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商業:奮闘する浴場業者
海水浴場に欠かせないものが『出店』。袖師海水浴場にも数多くの土産店や、“海の家”が建ち並んでいた。果たして、どのようなものだったのか。また、どのような物が売られ、収益はどのくらいだったのだろう。 |
【売店】
海水浴場の売店で買った物があれば教えてください。(出来れば値段なども) |
結果: ・アイスクリーム〔10円〕 ・アイスキャンディー〔5円〕〔10円〕 ・かき氷 ・パン〔5銭〕 ・サイダー〔5銭〕 ・みかん水〔2銭〕 ・ジュース ・ゆで小豆〔どんぶり一杯5銭〕 ・牛乳 ・ヤドカリ ・たまねぎフライ(10円) ・焼きそば ・すいか ・焼きとうもろこし ・おでん〔1本5円〜10円〕〔1銭〕 ・はぜこ(爆弾菓子) ・うどん ・ラーメン(支那そば) ・森永ミルクキャラメル(10個)〔5銭〕〔20円〕 ・明治クリームキャラメル(20個)〔10銭〕 ・〔昭和26(1951)年以降〕ジャガイモのフライ(丸1つ) ・ラムネ〔2銭・5銭(途中から税金がかかって6銭になった)〕 ・浮き輪〔5円か10円〕 ・水泳帽 ・タオル ・ビーチボール ・水中めがね(200円) ・海水パンツ(赤ふん) ・昭和14(1939)年頃、食券が綴りになっていた。ます席のような桟敷。〔アンケートより〕 |
【桟敷】
桟敷の上で多くの人が涼んだ。この桟敷は海水浴場にずらりと軒を並べていた。
次の通り20件の業者が軒を並べている 漁業亭 ○日の出亭 ○松島亭 富士見亭 袖師亭 千鳥亭 ○高橋亭 ○東亭 ○山崎亭 清見亭 吉田亭 貝作 みどり 三竹 ※友仙亭 滝の屋 喜作 羽衣 鈴木亭 ゑびす ラッキー 大正15(1926)年(海水浴場開始時)7軒(6軒か?)<上図○、※> 間口20間(1間1メートルとして)20m 奥行25間 25m (ほぼプールと同じ大きさ 昭和36(1961)年時 20軒(上図〇、無) 最近は会社交場などの海の家も多数設けられ(中略)ている。また国鉄海の家が庵原 川口に設けられ、袖師町が経営を担当し、近代的設備をもって好評を博したが、台風 の被害を受け昭和34年(1959)に閉鎖された。(中略)観光設備として左記の 旅館・料亭が海水浴場を中心として存在している。 駿河亭 入船館 橋本屋 八千代館 嶺温泉 松島亭 山崎亭 『袖師町史』 |
また、書籍や当時の清水新聞・静岡新聞などからは、海水浴場で働く人々の喜怒哀楽ぶりががうかがえる。
1956年 昭和31年 9月 1日 落とされた(お客が使った)金は1億5000万円前後と推定され、昨年より2,3千万円増加太陽映画に刺激されてかボート80隻、ヨット10隻、モーターボート2隻を用意してありながら、それでも間に合わないほどの繁昌ぶりを示した。しかし、反面、桟敷の善し悪し、衛生等のサービス面ではあまり評判は良くなかったようである。 『清水新聞』 |
1959年 昭和34年 7月23日 海の銀座は大にぎわい。 スマートボール、反弓場、ピンポン屋と娯楽も揃っているが、ボートやヨットに人気があつまり、200隻でもまだ足りない様子。 『清水新聞』 |
1960年 昭和35年 7月 1日 今日1日から各地で海開き、梅雨もどこへやらといった好天続きに海水浴場業者は大張り切りで受け入れ準備も急ピッチ。 袖師海水浴場には廿ほどの桟敷が海岸通りにズラリ建ち並び、休業中の遊戯場、土産物、軽飲食店などもぞくぞく店開き、夏だけの海浜銀座が出来上がった。 また、組合員業者は卅周年とあって宣伝に大馬力、客寄せの名案を練っているが、何と言ってもお天気次第、数日来の暑気に幸先よしと気をよくしている。 『静岡新聞』 |
1961年 昭和36年 6月30日 手ぐすね引く業者 人出150万人を記録レジャーエイジに遊具もデラックス 袖師 昨年から中部横断道路が浜の中央部に設けられたため、以前ほどの豪華さは見られないが、それでも、浜茶屋は約20軒が店を開き、会社、工場などの海の家も多い。 施設はボート百隻などのほか、やはりヨット、和船などが用意されている。 業者はモーターボートなどのデラックスな遊具も揃えて手ぐすね引いており、浜は、近年にない賑わいが予想されている。 『清水新聞』 8月30日 大当たりだった浴場業者 どこの桟敷も大入り満員で、旧盆の十六日などは、海辺は人、人、人で水につかるのが精一杯。−−業者にとっては、まったくの「当たり年」だったようだ。 レジャーエイジにも刺激されて、客運もよく、落とした金も昨年の1.5倍は降らないだろう。とにかく、業者 にとっては、「この夏はたっぷりと稼がせてもらった。」といったところだが、それでも港祭りに降った雨は惜しかったらしく、この期間の天気さえよかったら、「所得倍増」していたのに・・・とぜいたくな不満?の声もあった。 『清水新聞』 |
