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ローカル鉄道の本質





   序〜〜「長い旅」の予感
   「終わり際がしぶとい」ローカル鉄道
   なぜ鉄道が成立したのか(物理的機械的特性)
   なぜ鉄道が成立したのか(社会における救世済民)
   ローカル鉄道経営のセーフティネット
   定説に対する見解




■序〜〜「長い旅」の予感

 本稿は、おそらくきっと「長い旅」になる。

 まず、改めて記すまでもないとも思われるが、筆者は鉄道が好きである。そして、いわゆる「鉄道趣味」から鉄道の世界に入った。しかし、「鉄道趣味」のあり方に疑問、さらにいえば嫌悪の念を持つようになったのは、いつのことだったであろうか。

「鉄道趣味の世界では、古いもの、マイナーなもの(1両しか存在しない変わり種車両のような)、鄙びているもの、等々が尊重される傾向にあります。…(中略)…世の中では、最先端なもの、メジャーなもの、繁華なもの、等々が尊重されるのが普通です」

 
「『数は力』〜〜鉄道車両の技術的価値」 において紹介した一文だが、これはまぎれもなく筆者の本心である。古さ・マイナー・鄙が好き、というのはまさに「趣味」の領域に属するものだから、その全てを否定することはできない。しかし、鉄道という社会の公器に対する期待とは、大幅に乖離した感覚であることもまた確かである。

 筆者が「鉄道趣味」から距離を置き始めたのは、昭和60(1985)年の経験が契機である。当時の心境を記した一文がある(執筆時期は平成元(1989)年)ので、かなり長いが以下に紹介する。なお、文意が通りやすいよう一部を改編している。



 雄武を後にする。市街を出て、川を越えたところで雄武共栄。木製の短く簡単なホームがあるだけといった、例のスタイルの簡易乗降所である。駅名標と待合室は消えている。雄武市街で外されていたレールも、このあたりまでくると残されている。とはいえ、うんざりするほど草深い。たったの 4年でこうなるものか。
 それにしても、再びこのホームの上に立つとは、正直考えてもいなかった。あれは 4年と 5ヶ月前、興浜南線廃止の 4ヶ月前のことである。

