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「チャレンジ九州2000キロ」
平成11年12月4日(土) |
案内人:後田 紘一 |
平成11年12月4日(土)、まだ「未明」と呼ばれる時刻のこと、福岡市近郊の某市中心部にあるマンションの前に1台の黒い乗用車が横付けされた。傍らの標識柱のそばから人影がその車に近付き、中へと吸いこまれた。ほどなく乗用車は走り出し、刺すような冷え込みの中をもと来た道へと走り去っていった……。
「藤井先輩、狭いっスよ!」「仕方ないやろ」「ほら、股開かない!」……太宰府インターへ向かって走る「黒い乗用車」の中では早速ひと騒動が起こっていた。車内のメンバーはハンドルを握るのが我らが顧問の大塚先生、助手席にはT中R奈をこよなく愛するバスマニアの北方先輩、後部座席は左から近藤君、藤井会長、U田こと後田と、計5名がいた。時刻はまだ4時前。前日までの期末テストの疲労を引きずりつつ、「まごころツアー11−③」は何とも怪しげに幕を開けたのであった。
大塚先生は朝の3時前に家を出て、北方先輩、藤井先輩、近藤君を拾ってきたのである。私のうちは太宰府インターに近いので当然最後に拾われることになっていたのだ。未明の事故の影響で九州自動車道は久留米〜八女の間が通行止めになっていたのだが、太宰府インターから高速道路に入った車は鳥栖ジャンクションを左折して大分自動車道に入り、甘木インターで降りた。この先、霧の影響や対面通行区間の多さなどから高速も一般道もさして変わらないとの判断から、車は物資輸送のトラックの行き交う国道を爆走し始めた。
乗用車ゆえ、車内が狭いのは仕方がないが、後部座席はとにかく修羅場だった。車の揺れにつられて眠くなったりするわけで…カーブの際に物凄い圧迫感を感じて幾度となく意識を失いそうになった。割と順調にとばしていたのだが、明け方になるにつれ特有の霧が出始め、ハンドルを握る大塚先生にも疲労(睡魔(?))の色が隠せなかった。
「あと…10分ですね」「多分間に合うやろ」
夜は白み始め、国道を走っていた車は由布院に入っていた。山間の道路には見事に霧がかかっている。それにしても何故わざわざ未明の福岡から由布院へやって来たのか、その理由を説明せねばなるまい。我々が「チャレンジ九州2000キロ」に参加していて、そのチェックポイントに由布院駅がある、というのも理由の一つではあるが、それとは別に、どうしても逃がしてはならない重要な理由があったのである。
何を隠そう、このページの掲示板で、今回のダイヤ改正で全廃になるはずの12系客車が今日の由布院6時55分発の列車に使用されることがわかったのだ。そうなると我々は黙ってはいられない。期末テスト明けの休日と重なったのをいいことに、喜び勇んで福岡を発ったのであった。
駅前のコイン駐車場に車を停め、途中駅で降り返してくる予定で「向之原」までの切符を買ってホームへ。跨線橋を渡った2番乗り場に、3両編成の客車列車が止まっていた。大分行きの筈だが、何故か方向幕は「由布院」になっている。霧が立ち込め、吐く息は白い。高校生らしい女の子が数人、駅員に挨拶して老齢の青い車体へと乗り込んでいく。高原のいつもの朝の風景だった。
「では、最後の運行頑張ってください」
先ほどの駅員の方が車掌に声をかけた。深く頷く車掌氏。いつもの業務を手際よくこなしながら、その心中はどんなであったろうか。車内には通学途上らしい制服姿の男女が目立つ。それに混じって、カメラや三脚を抱えた人たちも何人か乗っていたようだ。ほどなく、折り戸が閉じられた。発電機の音か、ディーゼル音が低く響いていた中にDE10 1207のエンジンが咆えた。発車のショックは少ない。ポイントを渡り、霜の降りた畑を横目に最後の旅は始まった。
模型同好会の5人は大分寄り先頭車のスハフ12 44に陣取った。回転クロスのリクライニングシートの車両である。2両目はオハ12 138、3両目はオハフ12 70であったが、後ろ2両は固定クロスのいわゆる「直角座席」ボックスシートであった。
途中駅での乗降は基本的に学生が中心で、それに通勤客が少し加わる程度のようだ。高校生も、何故だか女子高生の方が多い。車内では食事をしていたり、勉強をしていたり、はたまた化粧をしていたり、ケータイで話をしていたり(電波が届くのに多少驚いた)と、いかにも通学列車の装いである。この車体は、いったいどれほどの若く果てしない想いを運んで来たのだろうか…。
