このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
新選組について語るなら、まず清河八郎という人物について簡単に説明しておきたい。
清河八郎とは、幕末に活躍した現在の山形県出身の勤王の志士である。
清河は北辰一刀流の使い手で、また学問にも優れ、まさに文武両道の天才だ。
清河は日本の将来を憂い、幕府の不平等条約締結などによって幕府の政治に憤りを
感じていた。
清河は一念発起し、「自らが回天の先駆けとなり、天下に名を轟かさん。」と江戸に出て、
尊王攘夷の倒幕派志士たちを集め、打倒幕府のための策を講じていた。
回天とは天と地を一気にひっくり返すという意味がある。
つまり、「朝廷を再び擁立させ、日本を植民地化しようとする外国勢を打ち払い、
その勢いに乗じて幕府をも倒してしまおう」という目的である。
ところが、ある日、清河が無礼討ちで斬った町人が実は幕府の密偵であったことから、
清河は身を隠さなければならなくなってしまう。
清河を失った同士たちは、幕府によってことごとく捕らえられてしまい、清河の計画は
頓挫してしまう。
その後、清河は全国に遊説の旅に出ていたが、薩摩(鹿児島)を訪れた際に、薩摩藩が
1000人もの軍を率いて京に上り、幕政改革を企てているという情報を得る。
清河は、この機に倒幕の勅令を薩摩藩主の島津久光に下させ、薩摩藩と全国の同士とで
打倒幕府のための挙兵を実行し、一気に幕府を倒してしまおうと計画し、全国の同士に
京に上るよう要請する。
しかし、この計画も
寺田屋騒動
によって、またしても頓挫してしまう。
それでも、清河はあきらめなかった。
清河は、ついに驚天動地な発想をもって勝負に出た。
その発想とは、”敵になるはずの幕府に向けて、「身分を問わず、優秀な人材を集め、
乱れた京都の治安を回復し、将軍家茂の上洛を警護するための浪士組を結成したい」と
建言状を提出し、幕府に浪士組を結成させ、その浪士組を倒幕のために使おう”という
ものである。
清河は、”我が手を汚さずに、京都の治安を回復させたい”という幕府の事情を読み、
この計画を実行する。
そして、この清河の読みはずばりと当たり、幕府はこの建言を採用し、
農民なども含めた234人の「浪士組」が結成された。
この浪士組の募集に応じた者の中に、後に新選組の局長となる近藤勇、
同じく副長となる土方歳三、さらに沖田総司らの姿もあったが、この時点では
土方や沖田は平隊士、近藤においても一行の先回りをして宿の手配をする”先番宿割り”
にすぎなかった。
その後の探索でわかったこと
清河八郎は出羽国田川郡清川村の出身で、名前も清川八郎だったのですが、
神田お玉が池に学問と武術を教える文武指南所を開校した頃、
「川では小さすぎる、大河の河を採って”清河八郎”にしよう」と改名しました。
清河はプライド高い男だったのでしょうか。
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