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実は、御土居築造の真意は不明なのである。
現在では、次の二つの説が有力視されているようである。
①秀吉が京都を城下町にしようとした説
これは、御土居築造の5年前に秀吉は絢爛華麗を極めた自らの居所
聚楽第
を築き、
その周囲に武家屋敷を巡らし、さらには御土居の内側鴨川沿いに市中の寺を移転させて
寺町を帯状に形成させたからである。
寺町を城郭や城下町の外部に帯状配置するのは、秀吉以降の近世城下町の常套手段である。
それは外敵が神聖なる場所である寺の境内に踏み入ることを恐れる気持ちを利用する
心理的効果を期待したといわれている。
②治水的配慮という説
これは、鴨川、紙屋川沿いに土塁を築いているのだから、河川の氾濫の防壁として
考えられたとしても不思議はない。
西ノ京御土居
盧山寺御土居
北野御土居
盧山寺
市五郎大明神
盧山寺御土居や西ノ京御土居は、盧山寺、市五郎大明神のそれぞれの境内にある。
御土居は、秀吉死後、徐々に壊されたが、この2ヶ所に残る御土居は、社寺の境内に
あったために、現在まで残ったのであろう。
市五郎大明神は、西大路通りの一筋東の通りに面してあるが、この通りの名は、
西土居(にしのどい)通りという。
御土居の西側を南北に通っているため、この名がついた。
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