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たそがれ清兵衛の住宅の間取り

清兵衛様の収入は、この画面の下に!
だいたい、こんなものかなという感じです。
間違いは、たくさんあるでしょうけれど。
画像で見ると、遠近感が
分からなくて、苦労しました。
長野県茂田井宿のオープンセットは、
ぜひ保存して欲しかったと思います。
描いていて、やはりお風呂が
ないのだと思いました。
銭湯に行っていたのか、
行水していたのかーー。
建坪は、19坪ちょっとです。
三重県松坂市に残る武家屋敷は、 こちら に!

清兵衛様の収入は?
2003年ならこれくらいと、置き換えて考えてみました。
清兵衛様は、家賃無料、税金なし、高熱費の多くは自給の薪、水道料無料。
手取りの収入は、全額使えたのでは、ないでしょうか。
前借りと借金の返済が済めば、かなり楽になるでしょう。

もちろん、色々問題のある乱暴な計算ですけれどーー。
(1)お米の売値と買値は違うし、年によって違ったでしょう。
(2)当時のお米は玄米で支給されたそうです。
(3)私は、産地直売の400円/kg(内税)のお米を食べていますので、これで計算しました。

玄米180.39
精米すると162.35
精米750300
玄米48700

清兵衛様の収入50244万円/年20.3万円/月
お借り米20石97万円/年8.1万円/月
お借り米を引いた手取り30146万円/年12.2万円/月
死んだ妻の実家の収入150731万円/年60.9万円/月
朋江はんの実家の収入4001948万円/年162.3万円/月
甲田家の収入12005844万円/年487,0万円/月


現代の物価と比較すると
幕末当時の1両は、2003年の物価でおおよそいくらぐらいだったのでしょう?

江戸時代の金と米との換算には金1両=1石がよく使われますが、
幕末期には物価が高 騰し、文久3年(1863年)には江戸で金1両=約0.4石(約4斗)、
慶応3年末(1867 年)には大坂で
金1両=約0.086石(当時の相場の1石=銀700匁=金11両3分から 算)と
購買能力は10分の1以下になっていました。 
かんけり倶楽部 】店主さんより引用

戊辰戦争は1868年ですから、『たそがれ清兵衛』の物語は1865年のことです。
そして、奥さんが病気で寝込んだ年月は、それ以前のことです。
それで、当時庄内では、金1両=約0.4石(約4斗)だったとします。
そして、金1両48700円×0.419480円   
そうすると、1文=5円。

亡き奥さんの一ヶ月の医者代と薬代1両2分=6000文30000円
清兵衛様の内職の虫かご作りの手間賃は?
「先月分60個と合わせて550文。お受け取り下さい。」という台詞がありました。
今月分は、虫かご大が12個、小が18個。
割り切れないのですが、1個当たり6文、30円くらいでしょうか?
先月分60個ということは、1日に2個製作?
となると、一ヶ月の内職収入は、約1800円。

これでは、安すぎますね。
金1両=1石で計算してみると、いろいろな点から妥当な感じです。
貨幣価値の下落も江戸と庄内ではかなり違ったのでしょう。


金1両約0.4石なら約1石なら
1文5円約12円
湯  銭(7文約35円約84円
虫かごの手間賃(約6文と推定30円約72円
清兵衛様の一ヶ月の内職収入約1800円約4320円
亡き奥さんの一ヶ月の医者代と薬代約30000円約73000円



時刻について
*豊太郎との果たし合いの時刻
 八つ現在の午前2時ごろー丑の刻、あるいは午後2時ごろ未の刻
 ですから、午後2時だったのですね。

*余吾との果たし合いのため役人が迎えにくる時刻
 巳の刻(午前10時ごろ)


壬生義士伝・吉村貫一郎memo
収 入(年収)4俵2人扶持(5.2石)
役 職お徒歩組の下っ端/藩校の助教
住まい藩の住居
新撰組の給料(月収?)2両3分3朱
旗本になって(年収)40俵(16石)
大野次郎衛門の石高400石


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