このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
体験をもとに、回顧する。「ああ年とったなあ」
ここは1号車(喫煙車)です
2号車はこちら
お好きなところへどうぞお掛け下さい
高岡発留辺蘂行き
大雪、それでも単行
寒い朝の列車の音
荒海に踏切が閉まる
キハ23も健在
上越線に乗りたかった
上野発富山行き5,300円
ダイヤ改正に寄せて
愛称回顧録
老人会旅行が目玉
ビデオに凝っていた
56豪雪回想緑
急行「白山」上野行
趣味のメニューへ
高岡発留辺蘂行き9,500円の旅
厳密には上記の経費だけではなかった。他に急行料金、寝台料金が数千円かかっている。時は昭和55年の初春。私は高岡発午前4時少し前の乗客となった。出札窓口で「信越、羽越、奥羽線、青函航路で函館本線経由、石北本線留辺蘂駅まで、北見のちょっと前です」と発券を申し込む。窓口氏は大きな台帳を取り出し、なぞり始める。「千歳線、東旭川経由だね」という問いかけに「はい」と答える。
列車は12系客車に10系寝台車を連ねた12輌編成。大阪発青森行き普通急行列車「きたぐに」である。現在は583系電車大阪発新潟行き急行であるが、当時はかつての急行「日本海」を引き継いだ超ロングラン列車であった。北陸トンネル列車火災事故で数名の死者を出したことでも有名?な列車である。
大阪からの列車は定時に到着。最前の荷物車からは新聞の包みが放り出される。大阪で印刷された朝刊である。新聞販売関係の方々はそれを両手両足?を使って器用に運搬していた。朝はまだ遠い漆黒の闇の中である。牽引機はEF81であった。
高岡から乗りとおす者なぞ、まず一人もいない雰囲気で出発。同じく乗車した相客は5名少々、東北アクセントのあるうら若き女性が妙に、、、
富山を過ぎ、新潟県へ入る頃には明るくなってきた。いつも通る北陸本線であるが、今日の日程はちょとキツイ。なにせ長岡より先へは行った事がなかった私である、宮内、長岡を過ぎるあたりから俄然元気が出てくる。信越本線の終端である新潟で先頭の「ネ」を開放。編成が逆向きとなり身軽な編成となって沼垂を過ぎ白新線へと足を踏み入れる、牽引機は別のEF81に変わっていた。
新津からの羽越本線、海岸線をゆく曲がりくねった単線のレールは旧北陸線親不知付近を思い出させる、ダブルパンタを上げたEF81の姿も良く見える。村上での直交変換、客車列車ではまったく何の変化もないが、架線の張り方で変換の様子がうかがい知れた、山が迫り出し海がすぐ横に見える車窓の様子は新潟平野が尽きたことを示し、東北への誘いはゆっくりと進んでいく。車内の話し言葉が微妙に変わってきた。
「だ・じ・べ」語尾の濁音が妙に心地よい、隣のボックスシートを埋めた二十代の女性達の会話、意味は難解で全然理解できないが、時々標準語になるのは現代人なのであろう。車窓によく合っている、列車は長い新潟県を通過し山形県へと入ったようである。余目、酒田、地図の上でしか見たことのない地名、駅名票が続く。酒田はかなりの都会である。駅周辺に商業施設が目に入る。列車はここで乗客を入れ替えさらに北へ向かう。ここでアクシデント発生。
対向する貨物列車の脱線事故のため、臨時停車が30分ばかし続く。幸い事故列車は複線区間中に居るらしく、当列車の進行には障害は少ないとのこと。但し逆線を走行する旨の案内放送がある。さあ、うとうとしていた目もパッチリ開く、国鉄乗車以来初の右側通行を体験する。列車進行に対しての準備に長時間を要したことが、逆線走行区間の状況を見て納得した。踏切という踏切にはすべて職員が張りつき、警報機の操作を手動で行っている。非番職員を駆り集めたのか、とにかく見事に安全運行のフォローをしている。人員削減を極度に進めた現在のJR東ではこんな芸当は無理であろう。列車は長時間停車の上、後続の特急列車へ振り替えすることになるのではないか。
事故列車はDD13牽引の貨物列車であった。編成は5,6両程度の短編成列車であった、どうやらトラが脱線したらしい。保線の方々が復旧の作業を進めている。我が列車はその傍らを徐行で通過していく。
秋田、そこは久々に見る大都会、新潟以来の都市、秋田美人は何処に、プラットホームを見渡す。不純な心を戒めるように遅れのある我が列車は早々に発車した。奥羽本線へ足を踏み入れた訳である。そういえば高岡から乗車した「うら若き女性」も下車したようである。満開の桜が妙に新鮮に見えた。(出発の時氷見の桜は葉桜であった)
辺りはすっかり暗くなってきた、2時間近くのダイヤの復旧は単線ゆえままならない。とんでもない駅に運転停車を繰り返し、少しずつ歩みを進める。どこの駅かは忘れたが、ホームのない側線に4両のDCが停車している、中の様子を伺うと車内に運動会よろしく万国旗、乗客の顔ぶれはどうやら日本人ではなさそうだ、いつ発車するのか忘れられたような存在のように、駅構内のはずれに停車していた。彼らの列車もダイヤが狂ってしまい、かつ団体列車のためかなり長時間の停車をしているのであろう。車内には疲れたようなけだるい雰囲気がうかがいしれた。こちらは普通急行とはいえ「優等列車」すぐに発車となった。機関車牽引独特のゆっくりとした引出し、思わず団体列車の方へ向って手を振ってみた。するとどうだろう、こちらを見つめていた乗客がほぼ一斉に手を振っているではないか。とんだことでコミュニケーションがとれるものだ、皆同じ人間、皆旅人である。
すっかり暗くなった大釈迦駅、客車列車はこんなに静かだったのだろろうか、最後尾に近い私の乗る車両にはED75の機器の音は全く伝わって来ない。季節柄クーラーの騒音も無く、しーんとした車内。おしゃべりが聞けるい乗客も少なくなった。
突然反対側線路をキハ58が現れた、当時は少なかった一線スルーだったのか最高速度に近い速さで通過していった。「いやはやビックリ仰天」静かな空間を切り裂くようにDC急行は走り去っていった。これは心臓に悪い。
約2時間の遅れで青森駅へ到着しようとしている。車内での乗船名簿の配布はなかった。遅れはかろうじて2時間以内に収まっており、急行料金の払い戻しにも当たらない。うまい運行だ。
生まれて初めて東北本線と奥羽本線の終点である青森駅に到着。19:00を過ぎていた。ホームに出ると寒い、皆さんの後を追って青函航路の乗り継ぎ改札へと進む。この頃もう既に青函レースは無かった。乗船名簿を箱に入れ、私の乗りこむ大雪丸へと足を運んだ。
青函桟橋、生まれて初めての「鉄道連絡線」の乗船である。かなり高い位置から連絡船へと足を進める。いざ乗船といったところでちょっとたじろぐ、それは私一人ではなかった。連絡船員の「さあどうぞ」という一言に頷くように皆乗船を始める。これから3時間50分の船旅の始まりである。私は2等洋室(椅子席)へと進む、腰掛ける椅子は181系電車の回転ロマンスシートを固定したようなもの。二名で一席を占める形となるが、乗船客は定員の半分にも満たないのか、余裕をもって着座することができた。船内放送で渡道後の連絡列車の案内をしている。私は当初ハザの夜行を決め込んでいたのだが、「すずらん」号の寝台が空いている旨の放送に心が緩んだ。座席に荷物を括り付け船内の出札所へと向う、「すずらん」の寝台券を、と言うが言わんが、サッと手書きの補充券が差し出された。「ハザよりハネのほうが良く眠れるだろう」ここで当初の予算を少しオーバーしてしまった。
