このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
表紙に戻る 目次に戻る 健論時報目次へ 2000年8月へ 2000年10月へ
■これで民主党に政権を託せるのか
水島広子代議士、憲法調査会で発言(8月1日)
報道によると、7月31日の第149臨時国会衆議院本会議において、先の総選挙で民主党から当選した水島広子代議士(元慶應義塾大学講師・精神科医、医学博士)が同党の鳩山由紀夫代表と共に代表質問に立ち、森義朗首相の施政方針演説に対して質問を行った。
質問の中で水島氏は、まず少年法改正問題について、自身の精神科医としての経験から加害者に対する更正体制の徹底を主張し、「少年法を改正することで安易に厳罰化を図ろうとするような政治の姿勢」を批判。いじめ問題を「多様な価値観を認められない」子供達の問題として捉えるべきであるとし、教育勅語復活や教育基本法改正などは「単一の価値観を押し付けるもの」であるとした上で、森首相の「教育」に対する考え方を正した。また、「家族のあり方を一つの枠にはめ込もうとする法律は弊害の方が大きい」として持論の選択的夫婦別姓制度を主張し、「名字が同じか否かということと家庭の円満とは何の関係もない」「先進諸国で夫婦別姓を認めていないのは日本だけ」であることを強調。非嫡出子差別の問題と併せて、民法改正問題について森首相の見解を正した。その他、小児医療の充実についても質問があった。これに対して森首相は、民法改正問題については「国民各層の御意見を幅広く聞き、また、各方面における議論の推移も踏まえながら、適切に対処していく必要がある」と答えるに留まり、また教育問題については、「学力だけに偏ることなく、個性豊かで、体育、徳育、知育のバランスのとれた全人教育を推進」していきたいと答弁したという。
今回、民主党が水島氏を1年生議員ながら代表質問に抜擢したのは、地元選挙区で自民党現職の船田元氏を破って当選した水島氏の知名度が抜群だからであり、精神科医としての識見も高い若い女性として、彼女を抜擢することで民主党に対する支持を広げようとしたからに他ならない。
しかし、その水島氏を見て感じたのは、キレイゴトに終始している最近の民主党の問題性であった。
例えば水島氏は、党の候補者オーディションで、今の日本の最大の問題点を「女性差別と、子供を取り巻く環境」に求め、代表質問の中でも価値観の多様化をしきりに説いていた。しかし、「あらゆる価値観を認める」という点では我が国は既にかなり自由な社会であり、昨今の子供たちを巡る問題は、むしろそうした自由な子供たちが引きうけるべき役割すら喪失し、「子供らしさ」を強制されなくななったからに他ならない。また、多様な価値観を認めることと政策決定は別次元のことであり、我々は社会を形成して政策決定をする以上、最終的には多数決制を取らねばならないのであって、その決定は必ずしも「価値観の強制」とは呼ばれない(もし、それをも「単一の価値観の強制である」と主張するのであれば、自身の選択的夫婦別姓導入論やクオータ制導入論も又「価値観の強制」であるとして批判されても反論出来なくなる)。結局、氏の「価値観の多様化」という主張は、一見正論に見えて、実はその裏に隠れた「女権拡張」という真の主張をカモフラージュするものに過ぎないのである。
その夫婦別姓論議にしても、結局は算術的功利主義と自由主義に基づいて現行制度を批判しているに過ぎず、戦後社会の中で変容した家族のあるべき姿や家族倫理については、何も述べていない。「名字が同じか否かということと家庭の円満とは何の関係もない」というのも、別姓の成功例と同姓の失敗例という都合のよい組み合わせを持ち出した議論に過ぎず、「先進国では我が国だけ」というのも何等説得力を持たないというべきであろう。
水島氏は又、「民主主義とは、少数意見をいかに尊重できるか、そのためにコミュニケーションを尽くすこと」と述べているが、これは何も国会審議を30時間、40時間とやらなければならないということではなく、広く社会での議論も含まれるはず(そして、政権が交代したときに政策が撤回される可能性を許すこと)であり、「最近の国会運営を見て、民主主義とは話し合いよりも多数決で押し切ることだという誤った理解をしている人たちがふえているように思います」という水島氏の国会理解は一方的に過ぎる。
しかも水島氏は、自身のホームページにおいて、政策として「平和憲法を守り、戦争につながるあらゆる動きに反対します。」と明記し、その他、テレビ討論でも旧態然たる非武装中立論を唱えている。現に、8月20日に放映されたテレビ朝日の「サンデープロジェクト」において水島氏は、「私の理想は非武装中立です。自衛隊の存在など現実に憲法を合わせるために改憲をするのではなく憲法に照らし、自衛隊を解散させないといけない」と発言し、我が国が武力攻撃を受けた場合の対応について、「現在の国際情勢ではそういった無法な行為は許されないし、国際世論が許さない」「(それでも北朝鮮等が攻めてきたら)「とりあえず降伏します。お互いやりあって多大な死者を出すよりはいい。そのあと国際世論に期待します」等と述べている。政策の他の部分では「生活環境を守る」と題して「危機管理の検討を徹底的に行います」と主張しているにも関わらず、である。我が国国民の「生活環境」を大いに脅かす核兵器や不審船による日本人拉致、中東での和平や湾岸危機(直接的には無関係であっても、石油の安定供給に重大な影響を及ぼす)について、非武装の我が国は「国際世論に期待する」だけで一体どのように守れるのか。歴史上、「国際世論」に見放された国が侵略を受けてきたという事実をどう評価するのか。非武装論を標榜する以上、水島氏にはこれらの答えに回答する義務がある。
代表質問の中で水島氏は、「永田町の常識は国民の非常識」であると主張していたが、こうした新聞報道的見方しか出てこないことこそが、最大野党・民主党の最大の問題点なのではないだろうか。何故ならば、民主政体をとる我が国においては「永田町の常識は国民の(あるいは「農村の」)常識」、換言すれば「永田町の非常識は国民の非常識」なのであり、永田町以外には「常識」を持った「市民」が住んでいるというのは幻想に過ぎないからである。水島氏は「普通の市民感覚を持った女性の議員を増やし、生活者の声が反映される政治を目指します。」とおっしゃるが、その「普通の市民感覚を持った女性(市民)」が戦後半世紀に渡って我が国の危機管理体制充実を妨げ、湾岸戦争で世界から求められた自衛隊派遣を阻害し、陳腐な社会主義への憧れから日本社会党に投票し、そして6割以上が「姓は単なる個人呼称ではない」と答えているのである。■感情的護憲論はもはや不要
原よう子代議士、憲法調査会で発言(8月3日)
報道によると、先の第42回衆議院議員総選挙で当選した最年少者として知られる原よう子代議士(社会民主党・市民連合)は3日、衆議院憲法調査会で演説し、護憲の立場から意見を述べたという。それによると、原氏は冒頭、「今、こうして25歳の女性である私がこの場に立ってお話しできているのも」、「戦争を経験することなく生きて」こられたのも、「まさに(婦人参政権と戦争放棄を規定した)日本国憲法のおかげだと思います。」と前置きした上で、神奈川県における米軍基地の公害について指摘。更に、「沖縄では、女性としての意識が芽生え出した、精神的にも最もデリケートな時期にある女子中学生が、アメリカ兵からわいせつな行為を受けるという事件が起こりました。」「住民の方々への精神的な恐怖や負担はいかばかりでしょうか。」と述べて駐留米軍の問題性を説き、「これが(9条が守られていない我が国の)現実なのです。」という現状認識を示した。その上で原氏は、「私たちが戦渦に巻き込まれなかったのは、まさに日本国憲法を「何とか」死守してきたから」であり、「武力による安全保障ではなく、理性や知性による安全保障を模索するべき」として、改憲論を批判した。
