このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 海水浴客の移り変わり 

 海水浴場の利用者数に大きな影響を与えるのが天気である。気温が高く晴天であれば
利用者数が増え、気温が低かったり、雨が降ったりすれば、客は減るのだが、日曜日、盆休み、港祭りは平日より人出が多くなるため特に重要であったようだ。利用者は、毎年家族連れが多い。若者も多く、ボートやヨットが用意されていた数だけでは足りなかったということもあった。地元の人はもちろん東京や長野、山梨から来る人もいたそうだ。
 以下に当時の【人出について】の新聞記事等から当時の状況を伝えるものを年表風に拾ってみた。


1948年 昭和23年
七月十日開場以来八月末までのシーズンに袖師駅の勘定では、一日平均ざっと七千人から八千人、最高の人出 は八月第一日曜日の三万人でインフレをよそに前年より三、四割多くなっている。 『静岡新聞』

1956年 昭和31年
人出はざっと百万人、昨シーズンの七十万人をはるかに上廻る
太陽映画(加山、石原主演の青春もの)に刺激されてかボート八十隻、ヨット十隻、モーターボート二隻を用意してありながら、それでも間に合わないほどの繁昌ぶり。
家族連れが目立って多かった。

1959年 昭和34年 
7月21日 くもりがちだが、2千人近くの人出

  22日 どぎついサングラスに肩で風きる「愚連隊」が影をひそめ、家族連れには好適な海水浴場となつた。

7月26日 夏休み初の日曜日 三保・袖師あわせて約三万人という今夏初めての賑わい。

ー総決算ー 新盆の七月中旬が雨でたたられる。
下旬〜八月上旬は好天に恵まれたが、かき入れの「港祭り」が十月に延ばされ、昨年より2〜3割減。月遅れ盆前には台風7号にまともにあたられる。
平常の日曜日、ウィークデーは好天に恵まれたが、客足は少なく落ちた金は「あてはずれ」と言われた昨年をさらに下廻る。
臨港道路用の埋め立て開始

1961年 昭和36年 
昨年から中部横断道路が浜の中央部に設けられたため、以前ほどの豪華さはみられない。

7月15、16(土、日)連日33,34度のうだるような暑さが続く。 ちょうどお盆と重なって、今年最高の人出。

ー総決算ー 今年は三保、袖師合わせて150万人の人出。近年にない暑さと好天に恵まれてはじめから好調な出足。かきいれ時の七月盆と旧盆前後は人出の新記録をつくるほど。山梨、長野あたりからの団体客も例年以上に多く、レジャーエイジにも刺激されて客種もよい。港祭りに雨が降ったのは惜しかった。

1962年 昭和37年 
ー総決算ー 七月はじめ、淋しい感じ。以後、真夏日。台風なし。雨は5日間降っただけだが土、日に多かった。港祭りの五日は暑さ、天気ともに良く、一万六千人の人出。
以上『清水新聞』

ー当時のお客さんの様子を、アンケートからいくつかうかがってみたいと思う。ー


・海水浴場へ行くまでの道筋の楽しさ、浮き輪を持って駅から海辺までをうきうきして歩く。(清水市・45才)
・子供なので小遣いが少なく、海の家に入るお金がなかった。浮き輪が欲しかった。(清水市・53才)
・(売店の物は)子供の小遣いでは買えないので、時々しか買えません。そのかわり、買ったときは帰りは(鉄道ではなく)歩いて帰ったものです。親と一緒の時は鉄道で、子供だけの時は徒歩で行った。別荘は(駅から出て)左側の道路に沿って2階建ての家が並んでいて、東京当たりから来た人達が華やかに暮らしているように見え、うらやましく思ったことでした。(清水市・70才)



Ⅳ:一夏にどのくらい行きましたか(だいたいで)?(資料40・グラフ参照)
 「1,2回」「数回」が多かったのはうなずけるが、「15日以上」「ほぼ毎日のように」が意外に多かったことには驚いた。海水浴場に家が近い方にとっては、夏場の日課の1つとなっていたのかもしれない。


Ⅴ:袖師の海水浴場以外に当時行った海水浴場があれば教えてください。(複数回答可)
(資料40・グラフ参照)
「三保」「真崎」と近場が多く、その他のバリエーションも少し少な目ではあるが、「東亜燃料の運河」で泳いだという方が3人もいて驚いた。

 当時の写真からも、海水浴客の楽しむ姿や、子供たちのほほえましい姿がうかがえる(資料8、10・写真参照)


《海水浴客の移り変わり・まとめ》    

袖師海水浴には様々な人がきた。家から歩いてきて、交通料金を浮かす子やボートやヨットに乗って楽しむ人々。
地元の2階建ての家には、夏の間だけ二階に東京の方から来た人が下宿していた。長野、山梨からの人は○○町御一行というような団体客であった。袖師のほうからも招待することがあったそうだ
中には少数だが、危険な行為をする人もいた。たぶん昔からそういう人はいたのだろうけど、浜をバイクで走ったり、モーターボートを人にぶつけたりなど危険の度合いが増し、他人を巻き込むことが増えていたようだ
人出は、はっきりしないが、100万人来たという昭和31年頃がピークであったと思われる。また、一日の人出は最高10万人(現在の一日平均清水駅乗降者数は2万3千人)。昭和37年の1万6千人というのは、港祭りで、天気・気温もよく、三保に7万人も来ていることからすると、かなり少なく思われる。やはり、埋め立てが始まった影響は大きかったようだ。 


文責・大石


ⅳ繁栄・なぜ袖師海水浴場は愛されたか  交通:国鉄袖師駅と静鉄清水市内線

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