このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

     
魚町から来た電車はここで乗務員が交代する。北方車庫→北方→魚町→北方車庫で1シフトだったのだろうか。車庫への引込線は車庫が手狭だったせいか営業所のある検庫側と営業所の反対側の両方向に伸びていた。昭和55年(1980年)11月の廃止後はバスの北方営業所として再出発し、代替バスが北方〜魚町間を5分間隔で運行された。昭和60年の都市モノレール完成後、営業所は廃止されたが、門司、戸畑、黒崎へ直通する路線は残されて今に至っている。現在、車庫の跡地は今はショッピングセンターとなっている。
北方車庫全景322 北方車庫構内
321型(321、322号)は北方線初のボギー車で当初は輸送力の乏しい単車に変わるホープとして登場した。廃止になるまで集電装置はパンタグラフではなくZパンタのままだった。
324・321 北方車庫構内335 北方車庫前〜北方1丁目間
こちらが営業所と反対側に設けられた電留線(左写真)。北方線は単行車も車掌が乗務していた。また連接車も含めてドアは手動のままだったと記憶している。323型は323、324の2両が在籍していた。そのうち、323号は到津遊園に静態保存されていたが、その後撤去された。324号は土佐電鉄に譲渡され、カラオケ電車として今も現役で走っている。北方線の電車は馬づら電車として親しまれたが、その典型がこの卵形の323型だったと言われている。
331 北方1丁目332 北方
終点北方の安全地帯は廃止直前の昭和55年10月の撮影時には既に撤去されていた。軌道の敷石部分はアスファルト化され、安全地帯の撤去された跡が残っている(右写真)。北方電停は、小倉競馬場、運転免許試験場、陸上自衛隊、北九州大学など、いろいろな施設が至近にあった。作者も家族の運転免許更新の付き添いで、何度か中央町や折尾から電車で北方まで来たことがある。八幡、戸畑、小倉、門司、若松の5市の合併で北九州市が誕生したのは昭和37年であるが、明治の終わりから既に北九州線は若松を除く4つの街のネットワークを構築していた。改めて振り返ると、北九州線の都市間ネットワークが影ながら今日の北九州市の誕生に大きな役割を果たしていたとも言える。八幡に住んでいた作者も電車で北方や戸畑に行ったりしていた生活を考えると、西鉄北九州線がいかに北九州の町に密着していたかがうかがえる。
     

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