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文久3(1863)年当時のこの地、木屋町三条上る三十五番路地に吉村寅太郎は仮ずまいを
していた。
吉村寅太郎は土佐(高知県)の人で、庄屋の生まれだった。
武市半平太の教えを受けて土佐勤王党に加わり、文久2(1862)年には土佐を抜け出して入洛、
尊皇攘夷運動に加わった。
寺田屋騒動
でいったん帰国したが、文久3(1863)年3月、再び上洛して尊王攘夷運動の中心の
ひとりとして活躍し、各藩の志士を集めて討幕軍を組織した。
寅太郎は、他の志士たちよりハンサムで京都の同志間ではひときわ目立つ存在だったという。
また、「おくに」という娘と清純な恋愛をして青春を楽しんだともいわれる。
同年8月14日、中山忠光らと
方広寺
に集まり天誅組を起こして、討幕のための挙兵をおこなった。
同年8月17日、大和五条(現在の奈良県五条市)の幕府代官所を占領した。
しかし、
京都政界の変化
によって討伐をうけ、同年9月26日、大和鷲家口で単身幕府方に囲まれ
もはやこれまでと辞世を残し敵中に突進、ハチの巣のように銃弾を受け戦死したといわれる。
27歳だった。
寅太郎は最後に「残念」と言ったことから、”残念大将”とも呼ばれるようになった。
吉村寅太郎寓居之址(よしむらとらたろうぐうきょのあと)
京都市中京区木屋町三条上る東側
京都霊山護国神社 にある吉村寅太郎の墓
天誅組墓所の碑
吉村寅太郎の墓
吉村 寅太郎(よしむら とらたろう)
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