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駅員の一日




(写真は本文とは関係ありません。)

   ■ いよいよ本番

 4月16日付で、正式に駅務掛としてY駅に配属されました。

 Y駅に配属された新入社員は9人、そのうち研修目的で人事部勤務のまま仮配属された大
卒社員は私を含め2人でした。

 Y駅は駅長所在駅で、沿線でも代表的な駅でしたが、駅の構造は対向式の2面2線で、運転
取り扱い要員のいない、いわゆる「停留場」でした。

 管内にはY駅を含めて4駅あり、始発駅側から見て、

   ・H駅 … 対向式2面4線。待避線・渡り線あり。

   ・S駅 … 対向式2面2線。優等列車停車駅。

   ・Y駅 … 対向式2面2線。優等列車停車駅。駅長所在駅。

   ・K駅 … 島式1面2線。

 の4駅でした。

 Y駅以外の駅は、「管内」と呼ばれ、2人〜3人勤務でした。それだけ責任も重大で、私達新
入社員は、基本的に当分の間Y駅で勤務することになりました。

 新入社員にはそれぞれ、「師匠」と呼ばれる指導者がつきました。私の師匠は、Tさんという
駅務主任の方でした。

 いよいよ初日、全員がY駅に揃いました。人数が多いのと、師匠の勤務の関係で、私は管内
のH駅で勤務することになりました。初めての社会人としての仕事です。

 H駅は普通列車が優等列車を待避する、小さな駅でした。利用者は少なく、のんびりとしてい
ました。私は緊張感を持って改札口に座りました。お客様一人一人に、「ありがとうございま
す。」と声をかれました。お客様にはお年寄りが多く、「ありがとう。」と言って下さるお客様もい
らっしゃいました。

 改札から駅前を見ると、一本の満開のさくらの木が立っていました。なんとなく私の門出を祝
ってくれているようでうれしく感じました。

 H駅は管内で唯一の運転取扱駅で、事務所では二人の運転主任が交代で継電連動盤を監
視し、通過列車を確認し、出発合図を出していました。二人の休憩時間の優しい表情と、勤務
時間の厳しい表情の違いに、鉄道という職場の厳しさをひしひしと感じました。


   ■ 駅員の勤務スケジュール

 いまはどうなっているのか分かりませんが、1988年現在の勤務は以下のようになっていまし
た。

   第一日 泊まり勤務 09:00 〜
   第二日 泊まり勤務 〜 09:30 (実働時間16時間30分)
   第三日 泊まり勤務 09:00 〜
   第四日 泊まり勤務 〜 09:30 (実働時間16時間30分)
   第五日 長日勤勤務 07:00 〜 21:00 (実働時間7時間)
   第六日 週休
   第七日 週休

 という週40時間勤務でした。

 泊まり明けで勤務が終わると、マクドナルドで朝食を食べ(これが唯一の楽しみでした。)、寮
に戻って仮眠します。汗をかいていますが、寮の風呂は17時からなので入れません。夕方起き
出して、ようやく風呂に入り、夕食を食べると、また寝てしまうしかありません。そして次の日の
勤務を迎えるのです。

 慣れてくると、よく「特別」と言って、休んだ人の代わりをやらされました。多かったのは、週休
一日目に長日勤をもう一回やるというものでした。しかし、これが4週続くと、さすがに疲れが溜
まっていくのが分かりました。


   ■ 電話について

 電話については、研修で「電話の受け答え」などやらされましたが、全く役に立ちませんでし
た。

 というのも、電話には4種類もあったのです。

   1.外線電話:普通のNTTの電話です。「黒電」と呼ばれていました。
   2.内線電話:社内専用回線の電話です。「青電」と呼ばれていました。
   3.指令電話:鳴ると一番怖かった電話。運輸司令所からの連絡事項を伝達して
            くる電話で、一方的に連絡事項(電車の運行状況・振替輸送の開始・
            終了など)を言って切れます。言われたことは覚えておいて、助役に
            伝えなければなりません。
   4.管内電話:管内の各駅と隣接する駅長所在駅との連絡に使用する電話。これが
            一番気楽に使われていました。

 電話が鳴ったら、

   1.まずどの電話が鳴っているのか判断し、(「黒電」と「青電」は呼び出し音が同じ
     で、最初戸惑いました。)
   2.外線の場合は、「ありがとうございます。○○電鉄○○駅いのこうと申します。」
     それ以外の場合は、「○○駅いのこうです。」と答える。
   3.用件を聞く。
   4.助役に伝える。

 といった感じでした。

 管内電話には、非常時に管内の各駅に一斉に通知するための、「一斉通知」というボタンが
あり、時々間違えて押してしまい、各駅から「もしもし〜。」と応答があり、どうしようもなくそのま
ま切ったこともありました。


