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アメリカ軍に認められなかった左右ごちゃ混ぜ統一政権
朝鮮人民共和国
首都:京城(ソウル) 人口:2500万人
現在の韓国国旗は これ
1945年8月15日 日本の敗戦により朝鮮人による 建国準備委員会が発足
1945年9月6日 朝鮮人民共和国の建国を宣言
1945年9月8日 米軍が南朝鮮に上陸
1945年9月11日 在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁が発足。朝鮮人民共和国を否定し軍政を開始
1945年10月10日 軍政庁が改めて朝鮮人民共和国にた だちに解散するよう命令
朝鮮全図 日本の植民地時代(1942年)の地図
「朝 鮮人民共和国って、北朝鮮のこと?」と思えばさにあらず。北朝鮮は正式名称「朝鮮民主主義人民共和国」で、朝鮮の北半分を領有する左翼政権だが、朝鮮人民 共和国は朝鮮の南北一緒、そして左右一緒の政権だった。もっとも、世界中どの国からも認められず、アメリカ軍に弾圧されてわずか数日で消滅してしまった。
戦前、朝鮮が日本の植民地だった頃、日本からの独立を求める運動が続いた。しかし朝鮮では日本の官憲に弾圧されたので、海外を拠点とす る組織ができた。
1つは大韓民国臨時政府で、1919年に 朝鮮全土で起きた「三・一独立運動」が鎮圧されたのを契機に、上海で設立された亡命政府で、自 由主義者の李承晩(イ・スンマン)が大統領に就いた(※)。 1932年に日本軍が上海を占領すると、蒋介石の国民政府とともに中国各地を転々と移動し、最 終的に重慶に拠点を移した。
※李承晩はアメリカ政府に朝鮮の 委任統治 を請願したとして 批判され、1925年に失脚。ハワイへ移りアメリカ政府へのロビー活動を続けた。
もう1つは抗日パルチザンで、これも 「三・一独立運動」の鎮圧を契機に、満州やソ連の沿海州を拠点に武力闘争を続けた。パルチザンを率 いたという「伝説の英雄」が金日成(キム・イルソン)だ (※)。
※金日成(本名:金成柱)は1912年生まれだが、抗日パ ルチザンを率いた「金日成将軍」の名は1920年代から知られており、金成柱は「伝説の英雄」金日成の名を襲名したものと 思われる。
上海の大韓民国臨時政府(左)と満州の抗日パルチザン(右)
さて1945年8月10日、日本はポツダム宣言を受諾して連合国に無条件降伏することを決めたが、これによって日本は朝鮮の独立を認め なけれ ばならないことになった。そこで朝鮮総督府は8月12日に呂運 亨(ヨ・ウニョン)と接触。行政権を渡すので在留邦人の安全を保障してほしいと打診した。
朝鮮総督府が大韓民国臨時政府や抗日パルチザンと接触せず、呂運亨を交渉相手に選んだのは、当時、満州を占領しつつあったソ連軍がその まま朝鮮全土も占領すると予想されたので、ソ連軍による占領前に朝鮮人に権力を引き渡してしまおうと焦っていたことや、2つの組織は海外で活動していたの で急に連絡が取れなかったこと、抗日パルチザンは八路軍(中国共産党軍)とともに日本軍と長年戦闘を続け、臨時政府も米軍の特殊訓練を受けながら日本に宣 戦布告していたが、朝鮮で憲兵隊に睨まれながらも政治・文化活動を続けていた呂運亨なら、朝鮮総督府と協調しながら「平和的」な権力移譲が望めそうだった こ と・・・などの背景があるようだ。
呂運亨は1886年生まれで、1914年に中国へ亡命し、大韓民国臨時政府が樹立されると外務次官に就任したが、帝政ロシアが中国に 持っていた租界や利権をソ連が中国へ返還したのを見て共産主義運動に共鳴。23年に臨時政府を離れてソ連に渡り、レーニンと会見(※)、その後上海のタ ス通信社(ソ連国営の通信社)で働いた。