1962年 昭和37年 6月30日 1年の稼ぎをこの夏にかける浴場業者にとって50万人の人出は、シーズンともなれば、1日たりとも無駄にはできない道理。 『清水新聞』 8月31日 特に、港祭りの五日は暑さ、お天気ともに申し分なく袖師へも一万六千人が繰り出し、満員おことわりの桟敷もでたほどだったというが、業者に言わせると、そこは商人・・雨こそ少なかったが、この少ない雨が、書き入れ時の土、日曜日に多かったので、・・・と逃げている。 しかし、レジャーブームも手伝って「まあまあでした・・。」という業者が多く商人の「まあまあなら、さしずめ例年よりはよかったということになり・・」“最高の年”だったようだ。 『清水新聞』 |
1963年 昭和38年 6月30日 業者はこの出足のよさにどこもホクホク。この分では今年は大いに当たりそうだとニコニコだった。 『清水新聞』 |
清水市書籍店組合では、袖師海水浴場を訪れる人々に、毎夏臨時の雑誌販売所を設けた。袖師駅を下車し、海水浴場に至る途中、大和屋旅館前であった。写真は昭和2年頃で、テントの中には若かりし頃の万栄堂書店主望月弦二もいる。新潮社のノボリは雑誌「日の出」を宣伝し、「映画と演劇」も見える。 『写真集 ふるさとの思い出 清水』 |
「おでんとかいろいろ売っていたけど、私はよく、アイスキャンディーを買ったよ。当時のお金で1本5円〜10円ぐらいだったかなぁ。駅の近くに工場があって(今はありません)、そこでつくられたのを海水浴場へもっていって売っていたんだ。」 〔話:橋本龍夫さん〕 |
海水浴場を目の前にして、一軒の水族館がありました。その水族館を経営していた山崎さんのお宅にお伺いしました。
『袖師水族館と… / 山崎兵吾さん(清水市横砂在住)』 |
・袖師水族館の船出 水族館は私の父親が経営していました。昭和12年に開業しました。これはその時の写真です。(資料15・写真参照)真ん中に写っているのが私の父親で、左端に写っているのが私です。当時は小学校二年生で、手伝いをしたのを覚えています。まだこのときは、日本も平和なときでしたが、その年の7月に満州事変がおき、世の中は戦争へと向かっていきました。 |
・日本初・水族館開業までの苦心〜アイデアマンの父親〜 父は新しいこと好きでした。人がやっていないようなことをやりたかったのです。富士宮でアイスキャンディーを作っていたそうですが、それも県内で2番目から3番目のようです。何しろアイデアマンで、この水族館もその一つでしょう。 水族館といっても、まだ当時は日本にそのような物はなかったのです。つまり、日本で初めてです。外国にはあったようですが…。何しろ、1からのスタートなので、父は様々な本をかき集めて、魚の育て方を調べていました。例えば、空気の入れ方。これがしっかりしていないと、魚は死んでしまいます。空気を送る機械で下の方から泡をポコポコ出しながら調節していました。とにかく、分からないことだらけ、まさしく一からのスタートで、父親も苦心していました。しかし、後には北海道庁から水族館開館の指導依頼も来たほどです。父親の体の調子や、北海道と静岡の気候の違い等もあり、実現はしませんでしたが…。 |
・大にぎわいの水族館 水族館は、一年中やっているわけではなく、夏場の海水浴シーズンだけです。基本的には、海産物(煮干し等の製造販売)を行っています。父親は日本各地を貨車で運送していました。 当時、もちろんのこと水族館は珍しく、また、袖師駅から海水浴場へまっすぐ行ったところの角でしたから、立地条件も良く、団体客なども来て連日多くの人で賑わいました。また、店前では、パチンコ、ウナギ釣り、金魚すくい、ボトル落とし(ボーリングのような物)をやっていました。旅館などに泊まっている人は浴衣姿できていました。 魚は、例えば、海水魚で言えばカメ、サメ、アジ、サバなど。昔は、この袖師の海で木造船でもって定置網で捕れた魚を魚河岸市場にもっていき、珍しい魚が捕れたときはもってきて育てました。淡水魚では、ドイツゴイ、ニシキゴイ、ナマズ、ウナギですね。 |
・賑わいの裏に隠された、父親の苦労と努力 水族館は多くの人に来ていただきましたが、それを経営する父の姿は大変なものでした。何しろ相手は生き物なので、一歩間違えればすべて死んでしまいます。例えばカメ。めったに手に入る物ではありませんので、カメに冬を越させるのに苦労しました。カメが凍り付いて死んでしまわないように、湯を温めたり…。また、海水浴シーズン中は毎晩見回らなければなりません。父親はあまり寝ていなかったように思います。先の話ですが、父親が死んだときとても小さかったことを今でも思い出します |
