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幕末期における日本の諸藩は公武合体派と尊皇攘夷派に分かれて戦いを繰り広げることに
なります。
これは幕末史において重要なポイントとなるので簡単に説明します。
時代的な背景は
幕末の背景
でも触れましたが、当時の日本は、長崎など一部を除き鎖国状態で、
ペリーの黒船来航など、海外の列強国が日本に開国を迫ったという非情に大きな出来事が
起こったのです。
開国するのか、または外国勢を打ち払うのか、意見が真っ二つに分かれ日本国中を
揺るがしました。
政治的実権を握っていた幕府は、黒船の軍事力に恐れをなし、朝廷の許可を得ぬままアメリカと
条約を締結、その結果、日本の経済は混乱を生じることになりました。
このような経緯で公武合体派と尊皇攘夷派が次第に激突するようになりました。
・公武合体
「幕府と朝廷の絆を深めるべき」と主張すること。
極端にいえば、「幕府の決定は朝廷の決定だ」というような、各藩に対する幕府の影響力を
さらに強めようとするもの。
・尊皇攘夷
「朝廷を擁立して、外国勢を打ち払え」と主張すること。
極端にいえば、「腰抜け幕府など放っておいて、これからは天皇を擁立し、幕府が外国と勝手に
結んだ条約など無視して、武力をもって外国勢を日本から追い出せ」というもの。
諸外国と次々に勝手に条約を締結していく幕府に憤りを感じていた諸藩の有力者たちや幕府内の
一部の者は、幕府の独裁政権を改めようと幕政改革に着手しようとしますが、、それをよしとしない
幕府内の一部の派閥が、安政5(1857)年4月23日、彦根藩主井伊直弼を大老に就任させ、
同年9月7日より開国思想をもっていた者(松下村塾の吉田松陰など)を処刑する、世に言う
「安政の大獄」が始まりました。
しかし、この「安政の大獄」は開国思想者たちを鎮圧するどころか、彼らの幕府への反感を強める
結果となり、万延元(1860)年3月3日、大老・井伊直弼が江戸城桜田門の前で暗殺されるという
「桜田門外の変」へと繋がっていきます。
江戸城の前で大老が暗殺されるという衝撃的な事件によって、政権の弱体化を曝け出した幕府は、
各藩への影響力を強めようと公武合体を目指します。
当時の天皇は孝明天皇。
孝明天皇は、攘夷を熱望し、安政5(1857)年2月9日、アメリカとの通商条約締結のため、勅許を
得に来た幕府の役人に許可を与えませんでした。
それにもかかわらず幕府は同年6月19日に、日米修好通商条約に調印したため、孝明天皇は
激怒し、歴代の天皇に申し訳がたたないと譲位をする決意をします。
しかし、討幕運動には反対し、公武合体運動を受けて、妹の和宮を14代将軍徳川家茂の妻にする、
いわゆる「和宮降嫁」を決定し、朝廷と幕府の政略結婚を成立させ、公武合体を実現させました。
万延元(1860)11月1日、「和宮降嫁」が発表され、和宮は文久2(1862)年入輿しました。
和宮には有栖川宮熾仁親王という婚約者がいましたが、苦渋の末に降嫁を受け入れた孝明天皇
が譲位を口にするに至り、泣く泣く降嫁を承諾したといわれています。
家茂との仲は睦まじかったと伝わりますが、慶応2(1866)年、婚礼からわずか4年あまりで家茂は
急死してしまいます。
その後、和宮は落飾して静寛院と称し、江戸にとどまって徳川家存続に尽力しました。
このように実現された公武合体ですが、尊皇攘夷を目指す若者は、藩の体制に縛られては自由な
活動ができないと脱藩するものが多くあらわれ、時代は大きなうねりを起こそうとしていました。
尊皇攘夷派の急先鋒となったのは、長州藩ですが、長州藩も元々は公武合体派でした。
しかし、文久2(1862)年、久坂玄瑞が藩論を尊皇攘夷派に一変させることに成功。
以来、幕府との緊張は高まっていきます。
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