 当時、筆者は一年の浪人を経て、大学の二次試験を終えたばかりだった。鉄道が好きで好きでたまらない筆者ではあったが、鉄道旅行そのものを楽しんだことはほとんどなかった。それに北海道に対する漠然とした憧れ、特定地方交通線のバス転換が目前に迫った焦り。筆者は受験後に特定地方交通線乗りつぶしをすることに決めていた。
 筆者は「利尻」に乗り込んだ。窮屈な14系の座席に押し込められたとはいえ、筆者は満足していた。浪人生活を終える解放感と、列車に乗っているというただそれだけの嬉しさに。
 稚内に着き、ノシャップ岬で沖を漂う流氷を見た筆者は、休む間もなく天北線724Dに飛び乗った。白一色の光景に退屈して、「少年ジャンプ」など読んでいたあたり、今考えれば馬鹿なことをしていたと思う。
 浜頓別で興浜北線925Dに乗り換え。前の列車の通過から既に 3時間以上経ち、線路上に風が雪を運んできたため、列車はどうしても遅れがち。北見枝幸 5分回転の筈が、 1分で折り返すことになった。
 本当は、そんな短い時間で引き返したくなどなかった。一列車遅らせてでも、枝幸という町を歩いてみたかった。そうしなければ、興浜北線に乗った意味などないと思っていた。けれど、周遊券の有効期間とたくさんの路線をつぶしたいという欲求のジレンマ。筆者は入場券の購入で我慢することにした。
 925Dの座席は半分ほど埋まっていた。しかし、地元の利用客はほとんどいないようである。そして、925Dが北見枝幸駅に到着した途端……。
 その大半が出札口に殺到した。たった 1分の間に、これだけの人数が入場券を購入しようというのだ。熟達した駅員が配置されていたとしても、時間内に捌くのは難しい。しかも、唯一の駅員である駅長はタブレット収受に回っている。「早く売れ!」と怒号が飛ぶ。出札口に戻ってきた駅長は、明らかに不愉快な顔をして、他所者の要求に応えた。
 926Dは数分遅れて北見枝幸駅を出発した。入場券を入手した他所者たちは、一様に満足そうな顔をしている。車窓を見ている彼らは、時折歓声をあげる。
「わぁ〜っ、流氷がきれいねえ」
 その一方で、デッキに立っている行商のおばさんがつぶやいている。
「まだ氷が離れていかん……」
 筆者はこの時ほど、自分らの立場の身勝手さを痛感したことはなかった。我々の目を楽しませる流氷も、地元の人々にとっては邪魔な存在でしかない。そして我々は、脳天気にも、興浜北線の廃止をイベントとして楽しんでいる。
 先ほど歓声をあげた一群が、典型的な趣味者でないだけに、筆者の気は一層重くなった。まさしく彼らは、鉄道の魅力や存在意義を知らない。ただ路線がなくなるという理由だけでこの地に集まり、入場券などのアイテムを貪ぼり、流氷に嬌声を発しているだけである。鉄道が利用客のためにあるものだと、彼らは明らかに認識していない。
 実に、彼らは利用者ではないのだ。なぜならば、興浜北線が廃止にならなければ、彼らがこのキハ22の単行に乗ることなどありえなかったからだ。仮に日本国が太っ腹で、全ての国鉄線を存続させるようなことになったならば、どれだけの人数が興浜北線に蝟集したことか。
 他所者が、ほんの僅かな時間で地元に融け込むことなど、所詮無理なことかもしれない。けれども、郷に入っては郷に従う姿勢を見せるべき、あるいはこのいいかたが強過ぎるならば、旅行は日常世界の延長であってはならないという信念が、筆者にはある。なのに、我々他所者がしていることといえば、単なるウィンドーショッピングではないか。自分の毎日の感覚をそのまま興浜北線に持ち込んで。ただ、見るだけ買うだけではないか。
 急行「天北」の車内で、筆者はまどろんでいた。まだ午後 2時を回ったばかりというのに、陽がすっかり傾いたように感じられる。近くの席には、夕べの「利尻」にいた顔が見える。筆者の心はますます重くなっていく。
 美深で美幸線925Dに乗り換える。やはり、地元利用客は少ない。明らかな趣味者が、車内の空気を支配している。
 仁宇布に到着。925Dはたった 6分で、926Dとして美深に引き返していく。車内にいた数人の趣味者は、そそくさと入場券を手に入れ、何の後ろめたさを見せずに仁宇布を去っていく。
 筆者は 3時間後の928Dを待つことにした。陽が暮れる前に周辺を散策する。道道を少しく枝幸側に歩き、未開業区間の路盤上に入り込んでみる。雪が深い。それをかきわけ、真新しいバラストを掘り起こす。
 未だ開業の陽の目を見ない、怨念のこもったバラスト四個を手にして、仁宇布駅に戻る。待合室でガンガンと焚かれているストーブがありがたい。
 待合室には落書帳がある。読んで、吐き気が込みあげてくる。なんとも、身勝手な文面の羅列。そのことごとくが、美幸線の本質を理解していないとは。
 美幸線928Dから宗谷本線348Dとつないで名寄で「紋別」を拾う。深夜の遠軽で「大雪」に乗り込み、札幌へ。
 翌日は幌内線・函館本線上砂川支線の順につぶして暮れる。やはり趣味者の行動に辟易した一日ではあった。また「大雪」に乗って、遠軽を目指す。
 明払暁、名寄本線622Dから、渚滑線721D・724D・726D、名寄本線628Dと乗り継いで、興部に到着。628Dから 1両キハ22が切り放され、興浜南線825Dとして雄武に向かう。次の828Dで戻っても 1時間38分待つ。どうせならと思い、更に 1時間50分後の830Dに乗ることにする。雄武での待ち時間は、都合 3時間半。この間、何が出来るか?
 駅北方の未開業トンネルを見聞し、港に残る流氷を踏みしめ、食糧を補給してもなお時間が充分残る。そこで筆者は、ある計画を実行に移すことにした。
 簡易乗降場から、列車に乗ろう。そう決めた。雄武共栄まで、高々 4kmの距離だった筈。 1時間もすれば歩けるだろう。
 何故こんなことを思いついたか、わからないままに行動していた。ただ、ほんの少しでも変わったことをしようという意志が働いていたことは確かだ。自分以外にする者がないことをしてみたい! 自尊心と衿持、自己顕示欲と多くの趣味者への批判がまぜこぜになった、はかない感情。
 雄武共栄にはあっさりと着いてしまった。かえって時間が余り過ぎる。待合室に入り込んでも、寒い。震えながら、列車の着くのを待つ。
 827D、接近。筆者は簡易乗降場から少しく離れて、様子を見守る。乗車客、ゼロ。降車客、一名。その唯一の降車客は女性のよう。真っ赤なジャンパーが、一面白の雪原に鮮やかに映えている。
 赤い点は、ゆっくりと確実に、雄武市街へと向かっていき、そして視界から消えた。
 暮れなずむ雪原に、830Dが現われた。 1両分しかないプラットホームに合わせて停車する。ドアが開き、乗り込む。暖房が効きにくいキハ22とはいえ、外に比べれば別世界のようだ。異様な風体で乗車した筆者に向かい、車掌さんが訊く。
「どちらまでですか?」
 周遊券を持っていることを隠して、筆者は答える。
「元沢木まで」
 車掌さんは律儀にも、元沢木直前になって、「もうすぐ元沢木ですよ」
 と教えてくれた。さすがに、良心が痛む。結局、自分のしていることはただの趣味者の行動ではないか。

 今となって、自分の発想と行動について、少しは納得のいく説明が出来るようになった。あれは、世の趣味者と自分自身に対してのささやかな抵抗であったと。そして、今自分がしていることも実はそうなのであると。
 雄武共栄の粗末なホームの上で、独り、感慨にふける。ここにまた来たのだと。あのときの思いを噛みかえしながら。



 そして筆者は、この一連の文章の冒頭に、こんな文をも記している(同じく文意が通るように若干改編)。



 筆者は、線路それ自体に強く魅かれる。ある路線がどのような経緯で敷かれたかを考えることは、興味深い。また、どのような工夫をもって建設されたかを考えることも、大変面白いことである。
 そして、現地の風景をこの目で見、空気を肌で感じることによって、「鉄道路線史」を構築するうえでの助けとしたい。



 今日から顧みてはもとよりのこと、当時既に「浮いた表現だな」と自覚したほど気障なものだが、いちおう本心である。

 筆者には、「なぜこの鉄道が成立したのか?」と疑問に思える路線がいくつかあった。その謎を解明するため、マウンテンバイクにまたがり廃線跡探訪を始めたものだ。困ったことに、謎は簡単には解けてくれなかった。光陰矢の如し、時間はあっけなく経っていき、今や筆者も不惑と呼ばれる年頃に達してしまった。

