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京都市中京区木屋町通四条上がる東側
勤王の志士、本間精一郎(1834〜62)は越後(新潟県)出身で、江戸に出て勉強し、
安政の大獄の後、京都に上って尊王攘夷運動に身を投じた。
どの藩にも属さなかったので自由に行動することができ、急進派に属した。
しかし、急進派の動きは
寺田屋騒動
でくじけ、精一郎はその頃から酒色に身をもちくずして
同志からも次第に嫌われるようになった。
公卿と接近して、薩摩藩の悪口を吹聴し、勤王派から佐幕派に変節したともささやかれた。
文久2(1862)年閏8月20日の夜、先斗町で遊んだ帰り道に精一郎は襲われた。
この南側の瓢箪露路を木屋町へ逃げようとしたが、この場で斬殺された。
精一郎29歳であった。
遺体は高瀬川に捨てられ、翌朝には首級が四条河原に晒された。
精一郎を斬ったのは、薩摩の田中新兵衛、土佐の岡田以蔵ら6名であったとされている。
本間精一郎遭難之地(ほんませいいちろうそうなんのち)
岡田以蔵の刀痕(おかだいぞうのとうこん)
京都市中京区木屋町通四条上ル 紙屋橋東正面路地奥
「本間精一郎遭難之地」の石碑の南に狭い路地が東に伸びています。
精一郎は斬殺された夜、先斗町で遊んだ帰りに襲われました。
精一郎は襲われた際、先斗町から木屋町へ瓢箪露路を通って逃げようとしたといわれています。
瓢箪露路というのは、おそらく石碑の南の狭い路地のことなのでしょう。
(現在は、木屋町通りから東に入ったところで行き止まりになっているため、先斗町とは繋がって
いませんが・・・)
この路地には「岡田以蔵の刀痕」といわれる刀痕がのこっています。
精一郎の襲われた現場は、やはりここなのでしょう。
生々しさが今に伝わってきます。
石碑の南側路地にある刀痕
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