   ■ 駅員の一日

 駅は、改札口や出札口、ホームなど、必ず一定の人数が配置されていなければなりません。
従って、駅員は、「勤務ダイヤ」という勤務スケジュールに従って勤務します。これは、その日勤
務する駅員一人ずつが、何時にどこで勤務するか、というのを厳密に決めているものです。

 例えば、Y駅の「駅員B」という泊まり勤務のダイヤを見てみると、

   09:00 〜 10:00 改札口
   10:00 〜 10:30 報告書作成
   10:00 〜 10:30 休憩
   10:30 〜 12:00 ホーム立硝
   12:00 〜 13:00 昼食・休憩
   13:00 〜 14:30 改札口
   14:30 〜 15:00 休憩
   15:00 〜 16:00 改札口
   16:00 〜 17:30 ホーム立硝
   17:30 〜 18:30 夕食・休憩
   18:30 〜 20:00 改札口
   20:00 〜 21:00 自動券売機締め
   21:00 〜 22:30 改札口
   22:30 〜 23:00 休憩
   23:00 〜 24:30 ホーム立硝・掃除

         (仮眠)

   05:00 〜 06:30 ホーム立硝・報告書作成
   06:30 〜 07:00 休憩
   07:00 〜 09:00 改札口

 …、というようなものでした。

 「何だ、休憩が多くて楽そうじゃん。」と思われるかもしれませんが、大間違いで、休憩時間や
食事時間の間も、定期券発売を手伝わなければならないので、基本的に事務所にいて、お客
様がいらっしゃると定期券や回数券を売るのでした。また、当時の自動券売機はお金が詰まっ
たり、釣り銭が切れたり、券紙が切れたりというトラブルが多く、異常を知らせるブザーがなる
たびに飛んでいかなければなりませんでした。つまり、食事の時間を除いては、とにかく働き続
けるという状況でした。

 ダイヤの乱れがあれば、当然勤務ダイヤも乱れます。私は改札口で3時間半切符を切り続
けたことがありました。交代してしばらくは、手が痺れて動きませんでした。


   ■ 改札口に立つ

 予想と一番違っていたのは、改札口でした。就職するまでは、駅員さんを見て、「楽そうな仕
事だなあ…。」と思っていましたが、そんなことはありませんでした。

 Y駅は、構造上通路が大変狭くて、入口1ブース、出口2ブースの3口しかなく、この3口の改
札口で1日60万人のお客様をさばかなければなりませんでした。入口の担当になると、ブース
の両側に押し寄せてくるお客様の切符をひたすら切り続けなければなりませんでした。研修で
固く禁じられていた「持たせ切り」も、やらなくてはとてもお客様がさばき切れませんでした。

 私は、運動神経が鈍い事もあって、切符を切るのが遅く、お客様によく怒られました。また、
よくパンチで指の付け根を挟んで、痛い思いをしました。

 一番厄介だったのが、回数券でした。発駅側にパンチを入れなければならない規則になって
いました。時々間違えて反対側にパンチを入れてしまい、「誤入挟」というハンコを押すはめに
なりました。

 じゃあ、出口の担当なら楽だろう…、というとそうでもありません。列車が到着すると、お客様
が押し寄せてきます。改札口で立ち上がって、切符をチェックしながら、「ありがとうございまし
た。」、「お疲れさまでした。」と声をかけなければなりません。またY駅には精算所が無いた
め、同時に乗り越し精算もこなさなければなりませんでした。

 不正乗車のお客様を捕まえるのも大切な任務でした。区間外の定期で降りようとする学生な
どは、態度ですぐに分かるようになりました。一番の難関は、「勘違い」のお客様で、札幌市交
通局の、「大通→160円区間」なんていう切符を堂々と渡されたときは、一瞬絶句しました。


   ■ 切符を売る

 Y駅は、定期券発売所も併設していました。7時〜20時まで、定期券を購入されるお客様は
引きも切りません。季節は4月。新入生や新入社員が新しく定期券を購入される季節です。

 定期券発行機の使い方を覚え、早速実戦配備されました。

 研修通り、お客様に「いらっしやいませ。」と言います。そんなことを言われたことのないお客
様はヒビります。

 お客様の書かれた定期券申込用紙を見ながら、発駅・着駅・経由駅などを確認して定期券
発行機に入力するのですが、とにかく連絡範囲が広いのでボタンの数が多くて、覚えるまで一
苦労でした。失敗してもその場で気付けば「廃札」処理が出来ますが、次の定期券を発売して
しまうと、決算用端末機を使わないと廃札に出来ません。

 お客様がいないと、定期券発行機に向かい、ボタンの位置を覚えたり、試しに発行してみた
りして操作方法を覚えました。

 めったに使わない駅は、ファミコンのソフトのような形のピンが並べてあって、それを差し込ん
で発行するようになっていました。

 また、朝発売前には、「試刷」といって、見本を一枚発行して助役のチェックを受けることにな
っていました。私は、「同じ発行するなら出来るだけ変な定期を作ろう。」と思い、「横浜〜横浜
(当社線・JR線経由)」とか、「JR鎌倉〜江ノ電鎌倉」とか、変な定期を作っては助役さんにあ
きれられました。

 回数券・高速バスの乗車券・会員募集のクーポンなどは手売りでした。私は研修期間中に全
券種の発行を達成することが出来ました。(最後まで発行の機会がなかった、「出札補充券」
は、最終日に記念に自分用に発行しました。)

   ■ ホームに立つ

 Y駅は、ホームが曲がっていて、車掌さんから見通しが利かないので、下り線は終日ホーム
に駅員が立ちます。これを「ホーム立硝(りっしょう)」と言います。

 ホーム立硝は、お客様の安全がかかっているため、なかなか一人ではやらせてもらえません
でした。最初は師匠とともにホームに立ち、勤務が終わった後も残って練習して、2か月後によ
うやく一人でホームに立つことになりました。

 ホームに立つときは、右手にワイヤレスマイク、左手に「フライ旗」と呼ばれる赤旗を持ちま
す。ワイヤレスマイクは、スイッチで下りホーム・上りホームの放送の切り替えが出来るように
なっています。赤旗は、旗の部分を独特の巻き方で巻いて、非常時に旗の部分から手を放す
と、すぐ開くようにしておきます。(普通に巻くと、旗を振ってもすぐには開きません。)夜はフライ
旗の代わりに「カンテラ」と呼ばれる合図灯を持ちます。これは切り替えスイッチで、白色と赤
色のランプを付けることが出来ます。これも通常は白色にしておき、緊急時にはすぐに赤色に
切り替えられるように指をかけておきます。

 列車が接近すると、ホームの「列車接近表示灯」が点灯します。時刻表で列車種別と行き先
を確認し、線路の安全状況を指差確認して、「1番線に特急、○○行きがまいります。停車駅
は…。」とアナウンスします。

 放送をするためには、どこで待避をするのか、どこまで先着するのか、連絡列車はあるの
か、何両編成なのか、などを把握しておかなければなりません。私は非番の日に、ポケット時
刻表に運転課の先輩にもらったダイヤからそれらの情報を記号にして転記して、放送用の「マ
イ時刻表」を作りました。(これは駅を離れるときに同期にあげたら大変喜ばれました。)

 また、当時Y駅には発車案内装置がありませんでした。また自駅は運転取り扱いをしていな
い「停留場」なので、運行状況も分かりません。そこで、列車が遅れたり、ダイヤが乱れたりす
ると、管内電話で隣接する運転取扱駅に電話をして、継電連動盤を見てもらい、次の列車の
種別を把握していました。

 列車が到着して、ドアが開くと、「ご乗車お疲れさまでした、○○、○○です。1番線到着の電
車は、特急、○○行きです。次は○○に止まります。」と放送します。混雑しているときは、「空
いているドアを選んで続いてご乗車下さい。」と放送し、お客様の乗降が終わると、「前方よ
し。」と放送して、車掌にドアを閉めても良いことを伝えます。ドアが完全に閉まって、発車して
良いと確認できたら、「側面よし。」と放送します。車掌は運転士に確認ブザーで知らせて列車
は発車していきます。

 一人でホームに立つということは、とても神経を使うことでした。なにしろ自分の判断で列車
のドアが閉まり、発車していくのです。お客様の人命に関わる仕事でした。駅長や助役からは、
「何か少しでもおかしいと感じたら、すぐに旗を振って電車を止めるように。」ときつく命令されて
いました。

 だんだん慣れてくると、放送しているのも楽しくなってきました。ホーム立硝は、夕方のラッシ
ュ時を除いて一人の仕事だったので、新入社員としては気を遣わなくていい、ということもあり
ました。

 昼間など、退屈しのぎに、「阪急電車の放送のマネ」とかやっていました。出来るだけ抑揚を
付けずに「ただいま2番線に到着の電車は、○○行き特急でございます。途中の停車駅は、○
○、…、○○でございます。次は、○○まで止まりません。」と落ち着いた声でアナウンスしま
す。これが結構評判がよかったりしました。(誰に?)

 入った当初はまだ寒くて、私達は先輩に教えられて、電車が到着すると主抵抗器の横に行っ
て暖を取りました。(これが意外と温まるのです。)暑くなってくると、Y駅はホームの屋根が低
く、暑さは特別なものがありました。私は、ホームの担当が終わると、売店でオロナミンCを飲
むのが唯一の楽しみになりました。


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