このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
元治元(1864)年7月18日夜半、天王山と嵯峨・天龍寺に布陣していた長州勢は御所内にある
京都守護職・松平容保が参内の際に宿舎として使っていた凝華洞を目標として進軍を開始します。
天王山に布陣していた長州勢・益田右衛門介、真木和泉、久坂玄瑞らは、西国街道を北上し、
桂川付近で朝食をとり、松原通りから柳馬場通りを北上し、堺町御門を目指しました。
一方、嵯峨・天龍寺に布陣していた長州勢・国司信濃、来島又兵衛らは、二手に分かれ、
市中の警備をすり抜け、
戻橋
で国司隊、来島隊、児玉隊の三隊に分かれ、それぞれ、
中立売御門、蛤御門、下立売御門を目指しました。
午前7時ごろ、嵯峨・天龍寺から御所を目指していた国司隊、来島隊、児玉隊が御所に到達。
それぞれ戦闘状態に突入します。
御所外周の九門を閉ざして長州勢の10倍ともいえる兵力で幕府側は臨戦態勢を整えていましたが、
決死の覚悟で攻め込む長州勢に越前藩が守っていた中立売御門が破られてしまいます。
京都御苑 中立売御門(なかだちうりごもん)
京都市上京区京都御苑
幕末当時、御所は天皇が住まう場所でありながらも、ほとんど無防備な状態でした。
例えばこれは、城と比較すればわかるでしょう。
城は高い石垣や深く広い堀で守られているのに対し、御所は御溝(みかわ)と呼ばれる
文字どおりの溝が周囲を巡っているだけです。
御溝(みかわ)
かつて庶民は、この御溝の水をありがたくいただいた(飲んだ)という
しかし、それにもかかわらず盗賊なども御所の中には入ろうとはしませんでした。
それは、やはり「ここは天皇が住まう神聖な場所」という認識が彼らにもあったのでしょう。
ところが、元治元(1864)年7月19日、この御所に長州藩が砲弾を撃ち込みます。
世にいう「禁門の変」です。
「禁門の変」は、あってはならないこと(あるはずがないこと)が実際に起き、京都の人々は
信じられないと思ったのではないでしょうか。
国司隊は、中立売御門突破後、蛤御門を攻撃していた来島隊に合流します。
京都御苑 下立売御門(しもだちうりごもん)
京都市上京区京都御苑
下立売御門で桑名藩と戦っていた児玉隊も、蛤御門の激戦に合流します。
蛤御門は、会津藩が守っていました。
長州勢は、8・18の政変の仇とばかりに会津藩の守る蛤御門を激しく攻め立て、
このあたりは激戦となります。
京都御苑 蛤御門(はまぐりごもん)
京都市上京区京都御苑
蛤御門は、かつては新在家門といわれており不開門でした。
1788年の宝永の大火の際、それまで閉ざされていた門が初めて開かれたため、
「焼けて口開く蛤」にたとえて、以来、蛤御門と呼ばれるようになったといわれています。
なお、現在の蛤御門は烏丸通りに面していますが、幕末当時は100メートルほど東に入ったところで
南に面して立っていたそうです。
中立売御門を破り勢いに乗った長州勢は、会津藩の守る蛤御門を激しく攻め立てます。
長州勢の激しい攻撃に会津藩は浮き足立ちます。
あわやという時、乾御門を守っていた薩摩藩が駆けつけ会津藩に加勢し、蛤御門周辺は
修羅場のような激戦となります。
京都御苑 乾御門(いぬいごもん)
京都市上京区京都御苑
乾御門を守っていた薩摩藩は、蛤御門の会津藩に援軍を送りました。
蛤御門に残る弾痕
蛤御門には現在でも禁門の変の時の弾痕がいたるところに生々しく残っており、
激戦の様子を今に伝えています。
この蛤御門が禁門の変の最大の激戦地になったことから、禁門の変は「蛤御門の変」とも
いわれています。
京都御苑 凝華洞跡(ぎょうかどうあと)
京都市上京区京都御苑
凝華洞は京都御所南門(建礼門)の傍にあった屋敷で、京都守護職・松平容保が宿舎の
ように使っていたそうです。
松平容保は孝明天皇の信任が厚く、京都守護職在任中は御所に度々参内していました。
多忙を極めた松平容保は、時には京都守護職屋敷に帰る間もなく、そのような時には
この凝華洞を宿舎にしていたそうです。
凝華洞は、別名「御花畑」と呼ばれていました。
松平容保は禁門の変での戦いの最高責任者であり、病の床から出陣し、ここで指揮を
執りました。
京都御苑 清水谷家の椋(しみずだにけのむく)
蛤御門での激戦に、御所の内部も大混乱になりました。
中山忠能日記には、「神器を入れたる唐櫃も、縁側に並置せられた」という記述があります。
京都市上京区京都御苑
来島又兵衛戦死後の長州勢はついに総崩れとなり、御所より退却を始めました。
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |