このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 

カラテで島民を驚かせた男が「王」になり、イギリス女王へ独立を嘆願

ロツマ共和国
 
人口:2588(1986年) 首都:アハウ

 

1987年10月 ニュージーランドでフィジーから独立を宣言
1987年12月 フィジー軍が上陸して制圧

ロツマ島の地図  

フィジーの地図
南太平洋の島国というと、のどかで平和なイメージがありますが、民族対立からクーデターが繰り返されているのがフィジーです。

フィジーは1970年にイギリスから独立したが、人口の約半分は先住民のフィジー人で、残り半分は植民地時代に農園労働者としてやって来たインド人。自給自足の生活が主なフィジー人に比べて、商売上手なインド人はフィジーの経済を支配し、しかも独立時には人口でもフィジー人を上回っていた。そこで独立にあたっては、インド人の土地所有を制限したり(国土の83%は譲渡不可能な氏族共有地)、国会とは別に大酋長会議を設置して上院議員の3分の1以上の任命権を与えたりするなど、フィジー人優先の制度が作られたが、「自分たちの祖国をヨソ者のインド人に乗っ取られてしまう」というフィジー人の危機意識は残った。

そして総選挙でインド系の政党が議席を伸ばすたびに、フィジー人の危機意識は爆発。87年4月の選挙ではフィジー系の政党が分裂して、インド系の政党が連立与党となり、閣僚の約半分がインド人になると、フィジー人のランブカ中佐が5月と9月の二度にわたるクーデターで政権を打倒。その後、首相をフィジー人に限定する新憲法が制定されたが、先進諸国から「民族差別だ」と批判を浴びて修正したところ、99年の総選挙でインド系のチョードリー内閣が発足した。すると翌年5月にフィジー人の武装勢力が国会議事堂を襲撃して、チョードリー首相ら閣僚を1ヵ月半にわたって人質に取って立て篭もり、チョードリー政権は崩壊してしまった。

先住民と植民地時代に移住してきた民族の人口が拮抗し、独立にあたって先住民が「祖国を乗っ取られる」と強い危機意識を持った状況は、 マレーシア連邦 と同じ。マレーシアでも1963年の連邦発足時にはフィジーのように華人(中国系)の人口がマレー人をやや上回っていた。結局マレーシアでは2年後に華人が多かったシンガポールを追い出して分離独立させるという「荒技」をやったが、フィジーではインド人の海外移住が進んで、現在の人口比率はフィジー人51%に対してインド人44%。テクノクラートや専門職、ビジネスマンとしてフィジーを支えてきたインド人が流出することで、今後の国家運営が懸念されつつあるようだ(※)。

※南太平洋大学では、このままインド系住民の流出が続けば、2022年にはインド人の人口比率は20%まで減るだろうと予測している。
さて、2度にわたるクーデターでインド系との連立政権が倒された直後の1987年秋、フィジーの北端にあるロツマ島(Rotuma Island)が、「ロツマ共和国」として独立を宣言した。シンガポールの分離独立のように、インド人が多く住む経済中心地の島がフィジーから独立をしたのかといえばまったく逆で、ロツマ島はフィジーの中でもインド人がほとんどいない島。人口は二千数百人で、島の産業と言えばコプラ(椰子の果肉を乾燥させたものでヤシ油の原料)の生産と、わずかな漁業くらい。島には舗装道路はなく、電気もなく、店と言えば協同組合の売店が1軒という状態だった。ロツマ島は一体なぜ独立を試みたのだろう?

ロツマ島はフィジー諸島から北へ500km離れ、孤島のような存在だ。住民もフィジー人がメラネシア系なのに対して、ロツマ人はポリネシア系で言葉も違う。19世紀末にイギリスの植民地になるまで、フィジーとは別の歴史を歩んできたのだ。

ロツマ島へ最初に住み着いたのは、 サモア からやって来たポリネシア系の人たち。島の伝説によれば、サモアのラホという男が島民から嫌われて島を出ることを決意。神様に相談したところ「かご2杯の砂を載せて船出するように」とお告げがあり、妻と6組の男女を連れてカヌーを漕ぎ出したが、いいかげんに疲れてしまったところで再び神様から「砂を海に捨てるように」というお告げがあり、砂を捨ててみたらあれよあれよという間に島が誕生。さっそく上陸して一緒に暮らし始めたが、7組の男女は何かと意見が合わず、ばらばらに住むようになって、現在のロツマ島の7つの村が生まれたとか。

