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1997(平成9)年2月9日
まごころツアー3
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By衞藤
感想文
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感想文
By古賀
2年12組34番 古賀 大規 今回我々(大塚族行社社員一同)は1997年3月31日限りで廃止される美祢線の大嶺支線と、老兵クモハ42が活躍している小野田線の本山支線へと乗りに行った。
美祢線は、大嶺からの石炭を徳山方面に運ぶため、明治38年に開通した。その主翼を担ったのが、南大嶺〜大嶺の大嶺支線である。しかし、その石炭を産出する炭鉱も、エネルギー革命の波には勝てず、昭和45年に閉山してしまった。
その大嶺支線が1997年3月31日限りで廃止されることになった。予期していたことだから驚きはしないけれど、悲しい。
それで、2月9日に顧問の大塚先生ら4人で乗りに行った。大嶺支線の運転本数は1日6往復で、我々が乗ったのは、南大嶺発14時07分、大境着14時11分の列車であった。「列車」といっても、ディーゼルカー1両である。廃止を知ってか、鉄道ファンらしき人が結構いて、列車や駅舎にカメラのレンズを向けていた。自分も鉄道ファンの一人ではあるが、車両の種類や運行形態にはあまり興味が無い。鉄道ファンには色々なジャンルに分かれていて、大ざっぱに言えば、車両派、時刻表派、旅派、模型派の4種に分かれる。自分はその中の旅派に属する。
さて、本線との分岐駅の南大嶺駅であるが、幾多にも伸びていたであろう線路は所々で寸断され赤く錆びていた。そして、時より通るセメント用の石灰岩を積んでいると思われる黒い列をなした貨物列車が、過去の栄光を少しだけ感じさせてくれた。その駅の1番線に、ぽつんと大嶺行きのディーゼルカーが、ブルブルと音を立てて寂しく止まっていた。デイーゼルカーは、黄色と白を基調として、国鉄時代のオレンジー色の塗装とは違ってすっきりしていたが、煙で煤けた屋根などを見ていると、やはりローカル線にしかない族愁を感じずにはいられなかった。
やがて発車時刻が近づき、我々は、「半自動扉」という、世にもへンテコで重い扉を開け、車内に乗り込んだ。発車時刻の1分はど前になると、運転士が持ってきていた置き時計のアラームが鳴り、運転士は案内用のテープのスイッチを押した。すると女性の声で「御乗車ありがとうございます。この列車は…」と、流れた。JR発足以降、膨大な数の人員整理を行ない、数多くのワンマンカーが登場したが、車掌の生の声が無いと、汽車族としては味気ない。しかし贅沢を言ってはいられない。この人員整理によって、大嶺支線のような採算の見込めない路線が、今日まで生き長らえたのだから…。
発車時刻になった。「半自動扉」がドーンと閉まり、デイーゼルカーは轟音にも近いエンジン音を立て、その音とは比例しない弱い加速力で南大嶺駅を後にした。駅を出てすぐ本線が右に分かれていった。本線はコンクリートの枕木であるが、こちらは木である。ガタンゴトントいう単調なリズムの中に、木の枕木ならではの揺れが加わり、都会の列車では味わえない、心地よさを感じた。車窓の左右は狭い面積ながら田が広がり、川が流れていて、線路脇には鉄道ファンらしき人がカメラを構えていた。やがて列車が進むにつれ、左右に山が追ってきたと思うとすぐに、終点の大嶺駅に着いた。2.8kmの短い汽車旅であった。
大嶺駅は、小さな駅前広場と、数件の民家が立ち、バス停があった。駅構内は、多くの貨車が石炭を積んで並んでいたであろう側線も、すべて剥がされ、丈の高い雑草が一面に生えていた。それは寂しい終着駅の風景だった。
自分はふと思った「大嶺駅には雨がよく似合う」と…。
我々は、14時38分の列車で南大嶺へと折り返し、余命短い大嶺支線との別れを惜しみつつも、次の目的地「小野田」へと向かった。
大嶺支線を後にした我々一行は、クモハ42に乗るべく、小野田線は本山支線の始発駅、雀田へと向かった。先程も書いたように自分は車両に関してあまり興味を示さないが、この車両に関してだけは強い興味を抱いていた。興味を抱くといっても、台車が何々で、電気系統の機器がどうこうだとかは、まったく分からない。ただ、木造車両で、戦前の製造だと知って、戦前の人と同じ車両や気分で汽車旅がしたかったのだ。
少々道に迷いながら、雀田駅に着くと、目の前にはずっと憧れてきた、あのクモハ42が威風堂々と構えていたのだ。それを見たときの自分の心は、高ぶり、熱いものを感じた。その感情を抑えつつ長門本山までの切符買い、ホームに駆け上がるともう止まらなかった。車両にあまり興味示さない自分が、車内を覗き回したりした。それだけこの車両が人の心を引きつけるだけのものを持っているのだ。座るところと、背もたれが直角で、深青のシートの色、そして窓枠から壁にいたるまですべてが木で柔らか味のある暖かい雰囲気の車内であった。「早く乗り込みたい!」そういう感情が湧きおこったが、まだ乗ることはできなかった。
やがて、小野田行きの列車の中から運転士が現れた。そしてクモハ42に乗り込み、色々と準備をしてから運転士はホームに下り車両の前面に立った。何をするのかと思いきや、手動上げ下げ式パンタグラフ(パンタグラフとは簡単に言うと、電車への電流を架線から取り入れるもの。)を、ロープを引いてあげていたのである。ガシャガシャという音とともにパンタグラフが架線にくっついた。運転士は車両に戻り、モーターを回して、前後に少しずつ車両を動かして点検を行った。
点検が終わり、いよいよと思うと、あの大嶺支線の列車にも書かれていた「半自動扉」が自動で開き、「おや?」と思いこみながら、憧れの車両へと乗り込んだ。乗り込んだ瞬間、昭和初期へとタイムスリップしたかのようだった。この列車も数十年の間に数多くの人を乗せてきたのであろう、床や窓枠がいい飴色を出し、真鍮製の手摺などは色々な人の手に触れられて、輝いていた。数枚の写真を撮った後、座席へと腰を下ろし目を閉じると、何かこの車両がまだ都会で活躍してた頃の雑踏や、お客さんの顔が、自分がその時代に生きてきたわけでもないのに、思い浮かんできた。しかし目を開ければ、鉄道ファンを数人乗せただけの閑散とした車内なのだが…。
そうこうしているうちに発車時刻の16時29分になり、案内のテープが流れ、長門本山へと走り出した。ただこの車両もワンマンカーで車内放送がテープであったのが唯一残念であった。この車両の乗り心地は、路面電車のようであった。左右にガタガタと揺れて走っているうちに臨時停車場のような浜河内へと着いた。そこで母子二人を乗せすぐに終点長門本山へと着いた。車窓は平凡であったが、この車両に揺られながら見ると、いつもとは違ったもののように思われた。しかし、外へ出てみると前には一面の周防灘が広がっていた。振り向くと、周防灘に落ちる夕日に照らされて銀色に光る二条のレールの上に、僕がエースだと言わんばかりに茶色に輝くクモハ42がどっかりと腰を下ろしていた。この姿を見て自分は「この車両こそ、鉄道の栄枯盛衰、しして日本の成長を見届けてきた生き証人なんだ」と思った。
この二つの線区に乗って特に感じたことは、時代の流れであった。一時代を築きやがて衰退していく姿を目の当たりにして、非常に悲しく切なかった。
さようなら大嶺支線、そしてがんばれ老兵クモハ42!
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