このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

     
 北方線は魚町から北方までの4.6kmを結ぶ路線だった。軌間は狭軌(1067mm)で北九州線と異なり、魚町で北九州線と直角に向き合っていた。北方線はもともと馬車鉄道として始まったが、晩年は沿線周辺の宅地開発で道路の車が増え、電車の輸送力不足が懸念されていた。昭和50年代、北九州市は今後の交通機関のあり方について検討委員会が設けた。そして出された案が都市モノレール構想だった。既存の北九州線と重複する小倉〜黒崎間、そして北方線をオーバーラップする徳力(とくりき)〜北方〜小倉間のルートが打ち出された。
323(魚町行)・341(北方行) 魚町〜旦過橋間323 魚町〜旦過橋間
 小倉〜黒崎間は採算の問題で立ち消えになったが、小倉〜志井間は都市モノレール小倉線が、北方線の生まれ変わりとして小倉〜志井車庫(現企救丘)間に昭和60年(1985年)1月開通した。それに先立ち、西鉄北方線は昭和55年(1980年)11月に廃止となり、北方営業所の運転士の一部はモノレールの運転士に転属した。
 魚町を出た電車は、狭い路地を北方に向かう。道路は旦過橋まで魚町方向への一方通行。軌道の両側を走る車は、逆に流れている。
323 魚町〜旦過橋間旦過橋電停
旦過(たんが)橋のそばにある旦過市場は小倉の市民の台所だが、八幡在住だった筆者には縁がなかった。旦過橋電停と交差する道は、北九州線を走る市道で実施されている東行一方通行に対応して、勝山方面へ流れる西行一方通行が実施されていた。交差点の通行量は多く買い物客で賑やかであった。だが、旦過橋の電停は道幅が狭いため、安全地帯は設けられていなかった。廃止が近いためか、電停看板は電柱から落ちたまま、立て掛けてある(左写真中央部)。かつては電停そばの電柱に掲げてあった電停看板も撮影を始めた昭和55年(1980年)頃にはあまり見かけなくなってしまった。
331型 市立小倉病院前
市立小倉病院前から三萩野を過ぎるまで、しばし広い道路の真ん中を走ることになる。

北方線の写真は残念ながらブレた写真が多い。それは曇天だったことと、昭和55年10月のこの北方線が、作者にとって初めての路面電車の撮影だったからである。・・・・・・・以上、言い訳でした。
     

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