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衛生:美しい砂浜を目指して  

 袖師が浜は平安の昔から青松白砂の美しい海岸として知られてきた。この地に開かれた袖師海水浴場が大いに栄えたことも、非常に優れた環境が大きな理由の1つであるといっても過言ではない。
 ではなぜ、長年あれほど親しんできた浜を失わなければならなかったのか。

 自然のものを利用した場所が廃れるときは、衛生環境の変化が関わってくることも少なくない。ここでは当時の新聞などから袖師やその周辺の袖師海水浴場の環境の変化をうかがえる部分を年表風に抜粋して取り上げてみた。



1956年 昭和31年 
7月下旬  清水保健所の袖師、三保 衛生検査   清水保健所が袖師・三保海水浴場の業者検診      
 衛生設備・水質検査・食品衛生面等の諸検査を行う。若干の要注意業者を除いては袖師・三保ともにほぼ合格。
7月29日  三保に重油が流入
 三保海水浴場に付近の造船所から誤って重油が流れ込む。業者・海水浴客から清水保健所に「公衆衛生の面で取り締まってほしい。」との苦情が届く。関係会社も、今後十分に注意する、ということで落ちついた。
 7〜8月  袖師の衛生はあまり良くなかった。
 袖師海水浴場の衛生状態は良好といえるものではなかったが、三保海水浴場の衛生面における評判は袖師以上に悪い。付近の工場から流れ出す重油がしばしば海水浴場に流れ込んだり、市の糞尿問題にからんで南側に貯留槽を設置したため、気温や風の関係で海水浴場にまで悪臭が届いたりした。
1958年 昭和33年 [袖師海水浴場最盛期]
1959年 昭和34年 [袖師海水浴場衰退はじまる]
 7〜8月 袖師・三保海水浴場は、衛生面では問題なし。                 
1962年 昭和37年
 6月29日 清水保健所が袖師・三保海水浴場の調査を行う。
 工場の排液等によって海水の汚染が目立つようになったため、その汚染度と海水中の大腸菌・一般細菌等を調査、遊泳にさしつかえがないかを調べる。袖師・本村・真崎の三カ所で、それぞれ波打ち際、沖合10〜20m、沖合の三点から海水を取り、化学検査を行う。結果が判明するのは二日後の見込み。毎年、大腸菌や微細菌が発見され軽いかぶれや中毒症状が起きた例もあるため、調査結果によっては遊泳禁止区域を設ける方針となっている。この海水検査は7月1日(海水浴場開き)後に再び行う予定。
1963年 昭和38年
 6月下旬 真崎海水浴場で、業者が協力して清掃と一斉消毒を行う。

−海のゴミ処理問題−

市長と中学生座談会から ⑤  汚い袖師の海水浴場
司会海水汚染対策についてという質問がありますが──。
塩津(袖師)袖師海水浴場付近はゴミが多く非常にきたないと思うが対策 は──。
市長最近ゴミが多く海が汚いという声を聞くが、これは家庭にゴミを捨てないようお願いする外ないと思う。

〔昭和37年 8月 31日 清水新聞〕

 年表は『清水新聞』の記事をもとにしたものであるが、新聞に掲載されたもの以外にも、清水保健所は毎年海水浴場業者の使用する水の水質調査を行い、衛生に気を配っていた。しかし、使用している水の質が悪かったキャンディー業者が検査に合格した店から水をもらい、それを保健所に再提出、などといったごまかしも見られ、それを知っている人々も特にとがめたりはしなかったようだ。衛生に関する人々の関心、危機感がうすかったのは、それだけ袖師海水浴場が理想的な環境にあったがためであろうか。
 <しかし時代は変わる。>
 昭和30(1955)年頃になってからは、海水浴場に落ちているラムネの空きビン集めの学生アルバイトが登場する。少なくともゴミが少ない、と言える状況ではなかったようだ。恐らくラムネビンは海水浴客が売店で買い、浜に捨てたものであろうから、客のマナーは良くなかったとみられる。
 <かくして、海水浴場は衰退し始めた。>
 衰微の直接の原因は臨港道路建設による埋め立てであるのだが、衛生状態がそれに拍車をかけたことも確かだ。「工場の排液のためか、貝が油臭くなった。」「タールが流れてきて水着が黒く染まった。」「ゴミが多くなった。」等の言葉が、人々の思いで話に出てくるようになる。
 海水浴場閉鎖の際には反対運動もあったのだが、海が遠浅でなくなってしまった(埋め立てが始まる前にはすでに急深だった)上にかなり汚染されていたため、地元の人々の多くは「仕方ない。」といった感じであったそうだ。

ーそれではアンケートの中から1つー
Ⅲ:海水浴場はきれいでしたか?(資料39・グラフ参照)
「きれい」「普通」が、全体のほぼ3分の2を占めていたことに、袖師海水浴場の衛生面の良さが感じられる。しかし「汚い」と答えた方もいるのも事実である。特に海水浴場末期に行った方はそう思った方が多いのではないだろうか。

《衛生:美しい砂浜を目指して・まとめ》
 年表を遡ってみると、「水質調査」「消毒」といった衛生面に関する言葉は昭和31(1956)年で途切れ、それ以前では登場していない。戦前も衛生検査等はあったのだろうが、文章として残されていない。これは、昭和30(1955)年以前は「衛生」について関心がなかったか、もしくは、袖師・三保・真崎の三海水浴場(に限ったことではないが)共に、衛生に気を配る必要がないほどに理想的な環境であった、ということを表しているのではないだろうか。前者は、キャンディー業者や重油流入の件からも明らかである。この頃の人々は、衛生に関してひどくおおらかであるように思われる。現在、海水浴場に重油を流したことが発覚したら、「今後、気をつける」で済むわけがない。また、後者の「理想的な環境」ということに関し、『遊覧の清水』では、袖師海岸は「海明るく砂濱廣く」と、他資料にも、「袖師が浦は水清く波静かで古くから夏季遊覧の好適地」とある。『江尻町誌(五)』に「青松白砂」と謳われていることから、江尻にあった頃も良い環境の地であったのだろう。人は、理想的な状況にいる時、それを守るいうことに気づかないのだ。
 日本の産業が急速に発展し始めたのが、昭和35(1960)年前後、その反面様々な公害問題が手のつけようがないほど深刻化してしまったのが、昭和45(1970)年。袖師海水浴場の衛生問題は、これら氷山の一角と、とらえても良いのだろうか。そう考えると、汚染度からみて例え臨港道路建設が無かったとしても、海水浴に不向きとなってしまった海水浴場の衰退、閉鎖は当然の帰結であったのかもしれない。

参考: 『清水新聞』
    『遊覧の清水』
    『江尻町誌(五)』
文責・岡村

 交通:国鉄袖師駅と静鉄清水市内線 商業:奮闘する浴場業者

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