・戦争に巻き込まれて…… 今の料金表は〔大人○○円〕〔子供××円〕ですが、昭和20年以前は、これに〔軍人(在郷軍人)△△円〕というのまで付け加わっていました。つまり、切符もたしか、桃・白・水色というふうに分かれていました。戦争の影響ですね。満州事変の3年ぐらいあと、この水族館も戦争によって一時停止に追い込まれました。人に見せるのを停められたんです。その後は、この海水浴場も閉鎖(昭和17年頃)されました。ある日、海軍から「水族館を倉庫に貸すように」といわれ、逆らえないので貸したこともあったんです。 |
・戦争終結と塩づくり 太平洋戦争がおわり、海水浴場もはじまりました。水族館の建物は戦火を免れて、その後、海水引き上げ用のバキューム発動機を使って、塩づくりをしました。しかし、電気コンロの漏電により火事で焼け落ちてしまいました。そのせいで、今当時の資料があまり残っていないんです。 |
・水族館をもう一度 昭和30年頃、水族館をもう一度ということで、当時のように再現したこともありました。3〜4年ぐらいおこなったでしょうか。 |
・海水浴場閉鎖へ〜東洋一の海水浴場から港へ〜 海水浴場の閉鎖は、ここに住んでいる者にとっては複雑だったね。 夏場から台風によく見舞われて、当時は海からの強風や潮で毎年、家がやられていました。怖かったです。そういう面からすると、埋め立てれば少しは安全だなと少しほっとしました。 しかし、昔からずっとやってきた海水浴場が無くなるのは、とても寂しかった。ここは昔は『東洋一の海水浴場』とまで云われたほどなんだ。というのも、遠浅で砂浜から100メートル位行ったところでも足が着けたのだから。そんな海水浴場が無くなるなんていうのは本当に悲しいことだったけど、清水港が世界の重要湾港として発展するためには、さけて通れない事だったのだろう。でも、今もし海水浴場として残っていれば、とても貴重な存在だったと思います。 |
当時海水浴場の近くで、旅館を営んでいた駿河屋さんのお宅に伺い、呼び込みのポイントや当時の桟敷の様子を話していただきました。
『お客さんに楽しんでもらうために/駿河屋ご主人の話』 | ||||||||||
・桟敷(27店)あった。 ・呼び込みをやっていた。
・夜、芸者を呼んで三味線を引かせたりした。(宴会) ・夜の0:00頃まで営業。 ・食堂から桟敷まで、かつどん等の出前をした。(好評だったのはカレー、すし、ラー メン。カレーは夜1:00頃から作り始め、大鍋三つ分100人前になる。) 食事が余ったら近所・同業者等に振る舞った。食堂の従業員はアルバイト含めて40 人位を使っていた。 ・シャワー、風呂の設備があった。 ・ラッキー会館(現パチンコ店)では様々なショー(歌、ダンス等)を行い、また、射 的、金魚すくいも用意していた。 ・海水浴期間の日曜は5回、そのうち2日が雨ならまあまあ、3日雨なら損。 ・海水浴場は海水浴期(7/1頃〜 8/31頃)のみ県から借りている土地なので、9月に入ったら桟敷はすぐ取り壊す。 特徴:格式髙い。派手。 国鉄袖師駅廃止後、他の店は営業をやめたが駿河屋は昭和38年頃まで営業を続けた(防波堤が作られても海水浴に来てくれた人がいた。) ・普通の休日の客は5〜6万人。 ・小学校等の水泳教室もあり、桟敷とは別区画(波多打川方面)に各団体のテントが立ち並んだ。駿河屋前の道路には、戦前は、イタリア、ドイツ、フランス人等の別荘が建っていた (薩川組前、今も跡が残っている。) ・港工事前に行った護岸堤防の工事のため、客足が遠のいた。 ・海岸では、ハマグリがよく獲れた。 |
《商業:奮闘する浴場業者・まとめ》
海水浴場の花ともいえる桟敷や出店など。海水浴場は、はじめにも示したように『産業的』意味合いが大きく関わってくる。 調べていく中で特に印象に残ったのが、とても活気に満ちあふれていたんだなということである。何らかの形で、売り上げなどをグラフに出来ればと思っていたが、それは出来なかったものの、受け入れる立場で働く人、お客さんとしてきた人ともに喜んでいた様子が頭の中に浮かんできた。 しかし、先の『山崎兵吾さん』『駿河屋さん』話からも分かるように、見えないところで、相当苦労していることがうかがえる。特に、天気という人間の手に負えないものは、特に休日、たった一日雨が降っただけで、また1度気温が低かっただけで一年の相当売り上げも相当(今でいえば数百万、千万も)変わってきた。また、隣はすぐにライバル店である。自分たちの独自性、良さをどんどんアピ−ルしていかなければ取り残されてしまう。2ヶ月短期決戦という浴場業者の人々の絶え間ない、苦労、努力、工夫。これが、袖師海水浴場を支えた大きな力になっていったことはいうまでもない。 文責・袴田 |
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