 最近ようやく、謎を解く鍵が二つ見えてきた。その一つは、どれほど廃線跡を探訪したところで見えてくるものではなかった。今日の廃線跡の風景には、その路線の発起当時にはなかった要素が付け加わっている。その要素は、一種の障壁となって、鉄道という交通機関の本質−−物理的特性を覆い隠していたのである。

 もう一つは、改正鉄道敷設法に対する解釈である。これについては既に筆者なりの見解を呈しているが、改めてまとめておきたいと考えている。

 本稿は、この「以久科鉄道志学館」を興した動機の根底にもつながっている。ひょっとしたら、本稿を書き上げてしまえば、さらに書き継ぐものがなくなってしまうのではないか、という危惧もないではない。しかし、まだ若い年齢とはいえ、筆者にもいつ生の涯が来ないとも限らない。節目の歳を迎え、出し惜しみするよりも、書けることは書き切ってしまうことを、筆者は選ぶ。そんな「長い旅」に、最後までおつきあい頂ければ幸甚。





■「終わり際がしぶとい」ローカル鉄道

 ローカル鉄道は概して需要が少なく、コスト削減にも限界があることから、厳しい経営を強いられている会社(路線)は決して少なくない。それどころか、鉄道として存続する社会的意義が乏しいところも散見される。ところが、いくら経営が厳しくとも、存続する社会的意義が疑わしくとも、「終わり際がしぶとい」会社(路線)がいくつかあった。



【寿都鉄道】
 黒松内−寿都間16.5kmの路線。大正 9(1920)年に開業。
 水産物輸送に活況を呈した時期もあったようだが、戦後のトラック輸送発達に伴い急速に衰微した。営業最末期は片道1本のみの運行という、どのようなダイヤを組んでいるのか、きわめて不可思議な鉄道であった。
 水害により不通となり、昭和42(1967)年休止、昭和46(1971)年廃止。休止から廃止まで 4年と比較的長い期間を要したあたりに、営業継続の未練がうかがえる。

【北海道拓殖鉄道】
 新得−上士幌54.3kmの路線。昭和 3(1928)年に新得−鹿追間が開業。
 一時は林産物輸送に活況を呈したこともあったようだが、全般に需要が少なく、厳しい経営を強いられた。士幌線との競合に対抗しがたく、昭和24(1949)年に東瓜幕−上士幌間を廃止、この時点で3分の1以上の路線を失うことになる。
 残存区間は低調ながらも、かろうじて営業を続けていた。しかし、まず昭和40(1965)年に瓜幕−東瓜幕間が休止となる(廃止は昭和42(1967)年)。残る新得−瓜幕間28.7kmは、十勝川橋梁や熊牛トンネルなど設備の老朽劣化が進み、当局から改善命令が出るほど状況が深刻化した。やむなく順次営業範囲を縮小し、最末期は新得−屈足間に朝夕1往復のみ運行という有様だった。新得−瓜幕間では休止届が出た形跡がなく、 西武鉄道安比奈線 と同じく「列車の走らない営業線」扱いだったらしい。昭和43(1968)年に廃止。

【南部縦貫鉄道】
 野辺地−七戸間20.9kmの路線。昭和37(1962)年に千曳−七戸間が開業。
 建設途中に資金不足に陥り、二度も工事中止に追いこまれるなど、経営展望は最初から厳しいものがあった。開業時点でレールバスが投入されたあたりに、旅客需要は少ないと予測されていたことがうかがえる。輸送の太宗となるはずだった砂鉄輸送は「むつ製鉄」の挫折により消滅した。
 貨客とも需要は極小で、客観的にはいつ廃止になってもおかしくなかったが、低空飛行のまま営業が続けられた。とうとう平成 9(1997)年に廃止されるはずが、「お名残乗車」の活況に意を強くしたのか、休止に切り替えて復活を図ることになった。しかし、動きが止まった鉄道に利あるはずもなく、平成14(2002)年正式に廃止された。

【茨城交通茨城線】
 赤塚−御前山間25.4kmの路線。大正15(1926)年に茨城鉄道として赤塚−石塚間が開業。
 開業当初から低調な経営に喘ぎ続け、昭和19(1944)年に湊鉄道・水浜電車などと合併、茨城交通の一路線となった。この合併は、一般的には戦時統合と理解されているものだが、茨城鉄道にとっては水浜電車による救済合併の色彩が濃いものであった。
 戦後に至るも経営は低調なままであり、昭和28(1953)年以降休廃止の提案が断続的に呈された。しかし、沿線自治体から同意がとれず、合理化を進めながら営業が続けられた。その間に茨城交通はバス事業を基幹とする会社に変質、鉄軌道部門の柱であった水浜線は道路事情の悪化により強いバッシングを受け、昭和40(1965)年に部分廃止が始まった。翌昭和41(1966)年に水浜線は全廃、同時に茨城線も石塚−御前山間が廃止された。茨城線の全廃は昭和46(1971)年で、経営きわめて低調であったにもかかわらず、水浜線より遅くまで余命を保った。

【善光寺白馬電鉄】
 南長野−裾花口間 7.4kmの路線。昭和11(1936)年に南長野−善光寺温泉間が開業。
 長野から日本海に抜ける鉄道がいくつか模索されるなかで、裾花川に沿うルートは最も険阻で、沿線人口は少なく産業集積も稀薄であった。柵(しがらみ)、鬼無里(きなさ)、日影と、古の村名からして絶地の趣がただよう山深き土地を縫う鉄道が発起されたとは、合理性を超越する気宇壮大な構想と評すべきであろうか。
 もっとも現実は厳しく、起終点とも中途半端な位置で開業せざるをえず、延伸を図ったもののわずか一区間にとどまった。在籍車両は貨客それぞれ 2両ずつの小所帯で、需要ははもとより細く、厳しい経営が続いたが、営業継続及び路線延伸の意欲は高かった。
 ところが昭和19(1944)年、不要不急の路線として営業休止命令を受け、レールや鉄橋などを供出する事態に直面してしまう。インフラストラクチャーを失って営業を続けられるはずがなく、営業休止となる。戦後になって営業再開を図るも、宿願を果たせないまま休止状態で推移し、正式な営業廃止は実に昭和44(1969)年までずれこんでいる。