青森港を出るとちょうど居眠りタイムになってしまった。相変わらず荷物は座席の肘掛にくくりつけてある、その鞄を枕に数時間の眠りに就いた。目が覚めるともうすぐ函館港の近くであった。生まれて初めての青函航路はこのような形で終わってしまった。もうやり直しは効かない、でもこの時は「帰りは甲板で潮風を浴びてやろう」と安易に考えていた。帰途がどのように変化するのかこの時は考えてもいなかった。やがて連絡船は速度を落とし、函館の桟橋に着いた。ここが北海道である。
続編(2002年9月8日追記)
さて、無事函館桟橋に辿り着き、人生最初で最後の「連絡線」の旅は周りが心配する船酔いもなく、仮眠をとったお陰でシャキッとした面持ちで列車ホームへ向かう。
ホームで待っていたのはDD51が先頭に立つ夜行急行、指定されたB寝台に座ると後は何もする事はない。今のように煙草も吸っていなかったので喫煙室で一服もナシ、酒も殆ど飲んでいなかったのでワンカップを寝酒に、ということもない。今では信じられない生活を送っていたのである。幅52センチの寝台に横になり、発車が先か、眠るのが先かまどろむことしばし。
外のホームがやけに賑わしい、どうやら新婚さんのお見送りをやっているらしく「なんで今頃」と思ったが、外へでるほどの野次馬根性はなかった。そのうちディーゼル機のやんわっとした引き出しで列車は動き出した。札幌まで7時間ちょい、束の間の寝台旅行である。
つづく
大雪、それでも単行
1/9(土)大雪のさなか、外出せざるを得ない用事ができJRを利用。行きの列車は空いており、なおかつ走行音も至って静か、いつもの氷見線ではないみたい快適なひとときを過ごした。・・・満足、満足。 一転して帰り、「大雪だから排雪抵抗もあるし、一軸駆動の単行キハ40の仕業は重連に変更されて、ゆったり座って帰れるわい。」とタカをくくっていたら、なんのその、キチンと定時にちゃんと単行でやって来た。内心ガッカリ、途中伏木まで立ちんぼ。「まあJR-Wの事情も分かるが、せめてもう1両増やしてくれないでしょうかねえ。」
寒い朝は列車の音がよく聞える
寒さが厳しくなると風向きによって、線路から500メートル程離れた我が家でも列車の走行音が聞える。それも束の間、雪が積もって線路の間に固まると、走行音は吸収され、聞えなくなる。車内でも同様、ジョイント音は小さくなり、雪解けまで続く。
海が荒れると閉まったままになる踏切がある
氷見市内ではないが、越中国分近辺の3つの踏切が、線路に波が被ると誤作動を起こしている。今年になって3度おこっており、都度JR職員が手動で対応している。対策の決めては無く、JRでは港湾関係者とも合わせて対策案を検討中。(H10/9/25記述)
キハ23も健在
車齢が30年にもかかるキハ23が、高岡鉄道部に配置されている。バス用クーラー付の冷改車で、かつ500番台の寒地向け車である。一時取り付けられていたワンマン機器も取り外され、残ったのはガランとした空間が残った。(ワンマン改造時にドアより運転席側の座席が撤去されたため) 乗り心地、制動時の振動(ビビリ)について言えば、もっと若いキハ40系よりは良い。
上越線に乗りたかった
いまから約二十年前、新幹線が開通する前、当時のメインルート「上越線」にむしょうに乗りたくなった。特急「はくたか」が前車指定の時、どうしても指定券が取れなかった腹いせもあった。またかの有名な「清水トンネル」「湯檜曽ループ」を白昼に目で見たかった。夜行列車では当時の「能登号」で通った事があったが、その時は超満員で、通路に新聞を敷いての夜行だったため、とても快適とはゆかなかった。
チャンスは訪れた、所要で行った東京の帰り、私は上野駅上のホームの181系「とき」の乗員となった。晩年の頃であり、食堂車の連結は無かったが、初めて通る路線に胸は高まった。高崎まではいつもの「白山」と同じルート、そこから左へカープすることなく真っ直ぐに上越国境へと向かう。
