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池田屋騒動 その3
武市瑞山先生寓居之跡

京都市中京区木屋町通三条上る東側

武市瑞山先生寓居之跡(たけちずいざんせんせいぐうきょのあと)

新選組は、近藤隊と土方隊に分かれて祇園界隈の料亭や旅籠を探索しますが、
なかなか志士たちの密会の場を捜し当てることはできませんでした。

土佐藩邸が近いこともあって、このあたりには多くの土佐藩士の寓居跡があります。

この場所は、土佐四天王と呼ばれた中のひとり、武市瑞山(半平太)が京都滞在時に暮らしていた
ところです。

ちなみにここは、同じく土佐藩士の 吉村寅太郎寓居跡 の隣です。

現在は、「金茶寮(きんちゃりょう)」という料理旅館になっていますが、幕末当時は四国屋の
離れ座敷で、「丹虎(たんとら)」という料亭でした。

丹虎は、長州藩士や尊王攘夷派志士の定宿で、池田屋騒動前夜、宮部鼎蔵はここに泊まっていた
といわれています。

池田屋騒動の夜、「丹虎」も志士たち密会の現場と目されていたそうで、一説では、土方隊が
踏み込んだとも伝えられていますが、真偽の程は不明だそうです。

武市 瑞山(たけち ずいざん)

土佐藩士。 文政12(1829)年に武市家の長男として生まれる。 名は小楯、通称は半平太。

坂本龍馬とは遠縁で、龍馬は武市を「あぎ」、武市は龍馬を「あざ」と呼びあう仲だった。

文久元(1861)年に一藩勤王を志向し、192名の同志を集めて、土佐勤王党を結成する。

一時期、土佐四天王といわれる「坂本龍馬・中岡慎太郎・吉村寅太郎・武市瑞山」の全員が、
土佐勤王党に籍を置いていた。

翌年には、公武合体派の吉田東洋の暗殺を命じ、また京都に出て朝廷工作に奔走する。

京都時代、佐幕派の暗殺に関与するなどし、同年末には上士格の留守居組に出世した。

しかし、公武合体派の前藩主・山内容堂が再び藩政を掌握すると、文久3(1863)年9月に
土佐に呼び戻され獄舎に入牢させられる。

武市は、1年半にもわたる過酷な訊問にも耐えて、吉田東洋暗殺の嫌疑を否定し続けた。

武市は獄舎につながれていたとはいえ、妻や同志に絶えず連絡することができた。

それは、武市の人柄に牢番が惚れ込んだためといわれている。

結局、武市は、慶応元(1865)年閏5月11日、獄中で切腹を命じられた。

ちなみに、武市の妻・富は、夫が獄舎につながれるや畳の上で就寝せず、極寒のなかでも
布団を重ねなかったという。

しかし、午後10時過ぎ、ついに近藤隊が三条小橋西北にある「池田屋」という旅籠において、
志士たちが密会しているという情報を得ます。

池田屋は、長州藩の常宿として知られ、店の看板にも長州の藩紋をかかげる長州藩御用達商人
でした。 

志士たちがこの夜、池田屋に集まったのは、ちょうど今朝、同志の古高俊太郎が新選組によって
捕縛されたことについて対策を打ち合わせるためだったと桂小五郎は後に証言しています。

そして、いよいよ、隊士・永倉新八が後年、「さながら赤穂浪士討ち入りの大立ち回りのようだった」と
書き記した「池田屋騒動」が勃発します。

近藤は、池田屋の表玄関に3名、裏側に3名を配置し出入り口を固め、後の近藤勇・沖田総司
・永倉新八・藤堂平助の4人だけで池田屋表口より突入しました。

まず、表口に置かれていた鉄砲・槍などの武器を縄でしばって押収し、その後、玄関へ移って池田屋の
主人・惣兵衛を呼び、近藤が「今宵、旅宿お改めであるぞ」と告げると、惣兵衛は大いに驚いて、
志士たちに知らせるために奥の2階へ走り、近藤もすぐにその後を追いかけ、沖田も続きました。

