕末頃には法然堂には歌がわかるものは何もなかったのではなかろうか?


「讃岐名所歌集」
赤松景福著兼発行、昭和3年3月24日上田書店発売 (S58.8.10復刻版、丸山学芸図書)より抜粋


ここには法然堂に「寒くとも・・・」の歌がある、と書かれている。昭和3年にはあったことになる。
幕末にはなかったのに昭和初期にあるということは、親鸞の歌がよく知られてきて、讃岐にも伝わり、親鸞の師である法然の歌として拝借した可能性は想像に難くない。
赤松景福氏は、水茎の岡の歌も筆の海の歌も吉原のような世間に知られてない土地の歌であるはずがないと、こき下ろしているのに、「寒くとも・・・」の歌には何の文句も付けてない。同氏は枕石寺伝を知らなかったようにみえる。

また、上掲の通り、赤松景福氏は法然堂を「余云う、是前の第六十四小松と同所なり」と書いているが、全くの誤りである。法然堂は金比羅の南、宮田にあり、小松は金比羅の東、高篠にあり、数kmも離れている。
「讃岐名所歌集」に書かれていることは、自説を通さんがため、事実を ねじ曲げ ていることが非常に多く、歌の紹介以外は信用できない。





蛇石  蛇石   法然上人歌碑   蛇石道標   遍路道標

善通寺   曼荼羅寺   出釈迦寺   禅定寺   西行庵   人面石   鷺井神社   東西神社
我拝師山   天霧山   七人同志   片山権左衛門   乳薬師   月照上人   牛穴
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