そこには「高原列車」の趣があった、全てをトンネルで走破する新幹線とは全く違う世界が、右に左にカープを切りながらそこそこのスピードで走る。車窓の風景は十分であった。かの有名な「いわっぱらスキー場前」を通過、さらにカープを切りながら越後平野へ降りてゆく。
上越国境を新幹線ではなく、在来線でもう一度通ってみたい。今そう思っている。
上野発富山行き5,300円の旅
第1部 上野から長野へ
何を思い立ったのか、今から約18年位前とんとした弾みから大普通列車旅行を経験した。題して「上野発富山行き普通列車の旅」当時は新幹線経由といえぱ東海道経由しかなかったので当然東京駅発となる。上野駅に立ったからには「白山」「はくたか」「能登」「越前」「北陸」のコースである。まれに「とき」+「北越」、「あさま」+「北越」の組み合わせを選ぶ人は、鉄道ファンか、鉄道にあまり詳しくない人のやる事であった。そこを全て普通で乗り通すのだから、先ず改札口で確認を受けた、改札職員の「普通で行くのだね」という一言に「はい」と明快に答え、東北、高崎線経由の通勤列車の車中の人となった。
通勤列車と思いや、通学列車の時間帯であった。乗っているのは女子高生ばかり、わんさかわんさか、最初桐生辺りまではずっと立ち席であったため、彼女らと思わぬ密着状態、なかなかの出足でスタート高崎までの数時間を「快適」に過ごす。
高崎から上田までは115系かなんかの普通、横軽を無動力でEF63に推進されて登る。サハに乗っていたので妙に静かな車中に感動した。(発進時のショックと熊の平信号所の風景が白山とは違う。6連なので空気ばねのパンク状態も無い。窓を全開にして碓氷の風を入れても誰も文句を言う乗客は居なかった。いや乗客そのものが少なかった)
上田駅で妙高高原行きに乗り換える。列車はそのまま乗りつづけても長野へは行くが、少しでも早く着くようにダイヤの妙技を実践したく反対ホームへ急ぐ、ここで外は完全に真っ暗となり、今度は県都に向かう通勤列車の廻送といった感じの列車に、夜20時頃に長野駅着、善光寺を模した旧駅舎に降り立つ。
第2部 信越線長野発直江津行き
夜は叔母の家で一泊(これはルール違反か)早朝6時に家を出て、前夜上野を発車した夜行急行「妙高」が長野より普通列車になるのである。1時間あまりで東京へ行ってしまう今では考えられないことだが、直江津、長野と上野を結ぶ夜行列車が存在していた。
独特のけだるさを残した14系客車に乗り込む。EF62の引く客車列車はゆっくりと妙高の勾配を登り、8時頃に直江津駅へ着いた。ここで中途下車、駅前食堂で朝食を摂る。出札口で急行券の提示を求められ、少し説明を要したが駅員は発券日と、長野駅の中途下車印を目ざとく見つけ、あとはスムーズ。駅前旅館の食堂が外からも入れる構造になっており、食事にありつけた。
第3部 北陸本線の旧客列車
直江津からは北陸本線、我が鉄路である(高尚な)乗りこんだのはEF81の引く今は無くなった旧客列車、スハに乗り込む。乗客は各車両に2,3人程度、このまま最後の旅を締めくくろう。いつもは特急で2時間足らずで走りぬける鉄路、筒石駅の地下ホームなぞはこのときばかりとじっくり観察、だが列車はすぐに発車する。
自連の引き出しのショックなぞは、もう味わう事もないだろう。(しかし「北陸」のオハネなぞは密着自連なのにかなりのショックを味わせてくれるが)電機にとっては荷が軽すぎるのであろう。「ピィー」という発車汽笛の後で、約1、2秒後、「ガツン」と一撃、場合によっては振り戻しでもう一度「ガツン」、その後は電機特有のスムーズな加速で80キロ前後に達する。快走するのも束の間、非情なエアーブレーキの音とともに、深閑とした駅に停車する。停車中のひとときの間、全ての機械的な音から開放される。電車のようなMGや冷却ファンの音も無い、ましてやディーゼル動車のような振動も無い。電暖後のスハ、オハ、ナハ、は駅停車時の静けさに耳をそばだてた経験がある。
