このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

しかし”御土居の目的”で述べた二つの説を真っ向から否定する説もある。 
僕はこの説を強く支持しているので紹介したい。
ただしこの説を理解するには、秀吉の晩年の政策を知っておかなければならない。

なぜ、先の二つの説を否定するのか? 
それは・・・

①御土居が巨大城塞都市を意図して築造されたのならば、土塁の高さが低すぎはしまいか、
しかも濠の幅も狭いところだと3〜6メートル程度しかなかった。
これでは外敵が御土居を越えることは容易であり防禦装置としては貧弱ではないか。

②河川の氾濫に対する堤防の役割が重要だったとすれば、秀吉以前の治政者でも当然これに
類するものが築造されていても不思議はないが、そのような先例は見当たらない。

という理由からだ。

では、秀吉の真意は? 御土居築造の意図はなんだったのか?

結論からいうと「京都を天皇封じ込めのための巨大牢獄と化すこと」であった。

それは天正10年(1582)6月2日に発生した本能寺の変で織田信長を討った明智光秀では
あるが、織田方の有力武将らが京都から遠い場所で敵と対峙していて京都は真空地帯で
あったにも関わらず、何事をなすでもなかった。
光秀が危険を犯してまで信長を倒したのはどのような意図があったのか現在に至っても謎と
されている。

そうしたことで、謀叛は光秀の意図ではなく、それを陰で支えた巨大な背景が存在したのでは
ないかと当時から囁かれている。
そのような背景が存在したとすれば、当然、信長の天下統一をもっとも恐れていた勢力であろう。

信長は自らが討たれた天正10年当時、右大臣を返上し無官となっていた。
しかし、彼は自分を生きた神・絶対的権威者として君臨することを強烈に望んでいた。
朝廷はそれを察し、以前には信長の希望を入れず拒否していた征夷大将軍に推挙し、織田幕府
を開くことを打診していた。
だが、信長はこれを拒絶、もはや手の打ちようのないまでに朝廷と信長の溝は深かった。
なにせ、最高の宗教的権威である比叡山延暦寺を焼き討ちし、聖俗すべてを撫で斬り
してしまった希代の革命児信長のこと、このまま推移すれば朝廷を廃して自分が王になることすら
成し遂げてしまいかねない状態にあった。
たぶん、朝廷の長い歴史上、この時ほど存亡の危機に見舞われた時期はないだろう。

信長は既成のいっさいの権威を否定する態度を鮮明にしていたのだから、もし光秀謀叛の背景が
いたとしたら朝廷以外には考えられない。

ともあれ秀吉は朝廷の恐ろしさ、不気味さを直感したであろう。
秀吉は天正12年(1584)対立していた徳川家康と完全講和をはたし、天下統一の目途が明確に
なると、信長と対立した難物、正親町天皇を退位させ、若い後陽成天皇への譲位を決意する。
主、信長を討たせたかもしれない危険な天皇をいつまでも皇位にとどめておくことは自分の身に
とってもゆゆしきことであったはずである。

秀吉は朝廷と真っ向から対立する危険は犯さず、まずは融和を計る。
秀吉は正親町天皇の退位、後陽成天皇の即位と同時に 聚楽第 を造営し、天正16年(1588)、
ここに後陽成天皇を迎える。
秀吉も信長同様幕府を開くことを希望したが叶えられず、自ら公家化し関白となった。
秀吉は朝廷の権威に服する姿勢をみせ相手側を安心させはしたものの、決して胸の
わだかまりは消えることはなかっただろう。
そこで考案したのが京都全体を囲む御土居ではなかったか。

平野御土居

御土居を築いた直後に秀吉のなしたことは、代々朝廷に直属する警察機構である四座雑色
(しざぞうしき)という職種を廃し、彼らを洛外に追放しようとしたことだ。
その理由づけは、京都の町全体が御土居で囲まれ、七口と呼ばれる洛外との出入り口さえ
厳しく監視しておれば、特別の武力を保有する必要がないということであった。
朝廷の警察力を奪ってしまえば、朝廷に外部から情報が流入することもなくなり、
また、外部に情報が流出することもなくなる。
これが、秀吉の最大の目的であったのではないだろうか。

御土居を築造し終えた秀吉は、突如関白職を甥の秀次に譲ってしまう。
同時に聚楽第も彼に明渡してしまう。
その直接の理由は、淀殿との間に生まれた長男、鶴松が3歳にして夭折してしまったため、
後継者を決定しておく必要があったとされている。

しかし、文禄2年(1593)には、また淀殿に二男拾丸(後の秀頼)が産まれ、これを溺愛する
あまり、その将来が心配となり、秀次の存在が邪魔に感じられ、ついに文禄4年たいして
明確な失態もないのにいいがかりをつけて切腹に追い込んでしまう。

この時、秀次のあまたの妻妾息子息女が処刑され、これを葬った墓地を京都の人々は
畜生塚といって秀吉の蛮行を非難したしたといわれている。

豊臣秀吉の晩年は、確かに耄碌したといわれても仕方のないような行為が散見される。
秀次の切腹はもちろんのこと、勝てるはずのない朝鮮出兵など・・・

しかし、本当に彼は耄碌したのか? そんなことはない。
秀吉の辞世の一首をみれば、耄碌したなどということはありえないと思う。
「つゆとをち つゆときえにし わがみかな なにわの事も ゆめの又ゆめ」

なんと冷たく己を眺めているのであろうか。
自らの死にのぞんで、このように冷静に自分の一生を省みることができているのだ。

秀次を御土居の中の聚楽第に送り込み、自分は京都の外部の伏見城にひき移ったのだから、
秀次は天皇に対する人身御供以外のなにものでもなかったのであろう。

朝鮮出兵は貿易の拡大を主眼とした行為とされ、それは事実であろう。
当時の明(現・中国)は、日本との交易を拒否していたこともあり、交易を開くことを武力で
強行しようとしたのが明の保護国、朝鮮を攻めることであった。
ただし、海外出兵で、京都を空にしてしまえば、朝廷がどのような動きを起こすかわからない。
これを鎖で繋いでおく必要がある。 その役割を担ったのが御土居ではなかろうか。

紫野御土居

平野御土居
平野御土居
紫野御土居
紫野御土居
鷹ヶ峰御土居
鷹ヶ峰御土居

鷹ヶ峰御土居

鷹ヶ峰御土居は、現在史跡公園として整備されている

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください