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「ホーおじさん」に対抗して、フランスがお膝元に作った傀儡政府
コーチシナ共和国
首都:サイゴン 人口:462万人(1942)
1946年6月1日 フランス連合内の自治国として発足
1948年5月27日 サイゴンにベトナム臨時中央政府が発足
1949年6月14日 新たに成立したベトナム国へ編入されて消滅インドシナ半島の地図(1942年) 仏領インドシナ(印度支那)のうちサイゴン(西貢)の周囲がコーチシナ(交趾支那)
コーチシナの地図(1933年)「交趾支那」がすなわちコーチシナベトナムといえば、かつては北ベトナム(社会主義)と南ベトナム(資本主義)に分かれて、「こちらが本物のベトナム政府で、あっちはニセモノのいんちき政府」だと争っていた典型的な分断国家だったが、1976年に南北統一(実際には北ベトナムによる併合)が実現して南ベトナムは消滅した。北ベトナムとはハノイを首都とするベトナム民主共和国のことだが、サイゴンに首都を置いた南ベトナムの政府は変わり続けた。北ベトナムと本家争いを続け南ベトナムによる統一を目指していたのは、ベトナム国(1949〜55)とベトナム共和国(1955〜75)で、南が戦争に負けた後北ベトナムによる統一を準備するために作られた傀儡政権が南ベトナム共和国(1975〜76)。そして「うちはベトナムではありません」とベトナム統一に反対したのがコーチシナ共和国(1946〜49)で、フランスによって作られ、フランスの方針転換で消滅した傀儡政権だった。
ベトナムは、「仏領インドシナ」としてフランス植民地だった時代にはトンキン、アンナン、コーチシナの3つに分かれていた。
アンナン(安南)はベトナムの古都・フエ(順化)を中心にした中部で、フランスの保護国として旧来からの阮(グエン)朝が内政を行い、トンキン(東京)はベトナムの首都・ハノイ(河内)を中心とした北部で、保護国属領として阮朝がフランスへ統治を委託、コーチシナ(交趾支那)はサイゴン(西貢)を中心とした南部で、フランスの総督府が直接統治をしていた(※)。つまり法的には、アンナンとトンキンはフランス宗主下のベトナム(阮朝)領だったが、コーチシナはフランス領ということになっていた。
※仏領インドシナはベトナムの3地区のほか、 カンボジア 、ラオスの2つの保護国と、中国からの租借地・ 広州湾 で連邦を構成していた。コーチシナはもともとクメール王朝(カンボジア)が支配していたが、17世紀末に阮朝の南進(ナムティン)政策によってベトナムが領土にした。そしてベトナムに進出してきたフランスは、1862年から67年にかけてコーチシナを阮朝から割譲させて植民地にした(阮朝を保護国にしたのは1884年)。こういった歴史的経緯で、フランスの宗主下でもベトナムの伝統的な支配層がいたアンナンやトンキンと比べて、コーチシナはフランスの直接統治下で開発が進んだ地域で、新天地で一旗あげようというベトナム人や華僑が大挙して移り住んだ場所だった(※)。※例えばサイゴンに隣接する都市・ショロン(堤岸)はベトナム最大の都市として発展したが、人口20万人のうち半数以上が中国人だった。そして戦後、ベトナムでもフランスからの独立を目指す武力闘争が盛んになり、ホーおじさん(※)ことホー・チミン(胡志明)は、ハノイを首都にベトナム民主共和国の独立を宣言したが、フランスがこれに対抗して、とりあえずお膝元のコーチシナで支配を続けようと作った国がコーチシナ共和国だった。※なぜ「ホーおじさん」なのかというと、ベトナム人はホー・チミンをもっぱらバック・ホー(伯胡)と呼んでいたので、訳してホーおじさん。後にベトナム戦争が激しくなると、軍人政治家たちがクーデターを繰り返した南ベトナムに比べて、親しみやすい「ホーおじさん」という呼称は北ベトナムのプロパガンダのようにも使われた。「豊かなコーチシナ」を確保し続けたかったフランス第二次世界大戦が始まると、フランス本国はたちまちナチスドイツに占領されて、ドイツの傀儡・ビジー政権が成立した。そこで日本軍は太平洋戦争に先駆けて1940年9月にトンキンへ進駐、翌41年7月にはアンナンやコーチシナにも進駐して事実上ベトナムを支配下に置いた(仏印進駐)。ベトナムではそれまで文化人を中心にフランスからの独立運動が続いていたが、日本軍の支配下では無謀な米の供出などにより多くの餓死者が出ると、ホー・チミンが率いるベトミン(越盟=ベトナム独立同盟会)が結成されて抗日ゲリラ闘争が始まった。こうして日本の敗戦後、45年9月2日にホー・チミンを国家主席にしたベトナム民主共和国が独立を宣言した。
