このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

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歴 史 のようなもの
 上砂川の地は、明治7年に ライマン という地質学者が石狩炭田の調査で訪れ、 石炭を産出することはその時以来知られていたという。しかし、 人が住み始めたのは明治32年。 福井県鶉村 の人達が、 農業ができそうな土地を探し、住み始めた。
 開拓、というと辛そうなイメージがあるが、鶉地区に限っては やせた土地を必死に開墾した、というのではなく、割り合いゆとりを 持った生活ができたんだそうだ。
 具体的にそれがどこ、というのはわからないが、鶉町という地名に 残っている中学校のある辺りなんだろうな。

 母校である上砂川中学校(写真)は、私が小学校5年生の時('72)、当時の 第一中学校と第二中学校とが統合されてできた。 このため、私は卒業生としては第五期生となる。
 話は飛ぶが、写真左端、車道の左側に未舗装の道路のようなものが写っている。 これは、函館本線の盲腸線だったJR上砂川線の廃線跡である。 高校へは、このJRを使って通っていた。

 私が住んでいたのは朝駒という地区である。 ここは、JR上砂川線の終着駅である上砂川駅の南側の山の中腹高台に 位置する。
 鶉町にある中学校へは、約3kmの道のり。夏は自転車、冬は歩いて通って いた。中学生くらいになると、そのくらいの距離は別段、なんてことの ない距離であるが、小学生にとっては大冒険である。
 しかも当時、小学校は町に4校あったが、上砂川駅の辺りが学区界。
 朝駒から奥が炭鉱(ヤマ)の子が通う上砂川小学校。
 駅周辺の市街地区から向こうの鶉地区辺りまでは街の子が通う若生小学校。
 よその校区に立ち入る、というだけで、ドキドキものであった。

 私の小学校への通学路に、ガードがあった。当時はその上に輸車路 (こんな字なんだろうか?)があり、石炭を積んだトロッコが走っていた。
 小学校2年生の時、同級生の中平君といっしょになって学校から白墨を 持ち出し(当時は盗み出したようなスリルと罪悪感を感じていた)、その ガードのコンクリートの壁に落書きをした。5年くらい前 ('93だったかな?)に見に行ったら、しっかりその落書きは残っていた。 その後も気になっていて、'99/03/07に久しぶりに楽しみにして行ったら、 写真のように、ガードそのものは残っていたが、冬期は通行して いないようで、入口が雪に埋もれて入れなかった。
 そこで、雪が解けた'99/05/09にもう一度行ってみると・・・
  落書きは残っていた 。しかし、 かなり薄くなっていて、肉眼だとまだ何とか読みとれるが、 画像だと見えるだろうか?
 白墨の落書きだが30年近くもそのまま残っていること自体、すごいこ とだと思う。それが消えそうになっているのが悲しい、、、

 小学校の何年生の時だったろうか。よく覚えていないが、同級生 4〜5人で、隣の砂川市まで自転車で行ったことがある。距離にすれば 片道8km程度で、今ならランニングしていける距離であるが、当時は 若生小学校の向こうの下鶉小学校の校区も横切り、隣の都会まで行く というものすごい大冒険であった。
 その時、最初に休憩したのが写真の鶉駅であった。当時、KIOSKがなくなっ たばかりであったろうか。ガランとした待合室だったのが妙に印象に 残っている。
 その後、何度もJRや車でこの鶉駅横を通っているが、多分、一度も 中には入っていないんじゃないかな。JRが廃止されたあと、喫茶店に なっていたようだが、写真を撮ったこの日('99/05/09)、日曜の 午後であったが、営業している様子はなかった。単にお休みだった んだろうか。
 皮肉なことなのかどうかわからないが、喫茶店になってくれたおかげで 取り壊されず、今も建物が残っているような気がする。

【ライマン】:明治初期に北海道開拓使に招かれ、北海道の地質調査し、 かなり精度の良い地質図を作り上げた。特に石狩炭田の開発には 大きな功績を残している。

【福井県鶉村】:福井県福井市は 明治22年に市制がしかれた そうだが、鶉村とは、現在の福井市の 鶉地区のことらしい。

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