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近藤勇、土方歳三、沖田総司について

新選組隊士のなかでも、近藤勇、土方歳三、沖田総司の3人はもっとも名が知られていると思う。

この3人は、ある意味特別な関係である。 新選組が京都に来る前の3人の関係について、
少しふれておきたい。

2003年9月4日〜10月5日の間、京都国立博物館にて、「特別陳列 新選組」という企画が
おこなわれたので観に行ってきました。
この展示は、新選組関係資料を通じて、新選組の実像に迫るというもので、今後、これだけの
資料を一同に集めるのは不可能とさえいわれていました。

写真などで見たことはあっても、「こんなの実際に観ることなんてできないだろうな」と思っていた
ものまで、展示されていたので、非常に内容の濃い、ファンにとってはおそらく感動ものの企画
だったと思います。

近藤や土方、そして沖田は、とかくイメージ先行で語られがちですが、これらの資料(例えば
直筆の書簡等)からは、その人の実像が垣間見ることができて興味深いです。

例えば、3者3様にそれぞれいずれも達筆ですが、文面にも、その人が表れているようで
興味深いのです。

まるで、書道家のような素晴らしい筆跡で、京都での生活ぶりや、最近起こった出来事などを
詳しく、長々と書き綴っているのは近藤です。

土方の書簡はより簡潔に要点のみを箇条書きで書くという感じ。

沖田については、やや筆跡が細く、いくぶん神経質そうな感じがします。 沖田の書簡も簡潔ですが、
文面からは感情があまり伝わって来ないように感じます。

これら書簡の内容も踏まえて、この3人について少し説明をします。

近藤 勇(こんどう いさみ)

天保5(1834)年、武蔵国多摩群上石原村の農家、宮川久次郎の三男として生まれる。
諱は昌宜。 幼名は勝五郎。 新選組では局長となる。

道場を開いていた父の影響で幼いころから剣術は身近にあった。
出稽古をつけに来ていた江戸の試衛館道場の天然理心流三代目近藤周助に見初められて
養子となり、近藤周助の実家の姓である嶋崎を継いで嶋崎勇を名乗る。
その後、天然理心流宗家四代目を襲名し、近藤勇となる。

試衛館の近藤周助は、多摩一円に剣術指南に出かけ、農家の青年に武術を教え、門弟300人を
超えたという。

武士階級の通う北辰一刀流ら三大流派とは違い、天然理心流は”いも道場”とからかわれていた。
天然理心流は、いわば肉を切らせて骨を截つ的な剣術で、見た目は悪いが実践的で、後の京都
での戦いにおいての勤王の志士たちとの斬り合いでも近藤ら試衛館組の方が強かったと
いわれる。

近藤の出身地、多摩はそのほとんどが幕府の直轄領-天領であった。 天領ゆえに租税は諸藩の
領地と比べはるかに安く、この地は古くから裕福な農村であった。
また、天領となると、藩主に位置する者は、時の将軍であり、徳川家に対する思いの深さは
いうまでもない。 「徳川家危急の折には馳せ参ず」、そんな気概を持つ者が多かったのでこの地
には剣術が流行った。

また、多摩地方は、敵の江戸への侵入の道筋に位置した防禦地でもあった。
領民たちに「徳川将軍家を守っている」という誇りが生まれたのも当然だった。

さらに、家康の頃から配備されていた八王子千人同心という組織は、日光東照宮の防火見回り
や、蝦夷地の警備開拓を努めるなど、長い間、常に徳川将軍家と共にあった。

近藤は農家の出だが武士になることにあこがれていた。
近藤は道場主として、将来が約束されていたにもかかわらず、 清河八郎 による建言により、幕府が
「将軍上洛警護のため、浪士組を募集する」という呼びかけに応募したのも当然のことだったかも
しれない。

近藤には決断力・統率力・包容力があり、もともと試衛館仲間からは慕われていた。
道場主という立場を見込まれてか、近藤は浪士組において”先番宿割”を任ぜられる。
234名もの浪士組の入洛までの行程を先回りし、宿の手配をする役割である。