なお乗車券は運賃計算区間の関係で呉羽辺りまで乗車可能であった、呉羽まで乗りとおす旨、富山で中途下車の手続きをとり、今も私の手元に残っている。上野駅窓口の発券機発行のもので文字は薄くなったが、今でも大切に保管してある。
'99/3/15ダイヤ改正に寄せて
3月15日JRグループのダイヤ改正が行われた。我が家から最も近いJR線「氷見線」でも早朝、夜間の列車間引きが行われ、特定曜日運行列車の設定にもより、JR発足当時からみて、3本のスジが消えた。悪循環の始まりである。
私事ではあるが、私の起床時間は5:47分(鉄道趣味とはあまり関係はありません。出勤時刻から逆算して出来た時刻です)今までは起床後、氷見線を意識することなく1日が始まっていたものです。3月15日以降は、定時起床(この辺も少し変な言葉かな)、朝先ず家の前へ出てその日の天気の状況をみるのですが、ダイヤ改正以後、踏切警報機の音、DMH-17の加速音を遠く耳にする事が日課になりました。始発列車の時刻が繰り下がり、次発列車が間引きされたことによるものです。
恐らくその列車には、数名の通勤客と、早朝練習に向かう高校生が定員の十分の一位乗り込んでいるはずである。その状況を見る限り、今回の改正処置は正しい選択であったと言えるであろう。(夜間の駐泊列車が1本減らせる、当直(早朝)勤務が1本分削減される)
大阪、京阪神で華々しい新施策を打ち出すJR−W、反面地方の末端では多数の赤字路線を持っている。それでいて収支をなんとか保っている経営陣の手腕には頭が下がる思いであるが、前にも述べたとおり「悪循環」の初期症状が見えている。今度の改正で生活パターンが狂い、マイカー通勤へ移行した人がやはり何人かはいることであろう。
短編成での定員減、ロングシート化による着席定員減、軽快気動車による定員減、すべては「立ちんぼ」乗車に現れている。キヨスクで新聞を買って、ボックスシートにゆったりと座りながら通勤する。前夜の仕事の疲れを癒す居眠り、それを求める事はもはやムリなのであろうか。
愛称回顧録
主にディーゼル車が主体であったと思う。
高岡駅を発着する優等列車、高山線への「のりくら」(七尾線直通運用もあり、能登路としてキロ付きで運転されていた。後年キハ65が連結されDMLの響きに誘われわざわざ乗りに行った)、東海道、北陸、高山各本線をぐるっとまわる名古屋発名古屋着の「しろがね」「こがね」。晩年は全線架線の下を走った大阪と新潟を結んだ長大編成の「越後」。サロ、サハシが付いていた老舗の「立山」(これは電車)。北陸初の本格的快速「こしじ」(電化区間をなぜかキハ26主体のディーゼル車でスタートした)。私がよくご厄介になった碓氷を通る「越前」(午前2時長野発車の拡声器付きの発車ベルでよく起こされた)。季節運行ではあったが勇壮な名称で地鉄宇奈月温泉と、和倉を結んでいた「越山」。これまた全線架線下を走った金沢と秋田・青森を結んだ「しらゆき」。金沢駅頭へゆけば「兼六」これまた老舗の「ゆのくに」、「能登路」(失礼、これはまだ走っている)。名古屋発と金沢発が敦賀で併合する「大社」。富山駅頭では後年特急になった「北アルプス」(これもまだあるか)
これらは、再び日の目を見る機会をうかがっているのではないか、地名に関係のない「しろがね」「こがね」などはとんでもない地方で復活する可能性もある。
老人会の旅行が目玉であった
老人会(失礼)の年に一度の団体旅行、それはローカル支線にとってはまさに稀有の出来事であった。残念ながら今ではもっと手軽なバス利用に転換されたようであるが、年に一度、氷見線に「14系客車」や「寝台列車」「サワ座(この頃はトヤ座)」などが入線した。良く似たところではJA主催の観光ツアーで広ヒロの「フェスタ」、「金サワ、GEXアストル」などが、入線した。「14系客車」の入線時などは、定期列車を2番ホームへ追いやり、堂々6連で入線、DE10の姿が一際光って見えたものである。広ヒロの「フェスタ」入線の時は、幸い私も乗車する機会に恵まれた。いつも見なれた風景がひときわ鮮やかに見え、停留所駅である島尾、国分、中川などは全て通過扱い、「優等列車」の雰囲気であった。