西洋人がロツマ島へ初めて訪れたのは1791年で、それ以降、欧米の捕鯨船が水や食糧を補給するためにたびたびやって来るようになり、「暴れ者の船員」を強制下船させたり、軍艦の脱走兵が逃げ込んだりすることも相次いだ。そして1840年代にはキリスト教の宣教師たちがトンガ人を引き連れて移住。こうしてロツマ島民には、サモア人やトンガ人のほかイギリス人やスペイン人、ポルトガル人、中国人、モーリシャス人などの血が流れているらしい。19世紀後半になると、7つの村の酋長たちが2つのグループに分かれて争いとなり、イギリス人に保護を願い出た。こうしてロツマ島は1881年にイギリスの保護領となり、74年に保護領となったフィジーと一緒にイギリスの植民地として統治されることになった。

もっとも綿花や砂糖キビのプランテーションとして開発されたフィジーとは違って、他の島から遠く離れたロツマ島はほとんど放置状態に置かれ、イギリスはここをフィジー人政治犯の流刑地として使った。島にはイギリス人の行政官と数人の警官、そして島民からコプラを買い付けるためにオーストラリア商社( バーンズ・フィリップ社 )の駐在員が居たくらいで、フィジー人も数十人しかおらず、島民たちは村々の酋長の下でそれまでと変わらず暮らしていた。

1970年にフィジーがイギリスから独立すると、ロツマ島は当然のようにその保護領とされたが、島の有力者たちの間では「イギリスの女王に保護を願い出て植民地になったことはあるが、フィジー諸島に支配されるいわれはない」と反発が出ていた。しかし人口3000人弱のロツマ島が独立運動を起こすのは、いくら何でも無理だと諦めていた。

そんななかで、1987年にフィジーで立て続けにクーデターが発生し、インド人との連立内閣が軍事政権によって潰されると、フィジーは「民主主義に逆行している」「民族差別だ」と国際的な非難を浴び、イギリスからも批判されるとフィジーの軍事政権は10月に英連邦を脱退してしまった。

これを千戴一遇のチャンスと見たのが、ロツマ島の王(ガガジ・サウ・ラウファトマロ)を自称するヘンリー・ギブソンが率いた独立派だった。英連邦を脱退したということは、イギリス女王がフィジーの国家元首ではなくなったということで、ロツマ島はかつてイギリス女王と結んだ保護条約を守るために、フィジーから独立して英連邦に単独で加盟する権利がある・・・と主張。フィジーを非難する国際世論を味方につけて、棚ボタ式に独立を達成しようとした。

ヘンリー・ギブソンはかつて島へやって来たスコットランド人のひ孫で、母親はノアタウ村の酋長の娘だった。ギブソンは島で生まれ育ったが、少年の頃にニュージーランドへ移住、その後日本で空手や武術の修行をして、ニュージーランドやオーストラリアの各地に太極拳カンフー道場を開いていた。そんなギブソンがロツマ島の独立運動に関わったきっかけは1981年のこと。ロツマ島ではイギリス統治100周年の記念式典が開かれ、「島出身のカラテ・マスター」として来賓に招かれたギブソンは、材木やブロックを「キエッ!」と叩き割ったり、襲いかかる男たちをバッタバッタと海へ投げ飛ばしたりのパフォーマンスで島民たちを驚かせ、たちまち尊敬を集めた。

こうして島民たちに空手を教えるために、しばしばロツマ島を訪れるようになったギブソンだが、83年にノアサウ村の酋長が死に、村の長老たちが他の村で学校教師をしている男を次期酋長にすると決めたところ、「他の村から酋長を招くとは何ごとだ!」と猛反対して自分を酋長にするよう求めたが(自分は他の国に住んでるのに・・・)、それが叶わないと見るとかつて存在したというロツマ島の伝説の王「ガガジ・サウ・ラウファトマロ」の復活を宣言して、自らが王位に就いた。

「カラテ・マスター」から王になったヘンリー・ギブソン
ギブソンは勇者(カラテで「キエッ!」)であるだけでは「王」としての威厳が不十分だと考え、博物館と文化センターを作り、島の墓地を掘り起こして「王権」を象徴する副葬品を集めたり、「ロツマ島の失われた伝統文化を復興させる」として王を出迎える儀式などを制定。彼がニュージーランドから島を訪れるたびに、空港で支持者たちに実践させた。ギブソンは島の有力者たちからは相手にされなかったが、島で開いた空手教室の弟子たちを中心に、熱狂的な支持者を集めていたのだった。

1987年5月にフィジーでクーデターが発生すると、各村の代表で構成する島の評議会では独立するかフィジーに残るかで議論が続いた。評議会に現れたギブソンは、「これを機に独立すべし!」と力説したが、結局評議会ではフィジーに留まることを決定。9月に2度目のクーデターが起きても、改めてフィジーに残留することを決めた。しかしギブソンは10月にニュージーランドの自宅から「ロツマ島の王」としてロツマ共和国の独立を宣言(王なのに共和国?)。イギリス女王や国連事務総長に独立を認めるよう嘆願書を書いたが、無視された。