【北恵那鉄道】
 中津町−下付知間22.1kmの路線。大正13(1924)年に開業。
 福沢桃介によって発起された鉄道であり、電力事業を展開するうえでの一部であったとも思われるが、実質的には森林鉄道に近い、ごく低規格の鉄道であった。実際のところ、需要の太宗は木材輸送だったようだ。
 一時は活況を呈したものの、戦後のトラック輸送発達に伴い、急速に衰微した。名古屋鉄道の傘下に入り経営立て直しを図るも、需要の薄さは如何ともしがたく、徹底的な合理化が進められた。最末期には日中の列車がなくなり、朝夕のみ運行というさびしいダイヤとなった。このダイヤになった時点で既に、バス代替は可能であったと思われるが、鉄道の営業はなおしばらく続いたことになる。昭和53(1978)年に廃止。

【北丹鉄道】
 福知山−河守間12.4kmの路線。大正12(1923)年に開業。
 福知山から日本海沿岸に抜けることを企図した、気宇壮大な鉄道であったが、実際にはごく低規格の鉄道であり、終点はいかにも中途半端な立地にとどまっていた。一部区間が河川敷に設置されていたことから、たびたび水害に遭い輸送も安定しなかった。それ以上に需要が細いことが苦しく、低調な経営が続いた。
 昭和46(1971)年休止、昭和49(1974)年廃止。休止から廃止まで 3年を要したあたりに、営業継続の未練がうかがえる。



 このほかにも、蒲原鉄道やえちぜん鉄道や有田鉄道や紀州鉄道なども「しぶとい」鉄道の事例として挙げられるだろう。確かにこれらの鉄道においても、「なぜ鉄道を敷くか」という発起時点の動機は共通しているように見受けられる。そしてそれ以外の要素として、「経営不順でもなぜ敢えて営業を続けたのか」「営業再開の展望が開けないのになぜ休止状態を続けたのか」という部分の動機づけは、寿都鉄道ほかの事例に典型的にあらわれていると考えられるのである。





■なぜ鉄道が成立したのか(物理的機械的特性)

 筆者は以前、鉄道衰退説は虚構にすぎないという仮説を呈示している。

   
鉄道は衰退したのか?〜〜信州の鉄道を例として(平成14(2002)年 9月28日)
    「鉄道衰退説」再論(平成17(2005)年 2月15日)

 この考え方は、今日でもほとんど変わっていない。しかし、淘汰されるべき鉄道路線がなぜ成立しえたのか、という部分の説明が不充分であったとは感じている。

 例えば、筆者は以前、上田交通真田傍陽線の写真を見たことがある。一両の電車が一両の貨車を牽引しているという、たいへんのどかな写真だった。ところで、この写真を冷静に眺めてみれば、貨客とも一両ずつで間に合う程度の需要しかない、ということになる。その程度の需要で、なぜわざわざ鉄道を敷く必要があったのか。

 同じような疑問は、 天塩炭礦鉄道 の記事の下調べをしていた時にも感じたものである。たいへんな苦労をして敷いた鉄道だというのに、1日わずか4往復の設定しかなく、それも運営費補助の条件として無理に確保していた様子なのだ。根本的には天塩礦の生産量が想定を大幅に下回ったことに由来するとはいえ、仮に生産量が倍になっても同じダイヤで輸送をまかなえたと考えられることから、大量輸送のための鉄道という発想ではなかったと指摘できる。

 では、いったいなぜ、かような鉄道が成立したのか。まっすぐ答えようとすると難しいので、反対側の時間から見ていいかえてみよう。なぜその鉄道は廃止になったのか、と。本稿では既にその理由の一端を示している。「トラック輸送発達に伴い」という理由は、間違いなく答の一部であろう。しかし実は、これだけでは説明が不足している。ほんらいは、ここまで記述しなければいけない。「舗装道路の整備進捗とトラック輸送発達に伴い」と。

 この「舗装道路」こそが、廃線跡の風景に立ちはだかる障壁であった。「舗装道路」は、廃止となった鉄道の成立時に存在しないインフラストラクチャーである。注意しなければならないのは、砂利道は最も簡便な舗装道路の一種、という点である。その意味において、現代社会に未舗装道路はほとんど存在しないと考えてよい。



 模式図



 不出来なもので恐縮だが、上の図を見てほしい。これは鉄道・舗装道路・未舗装道路の荷重支持を模式的に表現したものである。

 鉄道の場合、車輪の荷重をまずレールが受ける。レールの剛性は高いので、荷重は相当程度前後方向に分散される。また、レールは枕木に固定されているため、横方向にも分散される。面的に分散された荷重は、さらにバラストにより分散され、支持地盤に伝わっていく。以上に示したとおり、鉄道の荷重支持メカニズムはたいへんすぐれたもので、車輪−レール間を除き、スリップはまず起こらない。

※列車の荷重はバラストを通じて分散していくため、バラストどうしが荷重を受けながらこすれあい、摩耗していくことになる。最終的にはバラストは細粉と化して、支持地盤と変わらなくなってしまう。ローカル鉄道の写真で枕木が泥に埋もれている写真を見ることがあるが、この泥はバラストの成れの果てである。


