このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

天文年間(1532-55)に清玉上人が近江(滋賀県)の坂本で開創。
織田信長の帰依を得て京の地に移した。
1582年(天正10)信長父子が旧本能寺で自刃したとき、
上人が密かに骨灰をあつめてこの寺に葬ったという。
本堂の本尊阿弥陀如来像の傍らに信長、信忠の像、
境内に信長父子および森蘭丸ら120余人の墓がある。浄土宗。
尚、今の地には、変後豊臣秀吉の命によって移され(天正15年)、今日に至っている。

織田信長の墓は各地に多数あるが、京都市内だけでも、代表的なもので
大徳寺塔頭 総見院本能寺 がある。

大徳寺は信長の死後、羽柴秀吉によって信長の葬儀がおこなわれた場所で、
信長の一周忌に間に合うように、大徳寺境内に総見院が建立された。

だが、本能寺の変において信長の遺骸は発見されておらず、葬儀の際、
信長の木像を2体作り、1体は棺に入れて荼毘に付し、もう1体は寺に安置された。

したがって、総見院にある信長の墓は、供養塔といっても過言ではないだろう。

本能寺はもちろん信長が明智光秀に討たれた場所だ。
本能寺は再建される際、秀吉の京都改造により、現在の場所に移された。
ここには、信長の三男、信孝によって建立された信長の墓があるが、
総見院と同様、供養塔的なもので、中には信長愛用の太刀が納められている。

そして、京都市内には信長の墓がもう一箇所ある。
それがこの阿弥陀寺だ。
この寺にある墓には信長の遺骸が納められた可能性が極めて高い。
それは、この寺に次のような話が伝わっているからだ。

「本能寺の変」の時、清玉上人は本能寺に明智光秀の軍勢が押し寄せるのを聞いて、僧徒を
召し連れ本能寺に駆けつけられたが、表門は軍兵が厳重に四方を囲み寺内に入ることが
できず、裏道よりかろうじて入るが、寺には火が放たれ、すでに信長公が割腹されたと聞き、
そばの竹林に十人あまりの信長の家臣が火を焚いているので事の顛末を聞くと、信長公が
割腹の時、必ず死骸を敵に渡すなと遺言があったが四方は敵兵で死骸を抱いて連れ去る
道はなく、やむをえず火葬をし隠しておいてそれぞれ自刃すると一同は答えた。

上人は信長公とは格別の縁であるので火葬はもちろんのこと、将来の御追悼もおこなうと
信長の家臣に頼み、それぞれ自刃するよりむしろ信長公のために敵と戦って死ぬことを望むと
語ると、家臣たちは大いに喜び、門前の敵に向かった。
そのすきに、上人は死骸を火葬し、白骨を法衣につつみ、本能寺の僧徒たちが逃げるのに
まぎれこんで苦もなく阿弥陀寺に戻り、白骨を深く土中に隠しおいた。

秀吉が信長の一周忌を喪主として執り行おうとして、清玉上人に懇願したところ、
信長亡き後の織田家の乗っ取りに近い振る舞いで、後継者争いを勝ち抜くために信長の
一周忌を利用しようとする秀吉に、人の道にあらずと非難し、そのような者に荷担するわけには
いかないとして、これを断ったという。

秀吉が他の寺ではなく、この阿弥陀寺に願い出ているところがこの話の信憑性を裏付けて
いるのではなかろうか。

そのため秀吉は、大徳寺に総見院を建立することになったとの逸話も残る。

境内の風景

本堂

織田信長・信忠(長男) 親子の墓

森蘭丸・力丸・坊丸 三兄弟の墓

この寺は、普段は非公開。 拝観には予約が必要。

阿弥陀寺(あみだじ)

阿弥陀寺
阿弥陀寺
境内の風景
本堂
織田信長・信忠・討死衆墓所
織田信長・信忠 親子の墓
森蘭丸・力丸・坊丸 三兄弟の墓

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