12月には文化センターで、ギブソンがデザインしたロツマ共和国の国旗が、ユニオンジャックと星条旗とともに掲げられた。ユニオンジャックはロツマ島があくまでイギリス女王や英連邦に属することを表わしたのだが、星条旗は国連に承認してもらいたいという願いを意味したものらしい。何しろ店が1軒しかないような島だから、国連の旗なんかあるはずがなく、とりあえず「国際社会の代表」ということでアメリカの国旗を掲げたようだ。

しかし独立反対派が「国旗」に発砲する事件が起きたため、フィジー軍は「騒乱防止」を理由にロツマ島に部隊を派遣して島を制圧した(※)。翌88年4月には「王」の意向を受けた独立派が各村の代表を解任して新たな独立派の代表を選び直したが、5月に今度は通報を受けたフィジーの警察隊が上陸して、独立派の村代表ら8人を逮捕した。

※ロツマ島に上陸した部隊は13人で、全員ロツマ島出身者だったらしい。
裁判ではクーデターによりフィジー憲法が破棄されたため、ロツマ島がフィジーの一部であるという法的根拠はなくなり、英連邦からも脱退したフィジーの司法管轄権はロツマ島に及ばないのでは?と問題になったが、高裁では「クーデター直後に島の評議会がフィジー残留を決議したので、フィジーの司法権は及ぶ」と判断。8人に騒乱罪で2年間の執行猶予付き罰金刑を言い渡した(※)。この間、ロツマ共和国の「王」であるギブソンはずっとニュージーランドに居たままだったので、逮捕されることもなかった。
※罰金の額は1人30フィジードル(約2100円)で、ヘルメットを着用せずにバイクを運転した場合の罰金(50フィジードル)よりも安かったそうな。
それでもギブソンがロツマ共和国が独立を宣言した成果はあった。それまでロツマ島はフィジーの上院へ代表者1人を送り込んでいたが、下院の選挙区は他の島々と一緒で、人口2000人台では議員を出すことは出来なかった。しかしクーデター後の90年に改正された憲法では、ロツマ人はフィジー人やインド人と並ぶ民族ということになり、下院には1人の「ロツマ人議席枠」が用意されるようになった。

ギブソンの独立運動が熱心な支持者を集めた背景には、「フィジーに支配される理由はない」という歴史的な根拠のほかに、島民たちの現実的な不満があった。フィジーの「辺境」であるロツマ島の開発は遅々として進まず、税関や入管が設置されなかったのでコプラやフルーツの輸出は不利になり、外国製品はフィジーを経由して輸入されるので物価は高かった。ギブソンはロツマ島が独立すれば、オーストラリアやニュージーランドなどと直接結ぶ航路や航空路が開設できるようになり、観光客が増えて収入は増えるし、物価も下がる、先進国からの経済援助はそのままロツマ島のために使えるし、漁業権などを売って大きな収入を得ることができると説いていた。ギブソンを胡散臭く思い「カラテ・マン」と呼んだ人たちも、このような実利的な独立論には賛成したようだ。

フィジーの裁判所は2001年に「ロツマ島の独立を主張するのは違法にあたらない」という判決を出して、とりあえず暴力的手段に出ない限り独立運動をしても良いことになった。ギブソンは今でも「王」として時おり島を訪れ、彼の支持者たちは独立運動を続けているらしい。しかしロツマ島は「ヨソ者にあまり来て欲しくない」という酋長たちの希望によって、島民からの招待状がない限り島を訪れることはできず、現在は観光客に開放されたものの、年間100人以内に制限されている。外部からはなかなか様子を伺えない島なのだ。
 

●関連リンク

外務省—フィジー諸島共和国
フィジーの選挙制度の変遷と近年の政治動向について  独立後のフィジーの政治情勢について詳しく解説しています。
太平洋諸島ニュース  国際機関 太平洋諸島センターが提供。過去のニュースも読めます
Rotuma Website  文化人類学者が運営するロツマ島の総合サイト。島の写真もたくさんあります(英語)
Dominion of Melchizedek  2000年にロツマ島の酋長の1人からソルコペ島の99年間の租借権を得たと主張するアヤシイ自称「国家」(英語)
 

参考資料:
春日直樹 『太平洋のラスプーチン』 (世界思想社 2001)
小柏葉子 「太平洋諸島諸国における紛争と人間の安全保障」 (『人間の安全保障論の再検討』広島大学平和科学研究センター 2004)
東裕 「フィジーの選挙制度の変遷と近年の政治動向について」 http://www.jaipas.or.jp/article/fiji_09.html
Rotuma Website http://www.rotuma.org/
CRW Flags Inc http://www.crwflags.com/
Pacific Island Travel http://www.pacificislandtravel.com/
Oceanic Sites at the University of Hawai‘i http://www.hawaii.edu/oceanic/
 
 

「消滅した国々」へ戻る

『世界飛び地領土研究会』TOPへ戻る


このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください