このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
交通:国鉄袖師駅と静鉄清水市内線
今のように自動車が気軽に使えなかった時代、人々はどのようにして海水浴場にいったのか。海水浴場への人々の輸送には国鉄静鉄両袖師駅が大きな役割を果たしていた。駅は海水浴場のすぐそばにあり、夏には、車内もホームも、海までの道も人でいっぱいであったらしい。国鉄袖師駅は海水浴客のための臨時駅であったため、海水浴場が下火になった昭和39年には廃止になってしまう。 |
【国鉄】(資料3・袖師町略図 資料11、12・写真参照)
1926年 大正15年 7月 3日 国鉄袖師駅設置 これに関しては、当区選出の代議士増田次郎が鉄道総裁後藤新平に運動し、村長柴田忍を始め滝与喜郎、望月寛次郎、平岡金平、市川虎蔵たちが尽力した。この結果、毎年七月一日より八月三十一日まで臨時停車場が開設され、海水浴客の便利が図られた。 |
1948年 昭和23年 七月十日開場〜八月末まで 袖師駅の勘定では1日平均ざっと七千〜八千人。最高の人出は八月第一日曜日の三万人。 |
1949年 昭和24年 常設駅昇格が内定したが、国鉄の機構変更により中止。 |
1962年 昭和37年 国鉄静岡鉄道管理局では浴客への便をはかるため、今年も、浴場開きの七月八日から八月いっぱいい袖師駅を臨時開設、上下各約20本の普通列車を停車。 |
1963年 昭和38年 7月1日〜8月31日、上下各二十一本の普通列車を停車。 1964年 昭和39年 袖師駅廃止。 |
【静鉄】(資料3・袖師町略図 資料11、12・写真参照)
1928年 昭和3年 港橋ー相生町間が開業。 |
1929年 昭和4年 静岡鉄道の相生町ー横砂間の電車が営業を開始。相生町から西久保までが複線。西久保から横砂までは単線。 |
1933年 昭和8年 港橋ー横砂間が全線開通。名称を清水市内線と改称。 |
1951年 昭和26年 西久保ー庵原川間をそれまでの国道1号線の中央から国道と国鉄東海道線の間へ移転 |
1974年 昭和49年 静岡、清水地区を襲った集中豪雨(七夕豪雨)により庵原川鉄橋の橋脚沈下。 |
1975年 昭和50年 清水市内線廃止 |
以下は 静鉄線について資料からの抜粋・編集したものである。
海水浴シーズンには県内外から人が集まり、国鉄・静鉄の両袖師駅から降りた人たちで海水浴場までの道は長蛇の列であった。 『創立100周年記念誌 そでし』 清水市立袖師小学校 |
・・・ 鈴木島停留所から、東海道本線を離れ、庵原川の鉄橋を渡って、軌道は密集した人家をかき分けるようにして進む。袖師停留所界隈は、新興住宅の中に小工場が点在し、沿線独特の雑多な町並みを形作っている。昔、袖師海水浴場があった頃の車内の混雑は相当のものだった。満員の乗客が運転台の仕切りの鎖からはみ出して、運転手はノッチを動かすにも苦労したという。清水市内線は開業当初は、バス路線との競争が激しく、苦難の連続だったが、太平洋戦争が始まり、ガソリン統制が厳しくなると、自動車の運行もままならぬようになるや、電車は一躍、都市交通の主役となった。しかし、戦争の痛手は大きく、清水市も、B29による空襲を受け、静岡鉄道は、多くの車両を失った。焦土の中で復旧への意欲だけを資本に、焼けただれた電車は修復され、再び走り始めた。そして、昭和20年代は、清水市内線の全盛期で電車は静岡鉄道のドル箱と言われた。朝夕のラッシュには、車外にあふれんばかりの人々を乗せて走った。港祭りや秋葉祭りの時には臨時列車が、夜遅くまで走り続けた。袖師の海水浴場が始まると、遠く県外からも客が集まり、乗客は仕切を越えて、運転席まで押し入り、車掌のカバンは、小銭で、はちきれるほどだった。自転車以外にさしたる乗り物もない戦前から戦後にかけて、清水市内線は市民の重要な交通手段であった。このような隆盛は、30年代の半ばまで続く。しかし、40年代の自動車の普及は著しく、乗客の減少と経費の高騰によって、清水市内線は赤字に転落した。 市民生活に直結する公共事業は、会社の利益だけで、縮小、廃止ができないまま、走れば走る程赤字が累積する矛盾は、交通手段が多様化した現在、地方鉄道の宿命というにはあまりにも厳しいものだった。 ・・・ (七夕豪雨)9車両の電車の中8両が浸水し、修復は全く不可能だった。会社は、それをしようとしたが、できなかった。多くの人々も、またそれを望んだが徒労に終わった。 『月曜日、電車は来ない−−−清水市内線の記録−−−』 1977年1月10日 限定1000部発行 著・発行、池ヶ谷 忍 印刷・製本 (株)三創 |
・・・ 昭和7年、静岡鉄道は、単独で東海道本線を跨ぐ軌道専用橋を作り、同年8月4日、港橋〜横砂間が全線開通した。 ・・・ 七夕豪雨の後、清水市内線は、西久保で折り返し運転をしていたが、昭和50年3月に営業を廃止した。 『写真で綴る静岡鉄道70年の歩み』 1988年 4月 静岡鉄道創立70周年記念出版 非売品 |
・・・ 戦後になりクルマ社会が大波のように押し寄せることとなり、他所の路面電車が次々と廃線に追い込まれる中、1974(昭和49)年まで走り続けたが、七夕豪雨により被害を受け、「さよなら電車」も走ることなく廃止となってしまった。 『懐かしのアルバム 静岡鉄道写真集』│ 1993年 7月 24日 監修、山本義彦 発行、森田影 発行、静岡鉄道株式会社 |
アンケートからも、当時の駅の様子がうかがえる。
・国鉄袖師駅はよしず(葦の茎で編んだ簾)が張ってあって大変涼しく、まっすぐに向かっていくと、海水着、浮き輪、ブリキのおもちゃ、バケツなど子供の目を引く物がたくさん売っていました。(清水市 70才)
・ホームで降りて踏切がすぐあって、はやる気持ちいっぱいで踏切がとてもじゃまな物だと思っていました。海岸までの50メートルの道路の両側には色とりどりの浮き輪を売っている店が並んでいました。小学生の私は海までのこの道もうろうろしました。
Ⅰ:海水浴場へ行くときに、どのような交通手段を利用されましたか?(複数回答可)
(資料39・グラフ参照)
近場の方は「徒歩」で、遠い方は「国鉄」「静鉄」「バス」で。その他の回答で「車」が2人しかいなかったのが時代を映し出している。
《交通:国鉄袖師駅と静鉄清水市内線・まとめ》 海水浴場に徒歩で来る人はだいたい地元の人で、バスや自転車の人もいたが、国鉄、静鉄で来る人がやはり多かったようだ。毎年夏になると両袖師駅から海岸までの道には人が溢れていた。そこに電車が停まることは、海水浴場へ遊びにに来る人もそこで商売をしている人にもおおいに意味のあることだったと思う。国鉄袖師駅などは、はっきりと海水浴場に来る客のための駅だ。それだけ会社にとっても有益だったのだろう。 |
文責・大石
海水浴客の移り変わり 衛生:美しい砂浜を目指して |
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