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漫歩通信
第7号 1998年12月1日発行

水郷佐原を訪ねて
初冬の水郷を訪れた。与田浦から 常陸利根川に抜ける水路に加藤洲十二橋がある。JR鹿島線に十二橋という駅があるが、駅から2㎞くらい離れた集落の水路に十二の橋がかかっている。

水路の両岸の家々を結ぶために一枚板の橋がかけられたのがはじまりという。水路 の幅は4mほど。かすり姿にボッチ笠の女船頭が操る小舟に揺られ橋を巡るなんていうのは情緒があるが、枯れススキより、やはり菖蒲の咲く季節のものだろう。


佐原は伊能忠敬の出身地。酒造業や米穀薪炭販売に精励するとともに村政の中心として活躍していた忠敬は50歳で隠居、江戸で天文学、測量術を学び、55歳から日本全国を測量して歩き、『大日本沿海輿地全図』など、わが国最初の実測日本地図を作りあげた。忠敬の旧宅は国の史跡に指定され、一般公開されている。

その近くには、新しい伊能忠敬記念館が最近オープンした。館内には忠敬の生い立 ちや全国測量の行程、伊能測量隊が測量に使用した器具、日記、書簡、伊能図の数々が展示紹介されている(入館料 500円)。

また、伊能忠敬旧宅のあるあたり、利根川の支流小野川に沿った界隈には江戸・明 治期の古い建物が残っており、96年国の重要伝統的建造物群保存地区に指定された。最近、この界隈は町並みの調和をはかるため、通りに面した部分の改築が進められている。

[建物を訪ねて(5)]
今回も前回に引き続き銀行建築を紹介しよう。
◎旧川崎貯蓄銀行佐原支店
大正3年に建てられた2階建ての建物。イギリスから輸入したした煉瓦を使っているそうだ。屋根は木骨銅板拭きで、正面隅にはドームが設けられている。

三菱銀行佐原支店として使われたあと、現在、この建物は佐原市に寄贈され、「佐原市三菱館」として伝建地区などの観光案内や市民ギャラリーとして活用されている。(千葉県指定有形文化財)近くには第百生命佐原支店(竣工年不詳)がある。

 
◎旧川崎第百銀行佐倉支店
大正7年に建てられた煉瓦造りの建物。現在、佐倉市立美術館のエントランスホー ルとして活用されている。(千葉県指定有形文化財)

市内の有名な近代建築としては、明治43年に建てられた佐倉高校記念館がある。

佐倉は堀田11万石の城下町である。幕末には老中首席となり日米修好通商条約締結につくした藩主堀田正篤がいた。現在、城跡の一角には国立歴史民俗博物館がある。

また、佐倉 藩中級武士の住居が3棟(旧河原家、旧但馬家、旧武居家)復元されており一般公開されている。

ついでの情報として、佐倉城の建物は明治6年にすべて破却されたそうなのだが、 この城の再建問題、今までにも何度か計画が持ち上がったものの実現せずにきたところ、現在、佐倉城再建促進協議会が発足、市制50周年(2004年)に再建を!!のスローガンを掲げ運動を展開している。


[電車道を歩く]
「電車道」というと、相撲のほうで、立ち会い一気に寄り切ることをいうが、成田 市にある「電車道」は昔、路面電車の走っていた道のことだ。

京成成田駅から少し成田空港方面のほうに行くと、新勝寺のほうに延びる道路が電 車道である。しばらく行くと煉瓦造りの短いトンネルが二カ所ある。天井には架線を支えたと思われる取り付け具の痕が残っている。さらにその道路を行くと新勝寺門前に到達する。

成田はご存じ成田不動尊、成田山新勝寺の門前町。鉄道は明治30年に現在のJR成 田線が成田まで開通した。成田駅から新勝寺まで1㎞ほど離れているが、その間を連絡する電車として成宗電気軌道が成田山門前−成田駅前間を明治43年に開業している。

翌年には義民佐倉惣五郎を祭る宗吾霊堂がある宗吾まで延長され、成田不動尊と宗 吾霊堂を結ぶようになった。その後、この電車は成田電気軌道などと社名を改称しているが、戦時中の昭和19年に廃止された。現在の「電車道」はその廃線跡なのである。なお、現在の京成電鉄が成田まで達したのは大正15年のこと。

成田駅から新勝寺に通じる表参道には土産物屋、食堂などが並び、物見のような塔 屋をもつ旅館も残っていた。



加藤洲十二橋、常陸利根川の対岸は茨城県潮来町、大小のホテル、旅館が並ぶ水郷 観光の拠点である。町中を流れる前川に沿ってアヤメ園が設けられており、6月には百万株のアヤメが咲きそろうという。

潮来の町名の起こりは水戸のご隠居水戸光國公がつけたそうだ。江戸時代は水運の 要衝だった町で、東北諸藩からの物資は那珂湊から涸沼、北浦を経て潮来に達し、横利根川で佐原に抜け、利根川から江戸川に入り江戸に向かうというルートをとっていた。

水運が盛んになるにつれ船宿が飯盛女を置くようになり、水戸藩の許可を得て遊廓 ができた。香取・鹿島・息栖の三社参りを兼ねた多くの遊興客や文人墨客が潮来を訪れるようになった。

幕末、潮来は尊王攘夷派の拠点だったところで、藤田小四郎らの天狗党筑波挙兵の 密議が潮来の遊廓で行われたといわれている。

写真は旧妓楼「あやめ楼」、戦前の遊廓の姿を伝える潮来で唯一の建物である。





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