向之原着、7時39分。列車交換でしばらく停車。その間に我々はホームに出て写真を撮った。朝日がまぶしい、なかなか風情のある写真になった。当初ここで降りて湯布院行きの列車で折り返す予定だったが、どうせなら最後まで乗ろう、と、大分まで行くことになった。車内風景も撮っておこうと車内をうろついていた私はコートの裾を車端部のドアに挟み、なかなか格好悪い思いをした。
大分に近付くに連れ、朝日は次第にまぶしく、進行方向に立ちはだかってきた。それと同時に通勤客らしい乗客も増え、デッキに立つ客も多くいた。大分着、8時7分。チャレンジ九州2000キロのチェックポイントでもあるためホームで写真を撮る。役目を終えた12系客車は静かに小倉方面に回送されて行った。
誰とは言及しないまでも「会長」が切符をなくし、精算所でもめると言う事件もありつつ、大分駅で小休止。「福岡コーナー」 がやたら目立つ。地下道が工事中で、発車案内が見にくかった。815系の日出行きが来たのでそれを撮影後、我々は7番乗り場から8時41分発湯布院行きDCで由布院へと引き返した。キハ125系はさすが軽快に飛ばし、加速の良さは比較にならないほどであった。リクライニングシートでないのは仕方ないとは言え長距離乗車には少しきついかも。
爆睡する我々を乗せたキハ125−15は冬の低い陽射しに照らされたのどかな山間地の風景を通り抜け、由布院へと至った。由布院着、9時47分。由布院付近は温泉地だけあって田んぼの中から湯気が噴き出していたりした。コイン駐車場から車を出してきた先生、何やら妙な顔をしている。訊くと、「駐車時間3時間ちょっとやろ、それでさ、×××円しかかからんかったっちゃけど」……神のご加護か2000年問題か、とにかく少し得をしたことは間違いない。
再び大塚先生がハンドルを握り、次に我々が向かうのは彦山駅。「チャレンジ九州2000キロ」はこのように凄まじい場所にある駅を指定しているからあなどれない。国道沿いに久大本線が見え隠れしている。由布院行きのゆふいんの森Ⅲ世「ゆふいんの森1号」も見えた。大塚先生はこの辺に詳しく、起きている会員達(道中最も睡眠時間が長かったのは会長である)に色々と解説をして下さった。途中地鶏の唐揚げまでご馳走になり、皆大満足であった。それにしても久大本線の鉄橋は微妙である。何となく細くて危なっかしい気がするのは私だけではあるまい。
途中まで朝通った道を戻り、日田付近から小石原村の方へ抜けて、小石原焼きの窯元などを見つつやっとのことで彦山駅にたどり着いた。無人駅のため勝手にホームに入ることができたが、構内の広さと言い臨時改札口と言い、「まごころツアー10」で行った旧大社線大社駅を彷彿とさせるものがあった。ちょうどお昼過ぎで、天ヶ瀬行き快速「日田」がやってきた。
彦山からは山田市を抜けて桂川町に入り、八木山峠を越えて福岡へ。筑豊地区はどこへ行っても、多かれ少なかれ炭坑の遺した痕跡があるような気がする。福岡市に入り、そのまま福岡市を横断する。姪浜付近から筑肥線に沿うように西へと走る。筑肥線のチェックポイントは筑肥線西線の伊万里駅だけだが、この「西行き」は「チャレンジ九州2000キロ」とは関係ない。試運転中の筑肥線の新型車両、303系をあわよくばカメラにおさめたい……と筑前前原まで出向いた次第である。
まだ配備されていない303系を撮影! 藤井会長の言う「チクマエ」(=筑前前原、らしい)駅に着いたのは14時27分。新駅舎建設中の駅へ尋ねに行くと、14時33分に303系が入ってくるとか。慌てて付近に散る我々。入場券を購入してホームに入るグループと駅前広場工事中の場所に無理を言って入れてもらうグループの二手に分かれ、そのニューフェイスを拝んだのだった。 シングルアームパンタはともかく、IGBT方式のVVVFインバータ採用らしく、VVVF音が小さかった。北方先輩もおっしゃっている通り、私もGTOサイリスタ方式のVVVF(市交通局2000系など)の方が好きだ。「顔」が815系みたいなヤツかな、と思ってやや心配していたのだが、なかなか格好いい車両で(別に815が格好悪いわけでもないが……)ホッとした。
意気揚々と「チクマエ」を後にし、我々は西九州道の下を通って市内へと戻った。(余談だが、会長は筑前前原駅を佐賀県だと思っていたらしい)後で聞いた話によれば、我々が見た303系が「試運転運用」の最後の列車だったらしい。……やはり、なにか強力なモノが憑いているに違いない。北方先輩を室見で降ろし、六本松で解散となった。12時間近くもハンドルを握り続けた大塚先生さまさまのまごころツアーだった。
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