 舗装道路の場合も、ほぼ同様である。車輪の荷重をまず舗装が受ける。アスファルトかコンクリートかで剛性が異なるものの、荷重は面的に分散されて、さらにバラストにより分散され、支持地盤に伝わっていく。砂利道もこれに準ずる格好で、硬いバラストの一粒一粒を通じて荷重が分散するのである。

 ところが、未舗装道路の場合、荷重支持メカニズムがまったく異なる。車輪がいきなり支持地盤に接してしまう。そのため、荷重分散が働かない。しかも日本においては、支持地盤はちょっとの雨で泥濘と化してしまう難物だ。スリップどころか、ぬかるみに車輪をとられて立ち往生、という事態に頻繁に直面することになる。

 つまり、道路が未舗装道路である限り、自動車がどれだけ立派なものであっても、力を発揮できないのである。日本の道路の多くが未舗装であった時代、巨大な力を発揮できるインフラストラクチャーは鉄道しかなかった。小型蒸気機関車であろうとも、百トン単位の貨物を牽引するほどのパワーはある。その力を応用すれば、除雪などの作業は必ずしも難事ではない。

 軽便鉄道法以降、日本の各地で需要零細なローカル鉄道が求められた背景には、以上のような理由があったのである。泥濘と化す未舗装道路しかなかったという社会状況があればこそ、需要の多寡という経済合理性をまず考慮の外として、鉄道は巨大な力を発揮するために必要な、荷重分散メカニズムとして社会的に求められたインフラストラクチャーといえるだろう。

 以上のように考えると、マッチ箱客車をつないだ軽便鉄道、深山まで四通八達した森林鉄道、トンネル工事のトロッコなどは、実は同じレベルで着想されていると理解できる。つまり、鉄道に求められていた機能とは、荷重分散メカニズムとしての物理的機械的特性が最優先であったと想像されるのである。

 C11207
 函館で出発を待つC11207。国鉄にあっては小型機であるが、ローカル鉄道においては巨大な力を発揮する。未舗装道路というインフラストラクチャーの上では、どれほどすぐれた自動車があっても、これほどの力は発揮できない。平成17(2005)年撮影。





■なぜ鉄道が成立したのか(社会における救世済民)

 日本の鉄道ネットワークの主要区間は、19世紀中に開業している。しかも、その大部分は民営鉄道によってつくられており、国の手により開業した路線は事実上、東海道本線と中央本線(八王子以西)しかない。

  ・函館本線(北海道鉄道・幌内鉄道)
  ・東北本線(日本鉄道)
  ・高崎線(日本鉄道)
  ・中央本線(甲武鉄道・官営鉄道)
  ・東海道本線(官営鉄道)
  ・山陽本線(山陽鉄道)
  ・鹿児島本線(九州鉄道)

 鉄道ネットワークを速成的に構築していくためには、複数の民営鉄道の存在は効果的・効率的であった一方、列車運行に関しては協調を欠く傾向があったとされている。この点が顕在化したのは軍需列車が全国的規模で運行された日露戦争の時期で、戦争が終結した明治39(1906)年以降、主要な民営鉄道の国有化が進められた。

 鉄道国有化は、結果として鉄道事業の官民分担を明確化する施策となった。即ち、地域間を結ぶ幹線鉄道は官営、地域内のローカル鉄道は民営、という仕切である。これにより、民営鉄道が経営すべき対象はローカル鉄道に限られることになったわけだが、既存の鉄道法は幹線鉄道を念頭に置いたもので、ローカル鉄道においてはレギュレーションがあまりにも厳格すぎるものであった。

 以上の状況を緩和し、ローカル鉄道事業への参入障壁を下げて、新規参入を促すという意図でつくられたのが、軽便鉄道法である(明治43(1910)年公布)。これによって民営鉄道の新規参入があったばかりか、官営鉄道においても軽便鉄道法に基づくローカル線がつくられたほどであった。

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 参入障壁が下がったとはいえ、ローカル鉄道は事業として必ずしも旨味があるものとはいえなかったはずである。それでも新規参入があったのは何故か。全てのローカル鉄道が同じ動機に基づいているとはいえないにしても、以下に紹介する参考文献は、事業発起の背景を端的明快に要約している。

 函館〜小樽線に連絡する支線を敷設する要望は地元では早くから湧いており、ことあるごとに関係機関に要請をしてきた。地元出身者の代議士沢田利吉が政友会の後藤総裁と共に訪れた時も、この陳情が行われた。結局、鉄道敷設には国会の決議が必要であり、早急にはできない。民間で設立し、以後政府に買い上げてもらう……という方向になった。
 
寿都町ホームページより「寿都歴史資料館」寿都鉄道

 これをBOT(Built Operation and Transfer)の一種と括っては乱暴すぎるおそれがあるとしても、国策の手が届きにくい地域に鉄道を敷くための一段階として、まず民間が発起する、という流れはわかりやすいものである。極端な事例になると、深名線の最初期の段階では個人が鉄道敷設を出願しているほどで、ローカル鉄道はまず民間発起あり、という時期があったと考えられる。

 しかしながら、需要零細なローカル鉄道の経営が厳しいことは改めていうまでもない。先に紹介した寿都鉄道の参考文献においては、「翌 8年 7月に竣功されたものの、厳しいスタートであった。第1次大戦後で鉄が値上がり、建設費は倍以上の90万円近くなった」という状況であり、一般論としても厳しい経営を強いられた鉄道が多かったはずである。