※レーニンは呂に「朝鮮では共産主義運動ではなく、民族主 義運動に力を注ぐべきだ」とアドバイスし、呂はそれに従ったという。
しかし27年に蒋介石が反共クーデターを起こし、上海で白色テロが吹き荒れると、呂運亨は朝鮮に戻り、「民族主義運動の高揚は、まず言 論とスポーツから」と朝鮮中央日報の社長や朝鮮体育会の会長に就任した(※)。
※1936年のベルリン五輪で、「日本代表」として出場し たマラソン選手の孫基禎(ソン・ギジョン)が金メダルを獲得した際、朝鮮中 央日報は東亜日報とともに孫のシャツに描かれた日の丸を抹消した写真を掲載して廃刊となった。そして太平洋戦争で日本の敗色が濃くなった44年8月、呂運亨は「朝鮮独立の日は近い」と建国同盟を結成していた。
「占領軍はソ連じゃなくてアメリカ!」で態度を 変えた総督府
総督府との交渉結果を民衆に報告する呂運亨(8月16日)
さて45年8月15日、呂運亨は再び朝鮮総 督府に招かれ、政務総監の遠藤柳作は治安維持に対する協力を要請。呂は(1)政治犯の釈放、(2)京城(現:ソウル)の食糧の3ヵ月分確保、(3)治安維 持活動への不干渉、(4)青年・学生の訓練への不干渉、(5)労働者・農民の組織への不干渉など5項目の条件を出して了承し、その日のうちに建国同盟をも とに朝鮮建国準備委員会(建準)を発足させた。同時に治安隊 を組織して警察署の接収に乗り出した。建準の支部と治安隊は数日のうちに朝鮮各地で結成されていった(※)。
※呂運亨は民衆に日本への 報復を控えるよう自制を呼びかけ、混乱にもかかわらず日本人に対する暴行事件は少なかった。
建準は朝鮮総督府から行政機能を引き継ぐつもりだったが、朝鮮総督府は18日に米軍から「38度線以南はアメリカ軍が占領する」と通告 を受けると態度を一変。行政権の移譲を拒んだうえに、建準の解散も命じた(※)
※これには建準が猛烈に抗議して2日後に撤回。
また建準内部でもゴタゴタが続いた。委員長に就任した中道左派の呂運亨は「左右合同による統一政権」を目指して、幅広い有力者に結集を 呼び掛けたが、副委員長に迎えようとした右派の宋鎮禹(ソン・ジヌ=東亜日報元社長)は、「朝鮮総督府と勝手に交渉して政権を作ったら、日帝の傀儡だと非 難される」「大韓民国臨時政府の承認を待つべきだ」と主張して参加せず、安在鴻(アン・ジェホン=朝鮮日報元副社長)が副委員長に就任したが、左派の勢力 が強まると保守派との提携を主張した安も離脱。宋鎮禹は韓国民主党を結成し、安在鴻は韓国独立党を結成して、建準を批判し始めた。呂運亨もテロリストに狙 われて姿を隠さざるを得なくなり、建準内部ではまずます左派の力が強まり、副委員長には許憲(ホ・ホン)が就いた(※)。
※明治大学を卒業した弁護士で、「三・一独立運動」で逮捕 者らを弁護。25年には朝鮮共産党の結成に参画した。
一方、各地の建準支部でも、当初は日本統治下で議員などに任命された有力者や資本家、民族主義者、共産主義者らが集まっていたが、やが て治安隊を掌握した左派の力が強まると、保守派は離脱して韓国民主党などに加わっていった。
アメリカ軍が上陸する前に「豪華メンバー」で独 立宣言したが・・・
左右の大同団結が崩れ、総督府から行政権を引き渡されなかった建準だが、9月6日に全国人民代表大会を開き、朝鮮人民共和国の建国を宣言した。これは9月に入って米軍の飛行機が飛 来し、「近日中に上陸」「布告及び諸命令は現存する官庁(=朝鮮総督府)を通じて発布する」というビラをまいたため、米軍がやって来る前に政府を樹立し、 朝鮮人の団結と自治能力をアピールしようというのが狙いだった。
