このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

地元:袖師の人々と海水浴場


 袖師海水浴場を訪れたのは遠方より来た旅行者だけではない。むしろ清水市、特に袖師横砂方面の人々の方が多いくらいだ。利用者としてだけでなく、海水浴場の経営にも、地域の人々は深く関わり、海水浴場と共に生きてきた。

【江尻海水浴場】

8月
海水浴は此の月に至りて益々賑はふ。近年海水浴の盛なると得に、東京付近或いは京都辺りよりも避暑の目的を持って青松白砂の楽地に遊ばんとする者多くなりたり。
為に町家にては二階或いは別屋等を有する者の家には借家を為す者多く夏時は尤も活気に満ちる時季と云ふべし。
『江尻町誌(五)』

・・・海水浴場の存廃は延て江尻町の盛衰消長に懸る事
・・・撤廃に拠って生ずる江尻駅の収入及び同町の損失は甚大にして同町の重大な問題なり。
『清水市史資料 近代』
3月
潮干狩・・・江尻海岸では馬刀貝が採れた。何れもこの獲物で磯の香りの夕食が味わえた。
『江尻』
6月
 子供は学校から帰ると教科書の入った荷物を放り出し、ふんどしを丸め手ぬぐいの端に包み、帰りの駄菓子屋の小豆湯代5厘か1銭を母にねだって出かけ、夕刻まで泳ぎ・・・
『江尻』

袖師へ移転後、袖師の人々も江尻同様、東京などから来た海水浴客に家の2階を貸していた。 

【袖師町】


 袖師海水浴場では去る三十三年に海水浴場の中央入口に「町立救護所」を設置、対策に本腰を入れている・・・この救護所には毎日役場の職員一名、日赤支部又は清水保健所の看護婦さん一名、それに婦人会や青年団の有志が順番につめ、配置をかためているほか、中学校の上級生五、六名が協力、迷子などの保護に当るなど町民こぞって明るく楽しい安全遊泳に協力しており、海水浴客から感謝されている。
『昭和35年 7月 27日 清水新聞』

 ・・・国鉄海の家(資料9・写真参照)が庵原川河口に設けられ、袖師町が経営を担当し、近代的設備を以て好評を博したが、台風の被害を受け昭和34年(1959)閉鎖された。
 『想い出のアルバム 明治 大正 昭和』

・・・袖師へは救難所を設置することになった。
・・・地元PTA、婦人会、子供会世話人、青年団員などが奉仕にあたることになっている。
『1961年 昭和36年 7月 26日 清水新聞』


【漁業組合】


 漁業組合経営の貸しボート屋(海水浴場開場から閉鎖まで継続)が2〜3店あり、監視人を兼ねていた。有事の際は救難活動の中心となった。
 又、(海水浴客相手というわけではないが)地引き網を横砂海岸で行い、手伝った人はアルバイト料と魚がもらえた。
 いずれにしろ、海水浴場運営に漁業組合が加わったことにより、かなりの活気がもたらされたといえる。
(海水浴場閉鎖に関し、漁業組合に権限があったわけではない。)
 『話:魚業組合の方』


【学校】(資料16・写真参照)


  清水東高(旧制庵原中学) が、袖師海岸水泳訓練(昭和3年)    (私たちの学校です。)
 『七十年のあゆみ』

 ・・・袖師中学校では夏休みを前に水の恐ろしさと、水の危険から身を守ることを子供たち自身に教え込もうと、十三日から十五までの三日間、袖師海水浴場で全校生徒による水泳教室を開くことになった。水泳場の選び方、準備運動の仕方、水泳中の注意、水泳後の始末、救助法、人工呼吸などについてみっちり指導し、夏休み中の水泳がより安全に出来るように・・・というもので、PTAも協力、遠泳による泳力調査なども同時に行う事になっている。
『1961年 昭和36年 7月 11日 清水新聞』

袖師小学校も、授業の日課として教員に引率され水泳に行った。
『創立100周年記念誌 そでし』


《袖師の人々と海水浴場・まとめ》

 これらの資料から、海水浴場は江尻町にとっても袖師町にとっても、商業、娯楽、様々な面において欠かせない存在であったことがうかがえる。救護所に協力する有志の存在に、自分達の地域にある海水浴場に親しみや愛着、責任、そして誇りをもって接していた地域の人々の重いがにじみ出ている。
 そんな海水浴場が埋め立てられる時、人々はどんな気持ちであったのだろうか。

文責・岡村

 保安:「事故を減らせ!」安心して泳げる海水浴場 ⅳ繁栄・なぜ袖師海水浴場は愛されたか

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください