このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 


横須賀の記念艦「三笠」を見に行きました。 主砲4門 はちゃんと装備されています。チモール島の大砲は、「三笠」のものではないのでしょうか?現在の三笠は1961年に改修が終わり展示されています。

私の友人に戦史に詳しい人がいまして、チモール島の大砲の写真を見ていただき、話を伺うことができました。以下は、その話を私がまとめたものです。 

 戦艦三笠は1921年のワシントン軍縮会議の合意で、退役しました。そして、横須賀に記念艦として係留されます。ワシントン条約は列強の戦艦を削減することを決めたため、戦艦三笠をはじめ、日本海海戦に参加した戦艦4隻(他に富士・敷島・朝日)も任務を終えることになったのです(日本海海戦に参加した戦艦6隻ですが、八島・初瀬は日露戦争中(1904年5月15日)にロシア軍の機雷に触れて沈没しています)。しかし、この時、備砲を船から降ろして、補助艦として、新たな任務を与えられた船もありました。当時の戦艦の主砲は30センチ(12インチ)砲でした。うっかりしていて、(というより、この大砲の身元調査をすることになろうとは思ってもみなかったので)口径と砲身の長さを測ってきませんでした。しかし、隣に写っている人間の大きさから推測すると、砲身の長さは約6メートル。当時は口径の40倍が砲身の長さであったので、大砲の口径は15センチ(6インチ)砲と推測されます(40口径6インチ砲と言うそうです)。したがって、戦艦の主砲ではなく、 副砲 ではないかと考えられます。

 三笠も記念艦として、横須賀に係留された時に、一旦すべての備砲がはずされます。

この大砲は?

以上の話から

(1)この砲身は当時の戦艦の主砲ではなく、副砲の可能性があります。

(2)この砲身が「三笠」のものである可能性はあります。なぜなら、記念艦となった時にすべての備砲がはずされているからです。

(3)しかし、父の言う「佐世保」から運ばれたものであるとすれば、戦艦「敷島」のものである可能性の方が高くなります。戦艦「敷島」は佐世保で武装を解かれています。

(4)病院船で運んだのですから、ジュネーブ協定違反。したがって、この砲身の輸送記録は残されていないと考えるのが、常識であろうと思います。

(5)砲身に1913、1911の刻印がみられます。これが製造年を示すものであれば、日露戦争以降に作られたものということになります。このことは、「三笠」や「敷島」の砲身であることを否定するものです。しかし、日露戦争で、損傷を受けており、修理された時に新しい大砲を載せた可能性をまったく否定はできません。1921年の退役まで、現役の戦艦だったのですから。

(6)戦艦の大砲でなかった、可能性もあります。6インチ砲であれば、巡洋艦や駆逐艦にも搭載可能です。

この砲身については、父の耳に、「三笠」や「敷島」、「佐世保」という言葉が残っているために予断があるかもしれません。しかし、今までそう思ってきたからには、なにか理由があるはずです。

この大砲の身元を知るには、父以外の証言者があらわれなければなりません。病院船に載せたという証言者が現われると、どこから運んできたのかが判明します。有力な手がかりです。

また、専門家に実際にこの砲身を見ていただければ、しろうとが見逃した有力な手がかりが見つかるかもしれません。

チモール島クーパンの海岸近くにある、大砲を漠然としか見てこなかった私ですが、今、「身元調査」を始めてみると、大砲にも、人間のような歴史があったことに気付きます。終戦近くに、病院船で実弾を発射できない大砲が運ばれてくる。海岸近くに「敵艦」に見えるように、据え付ける。「敵艦」はこの大砲を見つけて、クーパンの攻撃を躊躇したのでしょうか?「日本兵」は、この大砲が偽装兵器だと知って、士気が高揚したのでしょうか?

この大砲に目を向けると、大砲も私に何かを語りかけてきます。


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連絡先   kihei-koba@geocities.co.jp(小林 喜平)

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