発表された朝鮮人民共和国の閣僚名簿は、大統領に李承晩、副大統領は呂運亨、国務総理(首相)が許憲、内務部長(内相)は金九(=臨時 政府大統領)、外交部長(外相)に金奎植(=臨時政府副大統領)、財務部長(財相)は曺晩 植(「朝鮮のガンジー」と呼ばれた朝鮮北部のキリスト教民族主義者)で、55人選出された人民委員には金日成も含まれるなど、大韓民国臨時 政府から抗日パルチザンまで国内外の左右両派を網羅したそうそうたるメンバーだったが、実際には李承晩や金日成、臨時政府の関係者など大部分のメンバーはまだ海外にいて、本人の承諾なしに勝手に閣僚名簿に載せられていた のだった。
朝鮮人民共和国の閣僚。左から李承晩大統領、呂運亨副大統 領、許憲首相、金九内相、曹晩植財相と、人民委員の1人に選出された金日成。
もっとも、呂運亨と許憲を除いてはいずれも 本人の承諾なし。同時に(1)朝鮮の自主独立、(2)反帝反封建の民主主義実現、(3)民衆の生活向上、(4)国際平和共存という政綱4原則と、日帝や 民族反逆者の土地没収と農民への無償分配、諸企業の没収と国有化という施政方針を発表したが、これらは呂運亨と許憲、朴憲永(パク・ホニョン=朝鮮共産党 再建派の指導者)がまとめたもので左派色が強く、反発した宋鎮禹ら右派は翌7日、国民大会召集準備会を開いて「大韓民国臨時政府が唯一の存在である」と宣 言。呂運亨を「血を流さずに政権を奪取しようとする野望を抱いて乗り出した、日帝の走狗」と非難した。
米軍を歓迎するため 仁川 へ出迎 えた朝鮮人民共和国の支持者たち
9月8日に米軍が仁川港に上陸すると、呂運 亨は米駐留軍司令官のホッジ中将に面会を申し入れたが、「日本の手先」だと拒否され、「朝鮮独立を助けてくれた米軍を歓迎しよう」と集まった建準治安隊や 労働者は、警備していた日本軍に発砲されて死傷者が出る事態になった。
朝鮮総督府を接収した米軍は、9月11日に軍政庁を発足させて「軍政庁が南朝鮮(38度線以南)における唯一の政府である」という布 告を発表。朝鮮人民共和国は政府としての実態がないまま存在も否定された。
ポツダム宣言で朝鮮の独立を日本に求めたはずのアメリカが、なぜ朝鮮人民共和国を認めなかったかと言うと、独立を認める政府はあくまで 連合国の主導の下で作られるべきであって、降伏した日本の総督府と勝手に交渉して作った政府など、認めるはずはないから。そしてポツダム宣言に先立つヤル タ会談 はで、米英ソが「朝鮮は 信託統治 を経てから独立させる」と決めていたのだ。
こうして朝鮮人民共和国と建準はアメリカ軍の弾圧を受けるようになった。朝鮮人民共和国は「来年3月に総選挙を実施して、独立しよ う!」と呼びかけていたが、米軍政庁は10月10日「総選挙は軍政庁に対する最も重大な干渉であり、公然たる敵対行為である」という声明を発表し、朝鮮人 民共和国の解散を改めて命じた。建準は再び「建国同盟」を名を変え、各地の建準支部は「人民委員会」と改称して活動を続けた。地方では人民委員会が自治を 行い、治安隊が日本の敗戦で崩壊した警察に代わって治安維持を担っていたが、10月から11月にかけて米軍は南朝鮮各地に進駐して軍政庁を樹立。日本時代 に官僚や警官だった朝鮮人を再登用していった。呂運亨を当初「日本の手先」と警戒していた米軍は、や がて「容共主義者」とみなすようになっていた。
呂運亨は海外にいる李承晩や臨時政府関係者らが朝鮮人民共和国に加わってくれることを期待していた。しかし、 10月16日にアメリカから米軍機で帰国した李承晩は、米軍政庁への協力と「反共統一」を訴えて朝鮮人民共和国を非難。自らが中心となって新たに独立促成 中央協議会を結成し、総裁に就任した。一方で、11月下旬から12月にかけて中国から帰国した臨時政府の関係者らも朝鮮人民共和国を無視し、「大韓民国臨 時政府こそが政府の役割を担う正統組織」だと主張した。