ところがベトナムに戻って来たフランスは、引き続き植民地支配を続けようとベトナム民主共和国を認めなかったので、各地で独立を求めるベトミンとの衝突が発生。46年3月にはトンキンとアンナンではベトナム民主共和国による自治を認め、コーチシナをどうするかは住民投票で決めるという仏越予備協定が結ばれた。しかしフランスは総督府が任命した地元有力者9人とフランス人4人からなるコーチシナ協商委員会を組織して、「ベトナムとの統一反対」を決議させ、6月にコーチシナ共和国が成立した。
サイゴンの国会議事堂(左)と、コーチシナの2大都市・サイゴン〜ショロンを結ぶ電車(右)。現在では両市は合併して「ホー・チミン市」にベトナム民主共和国が「協定違反だ」と猛反発すると、フランスは「コーチシナ共和国はあくまで住民投票が実施されるまでの臨時政府」と主張していたが、8月末になると「ベトミンのゲリラ活動が盛んになったため住民投票は実施不可能になった」と言い出し、コーチシナ共和国を恒久化しようとしたため、ベトナム民主共和国とフランスとの間で46年末から本格的な戦争が始まった。
コーチシナ共和国はカンボジア王国やラオス王国とともに、フランス連合内の自治国で、外交や防衛はフランス側が権限を持つというもの(※)。コーチシナはメコンデルタが広がる穀倉地帯で、面積はベトナムの20%、人口は25%を占めるに過ぎないが、米の生産では半分近くを占め、食糧不足が続く北部を尻目に、戦後いち早く「サイゴン米」の輸出を再開した豊かな地域。ゴムなどのプランテーションも多く、華僑による商業も活発だった。だからフランスが貧しいトンキンや山ばかりのアンナンを手放してもコーチシナだけは抑えておきたいと考えたのだ。
※フランスは各植民地からの独立要求をかわすために、イギリスの英連邦を倣って46年にフランス連合を発足。それまでの植民地を海外県((マルチニック、グァドルップ、レユニオン、ギアナ)、海外領土(仏領ポリネシア、ニューカレドニア、 仏領西アフリカ 、仏領赤道アフリカ、マダガスカルなど)、協同領土( トーゴ 、 カメルーン )、協同国家(チュニジア、 モロッコ 、仏領インドシナ)に再編して、「植民地は存在しない」ということにした。しかし英連邦とは違って、フランス連合は自治国(協同国家)になってもフランスが外交、防衛のみならず内政や高官人事にも干渉できる制度で、最大の植民地・アルジェリアは「あくまで本国の一部」としてフランス連合にも加われなかったため、独立要求は収まらず、独立した国は次々とフランス連合を抜け出した。一方で、コーチシナの有力者や華僑の間でも、ベトナムと統一すればコーチシナの富を北部へ配分しなければならなくなるので、豊かなコーチシナだけで独立したいという声があった。保護国のトンキンやアンナンとは違って、フランスに割譲されたコーチシナの住民にはフランス国籍が与えられており、ベトナムに統一されればこれを失うことを嫌う人もいた。メコンデルタの先住民であるクメール人(カンボジア人)もベトナムとの統一には反発した(※)。一方で、「ベトナムの統一と独立は民族の大義」と考えてベトミンを支持する人たちも多く、コーチシナの世論は割れていた。※カンボジア人にとって、フランス政府がベトナム国の発足とコーチシナ共和国の解消を認めた1949年6月4日は、「国土喪失日」ということになっている。このためコーチシナ共和国は不安定な状態が続いた。