 鉄道がどれほどすぐれた物理的機械的特性を備えていようとも、需要が少なければ経営不順に陥らざるをえない。せっかく開業させた鉄道の経営がすぐ傾くようでは、社会不安を惹起するという意味で問題があったと想定される。

 以上に加えて、別観点の要素が発生する。

 軽便鉄道法公布から 4年後の大正 3(1914)年に、第一次世界大戦が始まった。日本は本格的に参戦しなかったため、国力を疲弊させることなく軍需拡大の恩恵を受けることができた。ただし、それが一過性の特需であることはいうまでもなく、大正 7(1918)年に第一次世界大戦が終結してから間もなく、大正 9(1920)年に最初の恐慌が発生する。

 ここから先は確証がなく、あくまでも仮説にとどまる点に御注意ありたい。軍需拡大により経済活動もまた拡大し、市場には潤沢な資金が供給された。即ち、マネー・サプライが増えたことになる。ところが、大戦終結に伴い需要が大幅かつ急激に冷えこみ、市場に供給される資金がだぶつく形になった。その結果は貨幣価値の下落(インフレーション)につながらざるをえず、社会全体が不況に陥ることはいずれ不可避であったと考えなければなるまい。

 茨城交通の正史には、当時の営業報告書の表現を用いて「農村の病弊依然として深刻」と記されているほどである。需要が冷えこみ、貨幣価値が下落したとあっては、「病弊は深刻」そのものの状況を呈していたのであろう。

 不況に直面し「病弊」に喘ぐ地域において、不況を克服し繁栄と安寧をもたらすための方策として考案されたのが、ローカル鉄道の発起であるというのが、筆者の仮説である。初期段階においては、沿線富裕層から資本を糾合し、用地買収と建設工事を通じてこれを再配分する。中長期段階においては、鉄道事業の振興を図り沿線の繁栄を喚起するとともに、多数の従業員を扶養する。

 以上のように、ローカル鉄道は救世済民を意図した、一種の公共事業として具体化したものと、筆者は見ている。さらには、市場にだぶつく資金を糾合するうえで、投資適格とされる事業が少なかった状況において、「私鉄ブーム」として社会的にも広く受容されたのであろう。

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 この時代の雰囲気を伝える、たいへん面白い記述がある。

 正月の挨拶もそこそこに、三左衛門(引用者注:武州鉄道発起人総代内田三左衛門)は俵に包まれ埃にまみれて屋根裏の田船に乗っていた古い金の一部と書付を広げ、弥三郎にその金の処置を相談を始めた。座敷に金や書付に着いていた埃が舞って、自分が咳き込んでも気にしてもいない。元々三左衛門はこの金で寺に堂を寄進するか、道か水路を作るか、そんな事を考えていたらしい。
 弥三郎は熱中して空咳をしている三左衛門の気分を和らげようとして、また所詮たいした事の出来る程の金ではないと揶揄する気持ちも込めて、
「その金で汽車でも走らせたらどうだ」
と言い、自分だけ笑ったが後でこの一言を後悔している。この時から三左衛門は、鉄道の敷設だけを考える男になってしまった。
 ……
 内田家は顕彰文にもあるように宇佐見駿河守定行を先祖としており、屋根裏から出てきたのはこの時代の金だったらしく、親族は「三左衛門さんはこの金で魔が指した」と言い伝えている。三左衛門はそれこそ、屋根裏の田船に乗って鉄道敷設の旅に出ていってしまった。
 「武州鉄道」(風間進)より

 小金があれば鉄道に投資、という感覚が広く流布していたという意味において、注目に値する記述である。





■ローカル鉄道経営のセーフティネット

 たとえ物理的機械的特性にすぐれていた交通機関であろうとも、社会における救世済民を図る公共事業であろうとも、需要の少ないローカル鉄道の経営には極めて厳しいものがあった。そのため、経営を安定化させる施策が布かれている。

 その最初は軽便鉄道補助法(明治45(1912)年公布)である。同法は、軽便鉄道開業時から10年間の欠損は国が補助するというもので、現代的常識からは考えにくいほど手厚い経営安定化対策であった。それにしても、軽便鉄道法公布からわずか 2年で軽便鉄道補助法を必要とするあたり、当時具体化されようとしていた軽便鉄道の経営はいずれも先行きが暗かったと評さなければなるまい。また、鉄道国有化により鉄道経営の官民分担が明確化されたはずなのに、官民分担の仕切があっけなく骨抜きにされたという意味においても、興味深い事象といえる。

 10年間の補助で経営を安定化させることができた鉄道は、幸せであった。しかしながら、需要が少ない鉄道には、営業段階で既に赤字が出るところもあった。そのような鉄道は、初期投資を回収することなど遠い夢物語であり、しかも10年間の補助期間がすぎてしまえばたちまち窮地に追いこまれるのが道理であった。

 ここで、ローカル鉄道経営の究極的なセーフティネットとして改正鉄道敷設法(大正11(1922)年公布)が機能した、というのが筆者の仮説である。一般的に同法は、政友会の党利党略を具体化し日本各地に鉄道を敷くための法律、と解釈されている。この一般解釈を否定することは不可能であって、筆者としてもそこまで大胆なことは記さない。しかし、同法の別表を見ると、ローカル鉄道経営のセーフティネットになったとしか考えられない事例があまりにも多いこともまた、争えない事実なのである。