李承晩にしても臨時政府の関係者にしても、終戦まで海外を拠点に独立を掲げて闘い続けた自負があり、呂運亨たちは「終戦のドサクサで朝 鮮総督府と手を結び、血を流さずに独立の主導権を握ろうとした連中」と映った。朝鮮人民共和国に合流することはプライドが許さなかったのだろう。
一方、38度線以北を占領したソ連軍は、8月下旬に38度線を跨ぐ交通や通信を遮断した。朝鮮北部の建準支部は曺晩植を中心に北朝鮮五道人民委員会連絡会議を結成し、朝鮮共産党と協力しながらソ連 軍から行政権を移譲されていたが、10月にソ連から金日成が帰国し、民衆から熱狂的に歓迎されると、主導権は金日成の手に移って行った。
南北統一による即時独立が不可能になった呂運亨は、軍政下で政治活動を行う道を選び、11月に朝鮮人民党を結成した。しかし地方では人 民委員会による自治活動が続いていた地域もあり、米軍政庁は12月12日に改めて朝鮮人民共和国は不法だと宣言。「「『政府』として行動を企てるような 組織の活動は違法行為となる」として、人民委員会を非合法化した。
呂運亨はUP通信のインタビューに対して、「アメリカが軍政府を樹立すると知っていれば、人民共和国を創設するようなことはしなかった だろう」と述べたという。
植民地から解放されたのに、混乱の中で命を落と した「英雄」たち
その後、朝鮮ではヤルタ会談による信託統治案が明るみになり、各政治勢力は賛成と反対に分かれて争い、左右合同や南北統一をめぐる動きも、李承晩派や金九 ら臨時政府派、韓国民主党、朝鮮人民党、朴憲永や許憲らが結成した南朝鮮労働党などが入り乱れて激しい抗争が続いた。呂運亨は46年7月から再び左右合作 運動に取り組み、米軍政庁の支援を取り付けて南朝鮮過渡立法議会を 創設したが、47年に入ると右派の韓国民主党と左派の南朝鮮労働党が離脱して頓挫した。
結局、朝鮮の独立は南側が1948年8月に大韓民国として独立し、李承晩が大統領に就任。北側は翌9月に 朝鮮民主主義人民共和国 として独立し、金日成が首相に就任した。
朝鮮人民共和国の閣僚に名を連ねた主要メンバーのうち、許憲は北朝鮮へ移り最高人民会議の議長に就任したが、朝鮮戦争最中の51年に病死。金九は李承晩に とって最大の政治的ライバルと目されたが49年に暗殺され、金奎植は朝鮮戦争中に北へ連行され病死、曺晩植は信託統治案に反対したことで45年末に金日成と対立して軟禁され朝鮮戦争中に殺害された。また、宋 鎮禹は45年末にテロで殺され、安在鴻は朝鮮戦争中に北へ拉致され65年に死亡、朴憲永は南朝鮮労働党を率いて北朝鮮へ渡り金日成の最大のライバルになっ たが53年に失脚し、「朝鮮戦争を失敗させた米帝のスパイ」として55年に処刑された。
呂運亨も47年7月に右翼のテロで暗殺された。しかし、左右合同と南北統一に最後まで情熱を傾けた人物として、今日の韓国と北朝鮮の双方で高い評価を受け ている数少ない存在だ。
呂運亨の葬儀
参考資料:
パク・チョルギュ 馬淵貞利訳 「朝鮮解放直後の社会運動"慶尚南道馬山地域を中心にして"」『東京学芸大 学紀要第3部門第55集』 (東京学芸大学 2004)
ラテンアメリカの政治 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/
ナルゲ http://www.dce.osaka-sandai.ac.jp/~funtak/index.html
wikipedia http://ko.wikipedia.org/
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