フランスによって初代大統領に据えられたグエン・バンティン(阮文盛)は、ベトミン支持者から「民族の裏切り者だ!」と批判にさらされ続け半年弱で自殺(※)。レ・バンホアック(黎文獲)はフランスとの関係強化と「コーチシナ人のコーチシナ」を掲げたが、統一か独立かは曖昧にしたままで1年弱で辞任。続いて大統領になったグエン・バンスワン(阮文春)はフランス現地軍の将軍で、いかにもフランスの傀儡だった。※グエン・バンティンは「私は喜劇を演じるように言われたが、自分を絞首刑にすることに決めた」と言い残したという。ラスト・エンペラーを担いでやっぱりベトナム全土の支配をフランスはベトナム民主共和国と決裂した46年末以降、大攻勢に出てハノイをはじめトンキンやアンナンの主要都市も占領。ホー・チミンらは北部の山岳地帯に逃れてゲリラと化した。緒戦の勝利に気を良くしたフランスは、コーチシナだけじゃなくやっぱりベトナムすべてを支配しようと欲を出し、トンキンやアンナンも含めたベトナム全域を管轄する政府として48年5月にサイゴンでベトナム臨時中央政府を作り、大統領には再びグエン・バンスワンを据えた。そして翌月、ベトナム臨時中央政府とアロン湾協定(ベトナム独立協定)を結んで、ベトナム全域がフランス連合内の自治国として独立することを承認した。
臨時中央政府はあくまで臨時の存在で、正式な政府をどうするかは総選挙や議会の開催、憲法制定を経て決めるとされていた。しかし阮朝を復活させて王国にすべきという保守派と、共和制を目指す親仏派が対立。さらに正式な政府が発足すれば「発展的解消」をするはずのコーチシナ共和国では、「貧しいうえにゲリラが横行している北部と一緒になるのはゴメンだ」と、コーチシナ国民運動が結成されてベトナムへの統一反対と単独独立を要求し続けた。
こうして収拾がつかなくなった臨時中央政府に代わって、フランスが切り札として担ぎ出したのがバオダイ(保大)だった。バオダイはフランス宗主下のアンナンで1926年に阮朝の皇帝として12歳で即位したが、日本軍の占領下で傀儡政権の国王に担ぎ出され、45年3月にフランスからベトナム帝国の独立を宣言。日本の敗戦でベトミンがハノイやサイゴン、フエなどの主要都市を占領すると、バオダイ帝は退位してとりあえずホー・チミンの要請に応えてベトナム民主共和国の最高顧問に就任したが、翌年香港へ亡命していた。いわばベトナム版「ラスト・エンペラー」とでもいうべき人物だ。
「阮朝最後の皇帝」バオダイ帝(左)と、洞窟を探検するホーおじさん(右)
フランスはカンボジアでは同じく日本軍占領下で独立を宣言したシアヌーク国王にフランス連合内の独立を認め、ラオスもラオス王国に同様の独立を認めた。ベトナムでもパオダイ帝をトップに据えた国を作ればベトナム人は納得するだろうと考えたのだ。
こうして総選挙は行われないまま、ベトナム臨時中央政府は49年6月に解散してバオダイを国家主席とするベトナム国が発足、コーチシナ共和国もこれに編入されて消滅した。翌50年2月にベトナム国はフランス連合内の独立国になったが、(1)ベトナムが各国へ派遣する領事はフランスが任命、(2)フランス軍の駐屯を認め、有事にはベトナム軍をフランスが指揮、(3)政府顧問にはフランス人の任命を優先、(4)フランス人に対する裁判は仏越共同で裁く・・・など、依然としてフランスが大きな権限を握り続けていた。
『世界年鑑1951』。「赤色地帯」とはベトナム民主共和国の支配地域のこと山岳地帯を転々としながら「ベトナム民主共和国」を続けていたホー・チミンは、「ニセの独立は認められない」と総反攻を宣言し、ゲリラ戦はますます活発になった。トンキンやアンナンでは農村の大半はベトミンが占領し、ベトナム国は主要都市とそれらを結ぶ点と線を支配しているだけだった。。そしてフランスが期待したバオダイ帝の人気もさっぱりだった。「本当の独立と統一が達成されるまではベトナムへ戻らない」とバオダイ帝はフランスに滞在し続け、首相は交替が続き国政は混迷、ベトミン軍はコーチシナでも勢力を伸ばしてサイゴン近郊でもゲリラ戦を始めた。そして54年のディエンビエンフーの戦いでベトミンに大敗北したフランスはベトナムを支配し続けることをついに断念。ジュネーブ協定によってベトナムはフランス連合から脱退して完全に独立するとともに北緯17度線を境に分割。北はベトナム民主共和国、南はベトナム国がとりあえず支配して2年後に統一総選挙を実施することになった。
