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文久2(1862)年12月、徳川幕府は、「治安を回復するため、身分を問わず優秀な人材を
集め浪士組を結成するべき」という 清河八郎 の建言を受け入れ、浪士組の結成を決定する。
治安維持にあたり、何か事が起こっても、自らの手を汚さなくてもいいという思惑が、幕府に
あったのかもしれない。

募集により集まった者は234人、脱藩者、剣士、農民、ヤクザ、儒者などで、幕府より一人当たり
10両(約30万円)が支給された。

この浪士組の中に、後に新選組局長となる近藤勇をはじめ、山南敬助、土方歳三、沖田総司、
永倉新八、原田左之介、藤堂平助ら試衛館道場の面々も加わっていた。

文久3(1863)年2月4日、江戸小石川伝通院に浪士組集合。
「将軍家茂上洛の警護のため、京都の治安を回復せよ」との命を受けて、同8日、江戸を出発。
素性の知れない浪士組のため、表(東海道)は行かせない。 中山道の木曽路越えだった。
隊長は山岡鉄舟だった。 浪士組の提唱者であるはずの清河八郎は、幹部にも名を連ねて
いないばかりか、姿さえ見えない。 清河は浪士組より一足早く京都に入洛していたのだった。

同23日、浪士組一向、京都着、壬生村へ入る。
そこへ先に京都入りしていた清河八郎が現れ、休む間もなく、浪士組を新徳寺の本堂へ集めた。

そこで清河は言い放った。
「われらは徳川幕府によって集められたが、われらの真の目的は朝廷を擁立し、外国勢力を
打ち払うことである。」と尊皇攘夷論を演説した。

突然の話に驚いた浪士組が何も言えないでいると、清河はあらかじめ用意しておいた血判状に
各人の血判を集め、翌日、京都御所の学習院へ提出、受理された。

浪士組、入洛
新徳禅寺

新徳寺(しんとくじ)

京都市中京区壬生賀陽御所町

新徳寺は臨済宗永源寺派の末寺。

浪士組が江戸に帰還するまで本陣が置かれ、幹部や清河らが宿泊しました。

また、この寺の本堂で、清河が浪士組の真の目的を宣言しました。

現在、内部は非公開ですが、元旦だけは本堂の見学とご本尊の拝観ができるそうです。

京都御苑 学習院跡

京都御苑 学習院跡(きょうとぎょえん がくしゅういんあと)

京都市上京区京都御苑

弘化4(1847)年、孝明天皇は、御所の空き地の一部に学習所を建て、40歳以下の公家を
はじめ、御所に勤めている役人たちとその子弟に学問を教えることにしました。
これは「学習院」と呼ばれ、国学や歴史が教えらました。

現在、東京にある”学習院大学”は、明治天皇が、京都以来の由緒を重んじて名付けられた
ものです。

清河八郎は、ここに上表文を提出しました。

文久3(1863)年3月3日、朝廷より「攘夷は江戸にて実行せよ」と、浪士組東下の達しが下る。
しかし、これは清河が朝廷に提出した上表文によって、ようやく清河の策略に気付いた幕府が
浪士組を江戸に戻すように、朝廷に依頼したものだった。

朝廷より、浪士組東下の達しを受けた清河は再び新徳寺に浪士組一同を集め、「これより
攘夷実行のため、江戸へ向かう」と宣言する。

だが、この清河の演説に異を唱える者が現れた。
「我等は将軍警護のために京都へ来ることになっていたはず、尽忠報国の目的を貫徹しないで
江戸に戻るのは遺憾である。 我等は不同意である」
それは、近藤勇をはじめとする試衛館グループ、さらに、京都へ来る道中、本庄宿で近藤と
トラブルを起こした水戸脱藩士芹沢鴨を中心としたグループだった。

「ようやく朝廷の許可まで取り付けたのに」と思ったのか清河は激怒してその場を立ち去ったと
いう。

同年3月10日、老中板倉勝静より、会津藩主京都守護職松平容保に残留浪士差配の命が下る。
近藤、芹沢らは、嘆願書を会津藩へ提出した。

同12日、京都に残留する浪士たちは、晴れて会津藩御預かりとなる。

同13日、清河八郎ら浪士組は江戸に向けて京都を出発。

同28日、浪士組、江戸に到着する。

清河は江戸到着後すぐに攘夷実行に向けて具体策を計画していた。
幕府はその計画を妨害しようにも、清河が勅命を受けてしまったため、表立ったことは
何もできない。

しかし、清河は文久3(1863)年4月13日、幕府が密かに放った刺客、幕府見廻組佐々木只三郎、
速見又四郎らによって暗殺された。

新徳寺

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