このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
ボチボチ陽気もようなったさかいに、お伊勢参りでもしよ うやないかと、安堂寺橋を東へ東へ・・・と、こない申しますと、お馴染み上方落語『東の旅』の発端であります。 『東の旅』というのは、『伊勢参宮神の賑』という伊勢参りを扱った旅ネタの一部分みたいなもので、大阪から奈良を経て伊勢街道を東へ、途中、煮売屋の親爺をからかったり(『煮売屋』)、狐に騙されたり(『七度狐』)、軽業興行を見物したり(『軽業』)しながら、伊勢に向かう。 帰りは東海道まわりで、矢橋(草津の琵琶湖畔)で渡しに乗り(『矢橋船』)、大津の宿で盛り上がり(『宿屋町』)、『瘤弁慶』へと話は続く。そして、京見物したあと、『三十石』で淀川を下って大阪へ、というのが伊勢参りのルートで、ここにあげた演目以外にも多くの噺があって、あまり口演されないもの、滅んでしまったものもある。大河落語などと称される所以なのである。 今は、大阪上本町から近鉄特急に乗ると伊勢神宮参拝の起点となる宇治山田へは 2時間もかからない。この宇治山田駅は参宮急行電鉄が昭和6年に設けた高架駅で、外宮側壁面はテラコッタなどで装飾された立派な駅である。参宮急行電鉄は大阪電気軌道(大軌)が資本参加して設けられた会社でのち合併された。大軌が関西急行鉄道と改称後、戦時要請により、南海鉄道と合併し近畿日本鉄道(近鉄)となった。 数年にも訪れたこの駅、外壁もくすみ、駅構内も暗く、あまりきれいでなかったが、今回再訪してみると、駅が化粧直しされ、その変貌ぶりに驚いた。 |
宇治山田駅から西へ1㎞ほどのところに外宮(豊受大神宮 )がある。その近くにあるのが、旧山田郵便局電話事務所。逓信省技師吉田鉄郎の設計で大正12年の竣工。現在、フランス料理店「ボン・ヴィヴェン」として利用されている。 |
外宮から内宮(皇大神宮)に向かう御幸道路沿いの丘陵地に神宮徴古館がある。明治42年竣工の建物で、設計は帝室博物館などで知られる片山東熊。手入れの行き届いた前庭の奥にルネサンス様式の建物がある。 先の大戦で戦火を受け、建物は大破、収蔵品を焼失するも、戦後、残った外壁をそのままにして再建された。展示品は伊勢神宮関係の資料など。 |
前回訪れたときは、神宮美術館の工事進められたところで、そこにあった神宮農業館は跡形もなかったのだが、今回訪れると、徴古館の裏手に復元されていた。ただし、規模は大幅に縮小されている。 この建物は明治38年に建てられた木造の建物で、設計は片山東熊。木造なればこそ復元されたのだろう。展示品は農林水産関係の品々が並べられてる。それらは〈時勢に適応しない資料が多くなっている〉(入館のしおり)と自ら認めているようなものだが、かつての勧業博覧会展示品が色褪せずに並んでいたのは別な発見でもあった。 |
御幸道路をは さんで反対側には皇學館大学がある。ここには大正14年に建てられた神宮文庫などが残っている。 今は、外宮(山田)から内宮に向かうのは御幸道路などを バスで行くのだが、かつては間の山を越え古市を経て行く街道が参宮道だった。とりわけ古市は参宮を済ませた人たちの精進落としの場として大いに賑わったところで、江戸・吉原、京・島原に並ぶ三大遊廓といわれていた。 この街道筋に往事の雰囲気は殆ど残っていない。先の大戦で戦災にあったからで ある。残っている戦火を免れた料理旅館「麻吉」くらいだ。 現在、街道筋にところどころに案内碑が建ち、油屋騒動のあった妓楼油屋、間の山のお杉・お玉、など跡をたどれるにすぎない。街道筋のなかほどに伊勢市立伊勢古市参宮街道資料館がある。 内宮の門前に「おかげ横町」という古い町屋、町並みを再現した土産物、料理屋などが並ぶ一角がある。観光客が行き交うおはらい町通りの多くの建物も雰囲気作りに務めている。 (取材 98.3.7) |