アメリカによって追放された「呑気暮らしの皇帝」
バオダイ帝が帰国を拒んでいたのは、傀儡として利用されることにうんざりしていたのと、自分が帰国しないことによって傀儡に据えたいフランスから「本当の独立」のための譲歩を引き出せると思っていたからだ。実際に完全独立が達成できたのは、バオダイ帝の帰国拒否ではなくホー・チミン率いるベトミンの独立戦争のおかげだったのだが、とりあえず完全独立が実現し、統一選挙も実施が決まったことでバオダイ帝は帰国しようとした。ところが、ゴー・ディンジェム(呉廷●=王ヘンに炎)首相によって帰国を阻まれてしまう。
アメリカをバックに付けたゴー・ディンジェム
ベトナムにはフランスに代わってアメリカが介入していた。中国での共産党政権の誕生や朝鮮戦争によって、アメリカは東南アジアに社会主義政権が広がることをなんとしても防ぎたかった。ベトナムで統一選挙を実施すれば、「民族独立の英雄」ホーおじさんが勝利するのは確実で、ベトナム全体が社会主義化してしまうとことを恐れた。アメリカは、統一に意欲的でかつてベトナム民主共和国の最高顧問に担がれたことがあるバイダイ帝に南ベトナムを任せたら大変だと、「バオダイ帝が帰国するなら援助を凍結する」と脅しながら、反共主義者のゴー・ディンジェムを支援した。バオダイ帝は私兵を抱えていたカオダイ教(高台教)やホアハオ教(和好教)などの新興宗教と手を結んでゴー・ディンジェムを倒そうとしたが、ゴー・ディンジェムはCIAから提供された資金で教団幹部を次々と買収したために失敗。「国民を見捨ててフランスで安穏と暮らしている皇帝なんかいらない」と大々的なキャンペーンを張り、55年に国民投票を実施して、98%の賛成票(自称)で王政を廃止し、バオダイ帝を廃位して大統領に就任した。ベトナム国はベトナム共和国に名を変えて、翌年の統一選挙を拒否した。グエン・バンスワンらフランスの傀儡だった政治家たちもゴー・ディンジェムに追放され、フランスへ亡命した
こうしてバオダイ帝は一生帰国できず、フランスで生涯を終えた。インドシナで同じく「フランスからの完全独立」を目指した国王でも、国内に留まって奮戦した カンボジア のシアヌーク国王が、国民の厚い支持を背景に「国父」として21世紀まで政治の第一線に立ち続けたのとは対照的だ。まぁ、国王にしても皇帝にしても、肝心なときには国内にいなきゃダメってことですね。
その後の 南ベトナムはこちら をご覧下さいネ。
参考資料:
『世界年鑑 昭和17年版』 (日本国際問題調査会 1942)
『世界年鑑』 (共同通信社 1949〜1951)
『世界の文化・地理第二巻 東南アジア』 (講談社 1968)
フランコフォニー研究ホームページ http://www1.odn.ne.jp/cah02840/FRANCOPHONIE/
H-Net Review http://www.h-net.org/reviews/showrev.cgi?path=20601874695875
Joe's Homepage http://www.geocities.com/josephcrisp/baodaisolution.html
Vietnam Studies Group http://www.lib.washington.edu/southeastasia/vsg/index.html
Khmers Kampuchea-Krom Federation http://khmerkrom.org/eng/
泉石書庫 http://www.bookdns.com/jsjs/yjseyd/yjseyd24.html「消滅した国々」へ戻る
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