このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

前のページへ   本論目次に戻る   次のページへ   記事内容別分類へ


第2編 海洋法の歴史

第1章 「海洋の支配」と「海洋の自由」

 古来、海洋の支配権を巡っては、「海洋の支配」と「海洋の自由」という2つの対立する哲学が対立してきた。
 例えば、伝統的なローマ法においては、海洋は全ての者に開放される万民共有物res communis)」と考えられきた。他方、中世においては、イタリアの都市国家がそれぞれ地中海沿岸海域(ベニス共和国がアドリア海、ジェノバ共和国がリグリア海)を、ノルウェーが13世紀末に北方海域をそれぞれ排他的に支配。そうした海洋支配の一つの到達点が、大航海時代に新大陸を発見したスペインと、東インド航路を発見したポルトガルであり、両国は1493年、ローマ教皇・アレキサンドル6世教書Inter Caeteraを以って、世界の海を二分(アゾア群島とヴェルデ岬群島の西方100マイルの経緯線=教皇子午線を境として、西大西洋はスペイン、東大西洋とインド洋はポルトガル。また、1494年トルデシアス条約)して領有した。しかし、こうしたスペイン・ポルトガル両国による海洋支配は、後発の海洋国家として頭角を現して来たイギリスとオランダによって終焉を迎える。即ち、イギリスのエリザベス女王は1588年、オランダと連合してスペインの「無敵艦隊」を撃破、ここに「海洋の自由」の原則を確立したのであった(※注1)
 他方、国際法学の上でも、海洋の領有権を巡る問題は大きな対立点であった。「国際法の祖」「自然法の父」と言われるオランダの近代自然法学者フーゴー・グロティウスHugo Grotius、1583年〜1645年)は1605年、カタリナ号事件(オランダ海軍のヘームスケルク提督がマラッカ海峡においてポルトガル船カタリナ号を捕獲した事件。オランダの海事裁判所は、オランダ側の捕獲行為を正当と判示した)に関しオランダの正当性を論じるために『捕獲海論』を著作。その第12章が自由海論(海洋自由論)』("Mare liberum"として公刊され、海洋自由の原則を支持。イギリスの海洋法学者・ジョン・セルデン(John Selden、1584年〜1654年)が1618年に著した『閉鎖海論』("Mare clausum sive de dominio maris"と対立した(※注2)

※注釈
1:
栗林忠夫 『現代国際法』 慶應義塾大学出版会、1999年 256ページ。また、
 波多野里望・小川芳彦 『国際法講義』新版増補 有斐閣大学双書、1998年 158ページ。また、
 山本草ニ 『国際法』新版 有斐閣、1994年 338〜339ページ。
2:
栗林前掲書、256ページ。波多野前掲書、158〜159ページ。山本前掲書、339〜340ページ。また、
 
松井芳郎他 『国際法』第3版 有斐閣Sシリーズ、1997年 144ページ。
 『海洋自由論』の中でグロティウスは、概要①海洋は流動的な要素からなり、限界を確定できず、法律行為の対象となりえない万民共有物である、②海洋は交通手段であり、他人に害を与えずに万人による利用が可能(非枯渇性、再生産性あり)であって不分割共有の状態から脱する必要の無い、③国際間の通商・交通・交換の自由は国家の自然権である、と主張した。

第2章 海洋法の発展と確立

 このように、歴史的に見ると、各国は自国沿岸について「閉鎖海論」を、大洋には「自由海論」を適用することが一般化し、17世紀には領海の幅員に関する「着弾距離説」(後述)が広汎に支持されるようになった(※注1)
 しかし、第二次世界大戦後、各国の関心が海洋における生物・鉱物資源に集まり出すと、沿岸国は、漁業、大陸棚の鉱物資源といった特定の経済的目的に添った形で領海を越えて管轄権を主張するようになり、例えばアメリカ合衆国が「トルーマン宣言」を、大韓民国が「李承晩ライン」を、チリ・ペルー・エクアドル三国が「サンチアゴ宣言」をそれぞれ行った(各宣言の詳細については後述)(こうした現象を「クリーピング・ジュリスディクション」と呼ぶ)(※注2)
 そこで、こうした各国の国家実行を整理し、海洋法の在り方を明確にするため、1958年国際連合の主導で第一次国連海洋法会議が開催され、国連国際法委員会の起草した「ジュネーブ海洋法四条約」、即ち「領海及び接続水域に関する条約」(1964年発効)、「公海に関する条約」(1962年発効)、「漁業及び公海の資源の保存に関する条約」(1964年発効)、「大陸棚に関する条約」(1966年発効)の4つが作成された。但し、我が国は、前二者(昭和43年条約第11号、昭和43年条約第10号)にしか加入していない(※注3)
 その後、領海の幅員を巡って1960年の第ニ次国連海洋法会議が開催された他、1967年の第22回国際連合総会におけるパルドA Pardo)・マルタ共和国大使の新提案(深海底を「人類の共同遺産common heritage of mankind)」とし、国際機関による管理を企図したもの)を契機として1973年には第三次国連海洋法会議が招集され、発展途上国も巻き込んだ長い議論の末、1982年4月30日、現行の 国連海洋法条約 の草案がジャマイカにて可決され、1994年発効した(※注4)

※注釈
1:
波多野前掲書、160ページ。
2:波多野前掲書、161ページ。また、栗林前掲書、257ページ。
3:波多野前掲書、161ページ。また、栗林前掲書、258ページ。山本前掲書、342ページ。
4:波多野前掲書、161〜162ページ。また、栗林前掲書、259〜260ページ。


  前のページへ   本論目次に戻る   次のページへ   記事内容別分類へ

製作著作:健論会・中島 健 無断転載禁止
 
©KENRONKAI/Takeshi Nakajima 2000-2002 All Rights Reserved.

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください