このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
宮部鼎蔵の下僕・忠蔵を捕らえた新選組は、宮部自身も京都に入った可能性が高いとし、
長州尊王攘夷派志士の潜伏の情報は確実視されることになりました。
その後、新選組は鴨川の東岸で2名の不審人物を捕縛し、「5月より京都市中のほか、
伏見や大坂に討幕派が結集中」との自供を得ることに成功し、新選組の不貞浪士探索は
厳しさを増すことになります。
そしてついに、6月5日午前6時50分頃、新選組は古高俊太郎邸である桝屋に踏み込みました。
古高俊太郎邸址(ふるたかしゅんたろうていあと)
古高俊太郎邸の敷地の一部には、現在「志る幸」という料亭になっています。
その「志る幸」の玄関横に、この石碑はあります。
古高邸はかなり広かったらしく、その敷地は、この「志る幸」から東の高瀬川近くまで
あったそうです。
維新後まで建物は残っていたそうですが、いつしか失われ、古高邸を示すものは、
この石碑のみです。
新選組は古高俊太郎を捕縛し、
旧前川邸
へ連行します。
古高は自分の正体を認めたものの、新選組の追及に対し黙秘を続けますが、やがて土方による
拷問に耐え切れず、ついに計画が古高の口から漏れることになりました。
土方のおこなった拷問とは、逆さに吊るし上げ、水を浴びせ、足の裏に釘を打ったともいわれています。
旧前川邸には、古高を拷問した土蔵が、現在も当時のまま残っています。(非公開)
古高が白状した計画の内容は、「決行日は6月22日頃、烈風の日に乗じて火を御所の風上に放ち、
佐幕派公家の中川宮を捕らえて幽閉し、京都守護職・松平容保を惨殺して、孝明天皇を奪って
長州へ連れ去るという計画が進行中で、長州・土佐・肥後の浪士が身なりを変え四条あたりの
町屋や三条通りの旅宿に、およそ300人ほどが潜伏している」という過激なクーデターでした。
近藤たちは、古高が白状した内容を京都守護職・松平容保へ報告するため、正午頃旧前川邸を
出発。 土方は一隊を率いて市中を探索しながら祇園会所へ向かいます。
新選組は、普段と変わらない様子を装いながら、3人あるいは5人とバラバラに、白の単衣姿に
草履や下駄履きで出かけていきました。
しかし、その単衣の下には、防具の竹胴がつけられていたことが目撃されています。
報告を受けた松平容保は大いに驚いて警護担当の各藩に厳重な警戒を通達し、また、会津藩に
も数名の者に出動を命じます。
土方隊は午後7時頃に祇園会所に到着し、近藤たちと合流しますが、土方隊は結局、祇園の茶屋を
くまなく探索したにもかかわらず、古高のいう浪士たちをひとりも見つけることはできませんでした。
目立たないように、通常の市内見廻りを装って壬生の屯所を出発した隊士たちは、午後7時30分頃に
祇園会所に集結します。 その数34名。
山南敬助他多くの隊士たちは出動していません。 この頃、新選組内では体調を崩している隊士が
多く、また、捕らえた古高の見張り役もきっと屯所に残ったはずですから出動できる隊士は最大でも
これだけの人数だったのでしょう。
一説には、祇園会所で京都守護職の会津兵・京都所司代の桑名兵も新選組と合流する予定でしたが
約束の時間になってもいっこうに到着しません。 浪士の出身諸藩に気を使って、わざと時間に遅れた
といううわさがあります。
ともあれ、近藤は新選組単独での行動を決定します。 後から会津兵が来てくれると思ったでしょうし、
このまま待てば時を逃す、と戦功を焦る気持ちもあったことでしょう。
鴨川の西側を近藤率いる10名、浪士が潜伏しているであろう本命と思われる鴨川東側を土方率いる
24名と分担し、新選組は祇園会所を出発しました。
祇園会所は、八坂神社西門向かいあたりにあったそうです。
現在のローソンあたりです。(こんなの現地に行かないとわからないですね・・・)
京都の人は、このあたりを「祇園石段下」といいます。 八坂神社の西門には石段があるためです。
タクシーの運転手に、「祇園石段下」と言えば、間違いなくここへ行ってくれるくらい、
京都では、この呼び名が通っています。
近藤隊は、この祇園会所を西へ向かい、先斗町(ぽんとちょう)通りを北へ進みます。
一方の土方隊は、まず祇園会所を西に進み、大和大路通りを北へ進むグループ、花見小路通りを
北へ進むグループ、花見小路の一筋東の道を北へ進むグループと隊を三つに分けて探索します。
おそらく怪しいと思われる所をしらみつぶしに調べていたと思われます。
新選組が浪士探索の真っ只中だった午後9時30分頃、ひとりの男が池田屋を訪れます。
長州藩士・桂小五郎です。
桂は長州藩邸より、今夜の密会の場である池田屋を訪れたのです。
長州屋敷址(ちょうしゅうやしきあと)
長州藩邸は、慶長の末以来ここにありました。
はじめ南北2ヶ所に分かれ、北側屋敷は表口約70メートル、裏行約56メートル、
南側屋敷は、表口約54メートル、裏行約14メートルにおよんだそうです。
長州藩邸は幕末には尊皇攘夷派の拠点となりました。
元治元年の禁門の変で、幕府軍に敗れた長州藩は、自らこの邸内に火を放ち京都から逃れ
ましたが、火はたちまち市中に延焼し、数日間にわたって燃えつづけたといいます。
現在、この長州藩邸跡地は京都ホテル オークラになっています。
桂小五郎像(かつらこごろうぞう)
京都市中京区河原町通御池上る東側一之船入町
京都ホテル オークラの正面北側には、長州藩士・桂小五郎の銅像もあります。
彫刻家・日展評議員の江里敏明氏の作で、ほぼ等身大だそうです。
この桂と並んで記念写真を撮っている修学旅行生をよく見かけますが、
彼らは桂小五郎って知っているのかな・・・
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