  2 青森県青森より三厩小泊を経て五所川原に至る鉄道 →一部区間が津軽鉄道に相当
  4 青森県三戸より七戸を経て千曳に至る鉄道 →一部区間が南部縦貫鉄道に相当
  8-2岩手県花巻より遠野を経て釜石に至る鉄道 →一部区間が岩手軽便鉄道に相当 →のち国有化
 19 宮城県仙台より古川に至る鉄道 →一部区間が仙台鉄道に相当
 21 宮城県長町より青根付近に至る鉄道 →一部区間が仙南交通に相当
 33 栃木県今市より高徳を経て福島県田島に至る鉄道 →東武鉄道に相当
   及び高徳より分岐して矢板に至る鉄道 →東武鉄道矢板線に相当
 34 栃木県日光より足尾に至る鉄道 →一部区間が東武鉄道日光軌道線に相当
 38 茨城県水戸より阿野沢を経て東野附近に至る鉄道 →一部区間が茨城交通茨城線に相当
   及び阿野沢より分岐して栃木県茂木に至る鉄道
 42 茨城県高浜より玉造を経て延方に至る鉄道 →一部区間が鹿島鉄道に相当
   及び玉造より分岐して鉾田に至る鉄道 →鹿島鉄道に相当
 44 茨城県土浦より江戸崎に至る鉄道 →一部区間が常南電気鉄道に相当
 47 千葉県八幡宿より大多喜を経て小湊に至る鉄道 →一部区間が小湊鉄道に相当
 55-3新潟県直江津より松代付近を経て六日町に至る鉄道 →一部区間が頸城鉄道に相当 →のち北越急行開業
 57 長野県豊野より飯山を経て新潟県十日町に至る鉄道 →飯山鉄道に相当 →のち国有化
   及び飯山より分岐して屋代に至る鉄道 →長野電鉄河東線に相当
 59 長野県松本より岐阜県高山に至る鉄道 →一部区間が松本電鉄に相当
 60 長野県辰野より飯田を経て静岡県浜松に至る鉄道
     →辰野−天竜峡間が伊那電気鉄道に相当 →のち国有化
     →天竜峡−中部天竜間が三信鉄道に相当 →のち国有化
     →西鹿島−浜松間が遠州鉄道に相当
 62 静岡県御殿場より山梨県吉田を経て静岡県大宮に至る鉄道
   及び吉田より分岐して大月に至る鉄道 →富士急行に相当
 67 石川県羽咋より高浜を経て三井付近に至る鉄道 →一部区間が北陸鉄道能登線に相当
 69 愛知県千種より挙母を経て武節に至る鉄道 →一部区間が名古屋鉄道三河線に相当
 70 愛知県豊橋より伊良湖岬に至る鉄道 →一部区間が豊橋鉄道に相当
 70-2愛知県岡崎より挙母を経て岐阜県多治見に至る鉄道 →一部区間が名古屋鉄道挙母線に相当 →のち岡多線開業(現愛知環状鉄道)
 71 愛知県武豊より師崎に至る鉄道 →一部区間が名古屋鉄道知多線に相当
 72 愛知県名古屋より岐阜県大田に至る鉄道 →一部区間が名古屋鉄道犬山線に相当
 73 岐阜県中津川より下呂附近に至る鉄道 →一部区間が北恵那鉄道に相当
 75 三重県四日市より岐阜県関ヶ原を経て滋賀県木ノ本に至る鉄道 →一部区間が三岐鉄道に相当
 77 京都府山科より滋賀県高城を経て福井県三宅に至る鉄道 →一部区間が江若鉄道に相当 →のち湖西線開業
 79-2京都府宮津より福知山に至る鉄道 →北丹鉄道に相当 →のち北近畿タンゴ鉄道宮福線開業
 80 京都府山田より兵庫県出石を経て豊岡に至る鉄道 →一部区間が加悦鉄道・出石鉄道に相当
 86 兵庫県有年より岡山県伊部を経て西大寺附近に至る鉄道 →一部区間が赤穂鉄道に相当 →のち赤穂線開業
 87 淡路国岩屋より洲本を経て福良に至る鉄道 →一部区間が淡路交通に相当
 90-2岡山県総社附近より広島県神辺に至る鉄道 →一部区間が井笠鉄道に相当 →のち井原鉄道が開業
 91 広島県福山より府中、三次、島根県来島を経て出雲今市に至る鉄道
     →福山−府中間が神高鉄道に相当 →のち国有化
     →出雲須佐−出雲市間が一畑電気鉄道に相当
 94 広島県広島附近より加計を経て島根県浜田附近に至る鉄道 →一部区間が広浜鉄道に相当 →のち国有化
100 香川県高松より琴平に至る鉄道 →高松琴平電鉄に相当
107 高知県後免より安芸、徳島県日和佐を経て古庄附近に至る鉄道 →一部区間が土佐電気鉄道安芸線に相当
113 佐賀県佐賀より福岡県矢部川、熊本県隈府を経て肥後大津に至る鉄道 →一部区間が九州肥筑鉄道に相当
115 大分県中津より日田に至る鉄道 →一部区間が大分交通耶馬渓線に相当
116 大分県杵築より富来を経て宇佐付近に至る鉄道 →一部区間が大分交通に相当
121 熊本県宇土より浜町を経て宮崎県三田井附近に至る鉄道 →一部区間が熊延鉄道の一部区間に相当
127 鹿児島県鹿児島附近より指宿、枕崎を経て加世田に至る鉄道 →一部区間が鹿児島交通に相当
130-2後志国黒松内より岩内附近に至る鉄道 →一部区間が寿都鉄道に相当
131 胆振国京極より喜茂別、壮瞥を経て紋鼈に至る鉄道 →一部区間が胆振縦貫鉄道に相当 →のち国有化
142-3新得より上士幌を経て足寄に至る鉄道 →北海道拓殖鉄道に相当
143 天塩国名寄より石狩国雨龍を経て天塩国羽幌に至る鉄道 →一部区間が羽幌炭鉱鉄道に相当
145 北見国興部より幌別、枝幸を経て浜頓別に至る鉄道
   及び幌別より分岐して小頓別に至る鉄道 →歌登町営軌道に相当
148 釧路国釧路より北見相生に至る鉄道 →一部区間が雄別炭鉱鉄道に相当