鉄道の団体輸送は、運賃の高さからどうも敬遠されがちである。ゆったりと旅行が出来て、悠々自適な立場である老人会に、好まれて使われてきたのは、そのためであろう。しかし、これからのご高齢者は、自らクルマを運転し、その便利さを知ってしまった方々が多い層が中心、いつまでも老人会相手に鉄道ツアーが企画されるとは限らない、現にここ数年の間、上記のような企画はあまり聞かなくなってしまった。 団体旅行そのものが、斜陽化の道にあるのではなかろうか。
話は前後するが、「フェスタ」での乗車は実に痛快であった。旅客列車が北陸線への上り方面へ直行できない構造(時間帯の影響もあり)の高岡駅での扱いは、なんと小杉駅ま下り本線を走り、折返し金沢方面へ向かうといった、スピード時代とは掛け離れた事をやってのけ、臨時スジを走る湖西線では、直結力行より惰性運転の方が多い、「ゆったり」とした走りであった。(高規格の湖西線と北陸トンネルの90キロ走行は、貨物、夜行列車のみの世界であろう、高速仕様の同線での二桁速度は、運転士を含め前を見ているものにとっては、「たまらなく、退屈」であった。あそこは140キロで走るのが正解である)、対向してきて一瞬のうちにすれ違った120キロ運転のキハ181系「シュプール」がものすごく雄雄しく目に映った。
ビデオに凝っていた
今から20年前、ホームビデオのはしりの頃、毎週付近の鉄道をビデオ撮影に凝っていた。(独身、食費光熱費は親に見てもらっていたので、今から考えると信じられないような機材購入が可能であった)
守備範囲は大体半日で往復が出来る位の場所であったが、何故か横軽のEF63−1や、長電が地上を走ってていた様子や、381系「しなの」などの画面もある。単管ビジコンのマトリクス分解カラーのカメラが約10キログラム、ビデオ本体は20キログラム、三脚等全部合わせて40キログラム位の荷物を背負って、山道、線路道を良く歩いた。今のような3CCDカメラとは違い、画質は「あくまで家庭用」といったもので、解像度の高い今の大画面テレビでは鑑賞に堪えない、そのうちA−D変換して(今は仕方が判らない)当ページでも紹介してゆきたい。
真夏の中、吹雪の雪、それは1年間くらい続いたが、そのうち止めてしまった。当時、ホームビデオは珍しく、駅頭で機関士の方と話が弾み、通常行わないライト点灯など、サーピスをしていただいた。その反面、通過駅でホーム白線ギリギリに三脚を据え付け、機関車は非常汽笛を鳴らして通過、なぞたいそう迷惑をかけたことも。時効である今ならこそ話せることもある。
氷見線の雨晴駅近く、北陸本線では庄川の橋付近、倶利伽羅のトンネル入り口付近、上下線が離れて中間に私有地があった部分なぞが、狙い目であった。
56豪雪回想緑(出勤編)
56豪雪の時は、定期列車を間引いて、DD15が運転されていた。(定期列車に乗車中、伏木駅で交換離合したのは同機であった)
当時私は列車通勤をしていて、遅刻と出勤時刻のバトルを続けていた。5時台発の始発列車に乗った事も少なからずあった。乗った列車はキハ35+キハ45の2連、自力排雪時の1エンジン車の力不足を強く感じた。変則段で最高ノッチ、速度は30〜40キロ前後、直結段に入らずまま高岡駅へすべりこんだ。途中、能町駅では除雪が追いつかず、下りホームへ高岡行きが入線した。