ところが江戸を出発して2日後、事件は起こる。
文久3(1863)年2月10日、近藤は本庄宿で芹沢鴨の部屋を手配するのを忘れてしまう。

芹沢「それがしの部屋がないならそれで構わん。 しかし、この寒空のしたで宿無しではたまらん。
わしはここで暖をとることにする。」

と言い、酒をあおり、そこらの木切れは元より、戸板まで剥がして宿場の真ん中で大焚き火を
始めた。 このままでは焚き火の火が広がり火事になるかもしれない。

近藤「芹沢先生、此度のこと、平にお詫び申す。 早急に替りの宿を手配するので、焚き火だけは
やめていただきたい。」

と近藤は、気の荒い者が多い浪士組の中にあって、冷静な行動でその場を治めることに成功。

京都に着く頃には、浪士組の中でも一目置かれる存在になっていたという。

土方 歳三(ひじかた としぞう)

天保6(1835)年、武蔵国多摩群石田村の豪農、土方義諄の四男として生まれる。
諱は義豊。 新選組では副長となり、鬼の副長の異名をとる。

父義諄は歳三出生前に病没。 二男喜六によって養育される。

11歳の時、江戸の上野松坂屋呉服店に丁稚奉公へ出されるが長続きせず帰郷。 
18歳で再び江戸の呉服屋へ奉公に出るが、年上の女中と深い仲になり、妊娠を告げられて
びっくりして逃げ帰った。 しかし、兄や伯父に意見され、その夜のうちに江戸に帰り、始末を
つけて帰郷した。 この始末とはどのようなものだったかは土方家にも伝えられていない。
その後、家伝の打ち身薬「石田散薬」の行商をしつつ、剣術を身に付け始めたといわれる。

土方は石田散薬の行商で剣術道場にも出入りしていたと思われ、次第に薬の入った背負い葛篭
の上に、剣道具をくくりつけ、行く先々の道場で稽古をつけてもらったと思われる。

そのため、土方の剣術は様々な流派が入り混じり、後に入門した試衛館では免許皆伝とまでは
いかなかったが、実戦では強かったという。

安政6(1859)年3月、試衛館の近藤周助に入門する。 行商のかたわら剣術を磨き、帰宅して
からも庭先で黙々と木刀を振った。 やがて土方はメキメキ頭角を現し、「試衛館に土方あり」
といわれるようになり、浪士組の一員として京都へ向かう直前には師範代になった。

土方は、後輩の沖田に教えを受けながら人間的にも成長、京都への道中で近藤と共に、その
人柄、統率力を認められた。

沖田 総司(おきた そうじ)

天保15(1844)年?、江戸詰の白河藩邸で白河藩士の長男として生まれる。

出生は天保13年説と天保15年説があるが確定しない。 白河藩士の子というのも明らかではない
が、白河脱藩士の子とする伝聞がある。

諱は房良。 幼名は宗次郎。 新選組では一番隊隊長となる。

幼少時に両親を亡くして9歳で試衛館に入門。 12歳の時に某藩の剣術指南役を破ったという。 
出張指南には、10代の頃から出かけており、その稽古は荒かったといわれる。

近藤を兄と慕い義兄弟となり、弱冠20歳で近藤の後を継ぎ師範代になっている。
近藤も浪士組として、京都入洛後、故郷に宛てた書簡で、「自分に万が一のことがあれば、剣名
(天然理心流宗家)は沖田に譲る」と書いている。

剣術の”三段突き”は通常三本仕掛けの技だが、沖田のそれは、一技にしか見えないという驚く
べき突き技であったという。

北辰一刀流免許皆伝の藤堂平助や山南敬助らの剣豪も子ども扱いで、近藤よりも強かったと
いわれる。

親知らずの不遇な少年期を過ごした沖田の剣は、厳しく非情だったという。
しかし、京都の屯所近くの子どもたちとはよく遊び、子どもたちも沖田のことを「優しいお兄ちゃん」
と慕っていたといわれる。

天才剣士と呼ばれ、エリート武士の跡目相続付きの縁談があったが断り、恋人との結婚も拒否
して、生涯、剣の道一筋に生きた。

沖田には「将軍上洛の警護をしたい」や「武士になりたい」という思惑はなかったように思われる。
ただ、彼は、「近藤さん、歳さんについていく」というような感じで浪士組に参加したのでは
なかろうか。

背が高く、色黒で冗談を言ってよく笑う人だったとも伝わり、一般には美男剣士として描かれるが、
近藤や土方のように肖像写真が残されていないため、本当のところはどうだったのかは
わからない。

また、出生についても、あまり明らかではなく、沖田の実像には謎も多い。

近藤勇
土方歳三

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