 国が鉄道をつくると定めた法律が存在していながら、しかもそれは「我田引鉄」と揶揄された政友会の党利党略を具現化する政策であったというのに、これほど多数(別表掲載路線の約3割に相当)の私鉄由来の鉄道路線が成立した事実に対し、明快な理由を与える文献は存在していないに等しい。それゆえ筆者は、前述した仮説を呈示するものである。

 ローカル鉄道の経営が苦しくなり、しかも軽便鉄道補助法においても経営安定の見込みが得られないような場合、改正鉄道敷設法を根拠に国有化を行い、経営の絶対的な安定化を図ったセーフティネットとして機能したのであろう。

 そのように考えられる確証は残念ながら存在しない。しかし、別表掲載路線を見渡してみれば、傍証となる箇所がいくつか存在する。

 例えば、別表57「長野県豊野より飯山を経て新潟県十日町に至る鉄道及び飯山より分岐して屋代に至る鉄道」などはどう理解すべきであろうか。現地の地理からすれば、有力な市街地が連坦する屋代−飯山−十日町を本線、飯山−豊野を支線とするのが自然であろう。別表がそうなっていないのは、飯山鉄道(のち国有化され飯山線)と河東鉄道(のち長野電鉄河東線)はいずれも改正鉄道敷設法公布とほぼ同時期に開業しており、両社の経営が行き詰まった場合のセーフティネットとして別表掲載路線に挙げられたから、と解釈するのが最も妥当とはいえまいか。

 ほかにも 8-2・55-3・70-2・79-2・90-2・130-2・142-3のように枝番が付せられた路線は、救済を意図して別表に付加したとしか解釈のしようがないところだ。実際のところ、枝番付路線は北海道の 2路線を除き全てが国有化、ないし国による新路線整備が図られているのである。

 さらにいえば、これらローカル私鉄の大部分が別表路線の一部区間相当という点も注目に値する。再び推測となるが、経営上のセーフティネットを用意するといっても、国有化するためにはなんらかの形で国政と整合することが必要条件となる。そのため、まったくの盲腸線が別表路線に上がることはなく、ある程度広域的な位置づけを持つ路線とされたのではないだろうか。

 明治期の鉄道国有化を通じて、鉄道経営における官民分担は明確化されたはずである。ところが、軽便鉄道補助法でそれが修正された。さらには軽便鉄道法由来のローカル鉄道が改正鉄道敷設法別表に載せられ、準幹線の地位を与えられたのである。鉄道経営の官民分担区分は、完全に骨抜きにされてしまったのである。その良し悪しをとりあえず措くとしても、政策の重大な不整合といえよう。

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 再三の傍証として、以下のたいへん興味深い記述を挙げておく。

 前出の『田副清(引用者注:熊延鉄道社長)伝』にはあらまし「将来延宇線(引用者注:改正鉄道敷設法別表119・121をつないだ延岡−宇土間の通称)建設の際には熊延の終点から先をやったらとの話がある。実現すれば熊延鉄道の買収になると思われる。これは朗報」とのくだりがある。不況と乗合自動車の競合は経営に打撃を与え、もはや線路を伸ばしても自力で回収が困難な時代になっていたのだろうか。
 RM LIBRARY 42 「熊延鉄道」(田尻弘行)より

 内容について、敢えて論評する必要はないだろう。参考までに記せば、筆者はこの一文を読んだがゆえに、自分の仮説が正しいと確信を持つようになっている。

 そして、当時の経営者の実感がにじみ出す、この種の伝記を広く世に伝えたという一事だけをとっても、RM LIBRARYシリーズの功績は大きいと評さなければなるまい。既に70巻以上が刊行され、テーマと内容にかなりの疎密があるとはいえ、歴史的事実に真摯に向き合う姿勢は一貫しており、高い評価に値する。





■定説に対する見解

 定説1:
 改正鉄道敷設法は政友会の党利党略に基づくものであり、ローカル鉄道をつくるための法律である。現に、国がつくった路線も多いではないか。

→この定説は否定できない。しかし、後半部分については、民間資本だけでは鉄道路線を敷くことが困難であったゆえ、国が代行して行うようになった、という側面を見落としているきらいがある。
 その一方で、改正鉄道敷設法の主旨からして、ローカル私鉄経営のセーフティネットとするためだけに機能した、という解釈に無理が伴うことも確かである。現実の状況として、セーフティネットが用意されなかった私鉄の方が多い。
 最も妥当と考えられる解釈は、定説は正しく、そして別表掲載路線を編んでいく過程のなかでセーフティネットにすくわれるローカル私鉄もあった、ということではないだろうか。ただし、セーフティネットにすくわれる、即ち別表掲載路線に採り上げられるためには、中川浩一がいうところの「工作」が必要であった可能性は指摘できる。
 以上のように、定説と筆者の仮説は両立しうる。

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 定説2:
 改正鉄道敷設法別表掲載路線に相当するローカル私鉄がつくられたのは、国有化ねらいの投機的動機である。

→この定説は、成立しないと考えられる。なぜなら、鉄道をつくるためには巨額な投資を必要とするため、よほど大きな資本が背後にない限り、リスクが極めて大きいからである。





<続編に急展開!>





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