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天誅組始末

尊王攘夷の断行を神武(じんむ)山陵に祈願するための孝明天皇の大和行幸が、尊王攘夷派
優位の朝議で決まった。

それを受け、尊王攘夷急進派の集団である天誅組は、文久3(1863)年、公卿の中山忠光を
擁して大和に挙兵したのである。

土佐脱藩の吉村寅太郎を総裁に、藤本鉄石・松本奎堂らが参加した。

孝明天皇の大和行幸の先駆けをなそうとして五条代官所を襲撃し、この地の天皇直轄を宣言した。

十津川郷士も加えて大和高取城へ向かったが、「 8・18の政変 」により、公武合体派が盛り返し、
天皇の行幸は中止になり、天誅組の立場は一転し、反乱軍として追われる身となった。

十津川・吉野山中を1ヶ月あまり敗走の後、忠光は大坂の長州藩邸に逃れ、寅太郎・鉄石・奎堂は
戦死した。

その他、主だった者も戦死したり、捕らえられて刑死となった。

ひとり長州に逃れた忠光だったが、彼も長州で暗殺された。


天誅組が挙兵した時点では、あくまでも義兵として天皇の大和行幸をきっかけに討幕軍のさきがけ
になるという大義があった。
だから、勤王に厚い十津川郷士らも参加したわけである。

しかし、血気にはやる若者や、実戦経験のない脱藩志士や郷士たちの集団であるから、
曲がりなりにも城郭として備えを固める高取城を攻撃することは、所詮、無謀なことであった。

しかも、政変によって微妙な立場になってしまっている。
この時から脱落者が相次ぐ。

主力メンバーとなっていた十津川郷士らが、京都で御親兵として出仕していた郷士らに説得され
離反したことで天誅組壊滅は決定的となった。


ところで、天誅組の挙兵計画を知った三条実美や真木和泉は、平野国臣を派遣して、
兵を収めるよう寅太郎らの説得にあたっている。

しかし、すでに五条代官所を襲った後で、国臣は説得に失敗し京都に帰った。

ところが、京都に帰ってみると政変が起きている。

結局、国臣も、大和の義挙を応援するため、2ヶ月後の10月、生野で兵を挙げることとなった。
世にいう「生野の変」である。

この「生野の変」で敗れた国臣は捕縛され、京都の六角獄舎に送られた。

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