近藤と沖田が2階へ駆け上がると、そこには20数名の志士たちが全員抜刀していました。

そこで近藤が「御用お改め、手向かいいたすにおいては、ようしゃなく斬り捨てるぞ」と大声で一喝
します。

志士たちは、近藤の気合に押され、後ずさりしますが、その時、ひとりの志士が近藤に向かって
斬りかかりました。 

その瞬間、すかさず沖田がこの志士を一刀のもとに斬り倒します。

それを見たひとりの志士が1階へ逃げ出しましたが、近藤に気付かれ、近藤はすかさず1階へ指図
します。

最初に志士を斬り捨てた沖田でしたが、この時期、既に労咳の病であり、戦いの途中で吐血し、
四条会所へ戻ることになりました。

沖田が会所へ戻った後は、残った3人で奥へぬけ、奥の間に近藤・台所から表口は永倉
・庭先は藤堂というように、それぞれ単独で持ち場を見張ることになりました。

そこへひとりの志士が表口へ逃げ出します。

永倉はこれを見るなり後を追ましたが、表玄関を固めていた谷万太郎がこの志士を鑓で突き、
永倉は肩を斬りました。

永倉が担当位置へ戻ったところ、またひとり表口へ逃げる志士がいたので追いかけ、袈裟懸けに
斬り捨てました。

その後、永倉が庭先へまわったところ、便所へ逃げ込む志士がいたので刀で串刺しにしました。

その志士は抜刀しようとしましたが倒れ、永倉はすぐに胴へ一刀をおくります。

藤堂は、あまりの暑さに鉢金を外したところ、垣根ぎわより飛び出してきた志士に眉間を斬られ、
そのため血が目に入り戦うことができなくなり、また刀も刃こぼれしていました。

これを見た永倉は藤堂を助太刀します。

藤堂の受けた傷は深手だったため、藤堂は四条会所へ戻りました。

沖田・藤堂の離脱によって近藤と永倉のふたりになった新選組。 絶体絶命のピンチです。

ふたりは必死に戦い続けました。(もちろん表玄関の谷や原田左ノ助たち、裏口の隊士たちも必死で
戦っています)

隊士・谷三十郎は、後に「近藤先生の姿は見えなかったが、時々、ものすごい気合が聞こえ、
えッ、おうッという甲高い声が我々の腹の底へも響いて、100万の味方にも勝った」と語ったそうです。

永倉は藤堂に深手を負わせた志士としばらくの間、斬り合いになります。

永倉は志士の腰あたりに斬り込みますが、志士はこれを受け止めて、逆に永倉に斬りかかってきます。

永倉は必死に戦い続けながらも、近藤の方を見ると、近藤は志士たちに取り囲まれ、3度ばかり
斬られそうになっていたそうです。

永倉は近藤を助太刀しようとしますが、奥の間には志士が大勢いてそれもままならず、やっとのことで
先ほどより戦っていた志士の肩先に斬り込んで倒しました。

それを見た志士たち4人が刀を差し出して降伏し、永倉は、この志士たちにすぐさま縄をうって捕縛
します。

永倉は戦いの途中、手のひらを少し斬られ、また刀も刃こぼれしたため、志士の刀を奪ってなおも
戦い続けますが、絶体絶命のピンチは去ったわけではありません。

しかし、その時、池田屋の騒ぎを聞きつけた土方隊が、ようやく池田屋に到着します。
近藤たちが池田屋に突入してから、約1時間後だったそうです。

土方隊の隊士たちは大勢でドッと池田屋に押し入り、池田屋内部に隠れている志士たちの探索を
開始しました。

新選組が戦っている間、会津・桑名・一橋・彦根・加賀各藩兵約3000人は遠巻きに固め、
逃げ出してきた志士を取り押さえたに過ぎなかったそうです。

新選組が池田屋内部を探索していると、2階の天井が破れ、志士がひとり落ちてきました。

これを見た武田観柳斎が、この志士をすかさず斬り倒します。

また、表の方へ逃げた志士たちは、残らず新選組の手にかかります。

島田魁の槍が志士によって切り落とされましたが、すぐに刀で討ち果たしました。

池田屋主人・惣兵衛は手を縛られていなかったので、三条小橋あたりで捕縛された志士たちの縄を
解き放し、逃がしていました。

これに気がついた原田左之助は、志士たちの後を追いかけ槍で仕留めます。

しかし、このとき、京都所司代の桑名藩兵2名が志士に斬られ即死しました。

また、京都守護職・会津藩兵が志士を水口藩士と思い、縄をかけずに連行しようとしたところへ、
志士が袈裟斬りに飛びかかってきたのを、会津藩兵が反対に追いかけて長州藩邸前で
討ち取りました。