その後、間引き運転の都合で、始発列車はウヤ扱いとなった。約1週間位だったと思う。始発は高岡からの下り一番列車の折り返し(420D?)になってバトルは少し冷めた。なお当時は6:29(420D?)のすぐ後に、6:44(1422レ)東富山行きがダイヤに組まれていた。氷見線最短の列車間隔、それ程通勤に鉄道を利用する人が多かった。
話を本線に戻そう、非力ながらフルノッチで16.5キロを走り抜いた、DMH17Hの耐久性にも感心した。仕事はどうでもよい一日であった。帰途編についてはまた別章で紹介したい。
56豪雪回想緑(帰途編)
当時の私の勤め先は、北陸本線高岡駅から7キロ程度の道のりであり、通常はバスに乗り継いで通勤していた。豪雪の時の交通事情は最悪で、バスはいくら待っても来ない無ダイヤ状態。仕方なく1時間の道のりを自分の足で歩いて帰った。
もっともクルマは大渋滞で全く進まないので、大概歩いた方が先に駅に着いた。
鉄道の状況は、バスよりはるかにましで、支線は数分から数十分の遅れで運行されていた。なんとか高岡駅へたどり着いた私は、その場その場で発車する列車に乗り込み、帰途に着いた。
当時氷見、城端線には朝夕に旧客列車が数本運転されていた。牽引機は大概DE10夏場はDE15もあった。遅れの影響で普通のダイヤでは間に合わないその列車に乗る事ができた。さむざむとした気動車列車に比較して客車列車は、暖房が良く効き、また長編成のため立ちんぼなぞはまずなかった。
「JR西日本さん、今の編成はかなりサービスダウンですよ、仕方なく立っている高校生は、免許取得と同時に立たなくても良い、クルマに絶対移行しますよ。」
話は側線に入ったが、当時
キハユニ26
以外の車両は、自動扉機能を冬季の間も使用しており、駅に着くたびに寒気がすわーと入って来たものである。(さすがにキハ35は中扉を締め切り扱いにしてはいたが)グロベンのキハ35なぞは天井からちらちら雪が・・・といった状態で、冬場の気動車は不評であった。
ダイヤが乱れ、間引き運転が進むにつれ先ず客車列車が対象となり、長期間留置された旧客列車はバッテリーが放電してしまい、戦時下の灯火管制よろしく、薄暗い列車に乗って帰った思い出もある。
急行「白山」上野行き
急行「白山」、「今でも能登になって走ってるよ」と言われる方も多いと思う。私が初めて乗車した「国鉄」の優等列車はこの急行「白山」であった。乗車区間は高岡から長野までの行程、当時はこの間を5、6時間かけて走っていたと思う。
大判の白切符に赤地の急行券を見たのも初めてであった。電化開業初頭の高岡駅で待つこと数分、その「白山」は入線してきた。牽引機は当時の新鋭ED70、編成はナハ10を主体とした「青い」列車であった。当時の北陸本線は東富山(富操)までが複線電化であり、その先は単、複区間が存在していたし、新潟県境付近は単線非電化路線であった、レール道床の厚みを除けば雨晴付近を走る氷見線と何ら変わるところはなかった。
富山にて牽引機はこれまた新鋭DF50に交換(後にDF50は始発金沢から通しで運転されるようになったようである)、魚津、黒部、の単線複線の入混じった区間を走破し、泊駅近辺から海岸沿いの細道を走り出した。そう、当時は北陸本線親不知付近は海岸沿いの旧線で運転されていた。長大トンネルの中を非冷房のナハが走る。速度は遅い、アシの速さは40キロから50キロ程度、DF50のエンジン音と、トンネル避難所に灯る青や赤の蛍光灯色、それに加えての警報音、それらが非常に不気味に感じられ、今でもはっきりと覚えている。
直江津駅ヤードでの賑わいは、高岡駅のそれを上回っていたと感じた。初めて見た「青い電機」EF62の姿が大変珍しく見えた。都会へ近づいた印象でもあり、新井、関山、黒姫と、急勾配の連続ながら順調に快走したルートの事は、良く覚えていない。
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