このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

チモール島の旅



 1997年9月に、二度目のインドネシア旅行へ行きました。目的地は チモール島 。父が戦争中に駐屯していた島です。

島には、旧日本軍の遺物が、まだたくさん残っています。

その、いくつかを紹介します。

1.海岸近くにある砲身です。終戦近くに病院船で運んできたもので、父はこの砲身を夜陰にまぎれて船から降ろす作業に従事しました。佐世保から運んできたといううわさを聞いたそうです。父の話によると、もとは日露戦争当時の日本海軍の旗艦「 三笠 」の 主砲 だそうです。二門のうち一門は台座がこわれ、 横倒し になっています。この大砲はチモール島に運ばれた時には、もう弾を発射することができませんでした。いわゆる、擬装兵器だったのです。

2.チモール島の西の玄関、クーパン飛行場の近くの 塹壕跡 です。

3.ブラインの レーダー (当時は英語をつかってはいけなかったので「たんしん」と呼ばれていました)跡。

4.ブラインのラジャ(地方の王様)に日本軍から贈られた車( シボレー )。もう鉄屑になって、シャーシー(車台)が上の状態で置かれています。前に立っているのが現在のラジャとその息子さん。

5.オエカビエテの三叉路にある 爆弾 。今は ベモ (乗り合いバス)の停留所の目印として利用されています。

6.遺物ではありませんが、父の当時の ガールフレンド パウリーナさん。左はその息子さんで小学校の校長先生をされています。

7.旧日本軍のものではありませんが、オイサオに建てられているオールトラリア兵のための

(オイサオ、オエカビエテ、ブラインというのは、地名)

父からの伝言

太平洋戦争中、チモール島クーパンで終戦をむかえられた海軍陸戦隊の方、パラシュート隊の方、電波探知機隊の方。

そのご遺族の方の消息をご存じの方は、ご連絡ください。

また博多にお住まいだった、元四警の白壁彰さん、旧柳町の元電探員の小林兵曹の消息をご存じの方はご連絡ください。

息子から一言

 父の言うことを疑うわけではないのですが、人の記憶というものは、結構あいまいなので、チモール島のこの大砲が本当に「三笠」のものであるか?ということは、 調べてみたい と思います。二枚の写真はこの大砲の刻印( )。

 1987年に初めてチモール島に行きました。父の時代は、戦争の中に青春がありました。父親の歴史を知りたいという好奇心も訪問の動機の一つでした。

 1997年に再びチモール島を訪れたのは、前年に父が胃癌の手術をし、全快のご褒美でした。その時のガイドのヒロ氏の弟さんが研修生として日本に滞在しており、父はお正月などに弟さんを自宅に招きました。そして、今年の5月、一時帰国するヒロ氏の弟さんと二人で父は三度目のチモール島への旅に出かけました。チモール島の人たちやチモール島で働く日本人とも接するうちに、「三笠」の大砲が50年以上も放置されていることに、一人の日本人として、責任のようなものを感じ始めたようです。

 父がこの大砲をどうしたいのか、わかりません。チモール島ゆかりの日本人の方々やチモール島の人たちの気持ちも考えて、父の宿題のよい答えを見つける、お手伝いができればと考えています。

旅でお世話になった人たち

 ガイドの ヒロ 氏。どちらも片言のひどい父のインドネシア語と私の英語を上手に聞き分けて、案内してくれました。写真は、帰路に立ち寄ったフローレス島のクリムトゥ山の山頂のもの。柵もない火口に父が落ちないように支えてくれています。「go to Heaven(天国へ)という題はどうだ?」という問いに「good」とヒロ氏は答えました。

  海外青年協力隊 でチモール島に派遣されていた、右から八田さんと菊沢さんと木藤田さん。八田さんと木藤田さんは看護婦さんで、父が「パウリーナさんの白内障を診てほしい。」という、無理難題をもちかけてきたときに、「地獄で仏」のごとく現われた、白衣の天使。二人の協力で、パウリーナさんは、診察を受けることができました。菊沢さんは植林の指導をされていました。

 滞在したササンドホテルの スタッフ の人たち。勤務明けに街を案内してくれました。横倒しの大砲の横に写っているのが テディー さん。


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 連絡先   kihei-koba@geocities.co.jp(小林 喜平)

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