長州の吉田稔麿は、新選組に斬られ深手を負いますが、いったん長州藩邸前まで戻り、そこで
自刃しました。

新選組は、志士たちのリーダー格で、尊王攘夷運動の重鎮である宮部鼎蔵を捕らえようとしましたが、
宮部は「縄目の恥にはあわぬ」と言い、自刃しました。

また、長州の主要人物・桂小五郎を新選組はついに発見できませんでした。

桂は、いったん池田屋を訪れたのですが、まだ誰も集まっていなかったため、「まだ時間があるよう
だし、対馬藩邸に用があるから今のうちに・・・」と考えたのか、池田屋を出て対馬藩別邸へ
行っていたのです。

対馬藩別邸跡は、現在でいうと「京都ロイヤルホテル」あたりになるそうですが、池田屋と
京都ロイヤルホテルは、ほんの近所です。

このほんのわずかな距離の移動が、桂の運命を決めたのです。

新選組は、志士16名と池田屋主人を召し取り、京都奉行所へ身柄を引き渡しました。

この事件における志士たちの受難者は負傷後死亡を含め14人で、新選組は3人、京都所司代は2人
だったそうです。

新選組の犠牲者は、奥沢栄助(即死)・新田革左衛門(負傷後死亡)・安藤早太郎(負傷後死亡)
でした。 これら3人の墓は、壬生寺境内の壬生塚にあります。

池田屋を出た新選組は、会津藩兵と共に、近隣に潜んでいるかもしれない志士たちをくまなく探索し、
壬生の屯所へ戻ったのは、翌日の昼頃だったそうです。

この時点で、新選組は京都の町が火の海になるのを事実上防いだといえるでしょう。

赤穂浪士が討ち入りを果たし(事実は違うようですが・・・)、吉良邸から引き上げる際、沿道からは
拍手が起ったといわれていますが、壬生の屯所へ引き上げる新選組には、赤穂浪士のように
沿道からの拍手は起きなかったそうです。

なお、池田屋騒動当日は、祇園祭宵山にあたり、池田屋周辺は、祇園祭宵山見物の人々が野次馬に
多く集まったそうです。

犠牲になった志士たちのなかには、1級の者もいて、この事件によって維新が1年遅れたといわれて
います。 また、この事件によって志士たちの士気が高まったため、維新が1年早まったともいわれて
います。

池田屋内部の古写真

池田屋内部の古写真

池田屋事変跡地
池田屋騒動之址

池田屋騒動之址(いけだやそうどうのあと)

京都市中京区三条通木屋町西入北側

この石碑は、三条小橋の西、北側のパチンコ店の前にあります。

人通りが多い場所なのですが、幕末ファンであっても、気付かない人が多いようです。

「あの大事件の場所がここだったの!?」と思う人が多いみたい・・・

でも、わかる気がする・・・ そのくらい当時を偲ぶのが難しい場所に石碑はあります。

池田屋は、建坪約80〜90坪で60畳ほどのこじんまりとした旅館だったそうです。

「池田屋騒動」後、池田屋は廃業、その後は所有者が替わりながらも、昭和6(1931)年まで
佐々木旅館という名で営業していました。

池田屋事変跡地のプレート

石碑より数メートル東の歩道上に埋め込まれています。

石碑より、さらに気付く人は少ない・・・ しかも道行く人に踏みつけられたりしている・・・
(歩道上だからしょうがないです・・・)

かつては、ここに石碑が立ち、その東側に池田屋があったそうです。

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