なるほど、確かに日本国憲法の理想を実現するためには、「高度な政治力、外交能力、尊敬され、信頼される国民性など、高い知性と精神が求められる」ことは間違い無い。その点に関しては、原氏の言説に賛同できるが、しかし問題は、その「高い知性と精神」が必要なはずの護憲論を説くのに、米軍基地の被害問題のみを以って現状認識としたり、日米安保条約の評価や在日米軍の我が国安全保障に対する貢献を全く無視して「戦争に巻き込まれなかったのは憲法があったから」と述べる等、凡そ感情的・空想的な主張を繰り返している原氏本人の言論のありようである。朝鮮半島、台湾海峡、アセアン結成の経緯、在比米軍撤退と南沙諸島問題、その他、アメリカ軍のアジアにおけるプレゼンスが地域の平和と安定に貢献している事実はいくらでも指摘できるが、これらの事実を原氏は一体どのように評価し、日米安保条約そして(カンボジアPKOや災害救助で好評を博した)自衛隊をどのように批判しようとしているのだろうか。かつて、東西冷戦華やかなりし頃は、「ソ連式社会主義こそ真の民主主義だ」といった妄言も一定の説得力を持ち、故に「アメリカ帝国主義」に加担する日米安保を根本的に否定することも出来たが、「ソ連の夢」が潰えた今、原氏が訴えた「子供が子供らしく、若者たちが自分らしく個性的に、女性が安心して子供を産み、育てられる、そして高齢者の皆さんも安心して充実した生活を営める社会、人権や多様な価値観を互いに認めあえる社会」を最大限作ろうとしているのが(よくも悪くも)アメリカである以上、そうした言説はもはや成立し難い。基地公害の問題にしても、それは使用制限や安全協定の締結といった方法で解決されるべきであって、基地そのものを廃止することによって解決するといった方法は、日米安保条約の重要性を無視した短絡的な議論に過ぎない。
思うに、戦前、我が国が(国際戦略的に見ても)無謀な対英米中蘭同時戦争に突入してしまったのは、無論軍部官僚の失策といった側面もあるが、それ以上に「熱しやすく、冷めやすい」、短期的・局所的視点に拘泥した、経済国難で感情的になった国民世論が戦争を望んだからに他ならない。であるならば、「戦争を反省する」というのは、まずはこうした国民世論を反省し、「高度な政治力、外交能力、尊敬され、信頼される国民性など、高い知性と精神」を持ち、長期的・大局的視点を持つことになるはずである。その意味で、戦後の豊かさの中で育ち、思索するには比較的良好な条件の中にあったはずの原氏の言論のありようが、戦前の国民世論と同じく自己矛盾的な、「短期的、感情的」なものに終始してしまっているのは残念という他ない。「戦前的」な感情的護憲論は、もはや不要なのである。■「核兵器」ではなく「核兵器を操る人間」を直視せよ
広島・長崎、55回目の「原爆の日」(8月9日)
広島と長崎は、それぞれ6日と9日に、今世紀最後となる55回目の「原爆の日」を迎えた。6日に広島市中区の平和記念公園で開催された原爆死没者慰霊式・平和祈念式(平和記念式典)には被爆者、遺族ら約5万人が、9日に長崎市松山町の平和公園で開催された「被爆五十五周年長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」には森首相ら与野党幹部が出席した。
世界の核兵器を巡っては、最近では5月に核拡散防止条約(NPT)再検討会議の最終文書で、核保有国の核兵器全廃の約束が明記されるといった動きもあったが、反対に、北朝鮮の核開発疑惑、アメリカのNMD(国家ミサイル防衛)に対する反発等、必ずしも順風満帆の道のりにはなっていない。そんな中で、伊藤一長長崎市市長は、平和宣言で「わたしたちの力で核時代を過去のものにしよう」と呼び掛け、また秋葉忠利広島市市長は「人類が憎しみや暴力の連鎖を断って和解への道を開き、核兵器を全廃するよう訴え続ける決意」を表明したという。
しかし、人類史上、これまで核兵器がこうした「呼びかけ」によって削減されたことは無く、こうした「平和宣言」による毎年の呼びかけは、もはや限界に来ている。少なくとも、この半世紀の間、ヒロシマ・ナガサキが挙げてきた「原爆反対」の声は、あまり効果をあげていないのではないだろうか。冷戦後の核軍縮も、それは「冷戦後だから」なされたのであって、世界人類原爆の恐怖に目覚めたからではない。
なぜ声が届かないのか。その理由は様々あるだろうが、一つ考えられるのは、こうした「平和宣言」が、「和解のための対話」ということを提言しながら、結局核兵器保有国や核兵器賛成派との対話をなしてこなかったからではないだろうか。「対話」とは、他者の独立性を尊重した会話の形式であり、「核兵器を操る人間」を直視した説得である。その点、「原爆の悲惨な被害を目の当たりにしているのに、何故核保有国は『抑止力の神話』を信じつづけるのか」といった物言いは、「対話」とは言えない(加えて、冷戦が結局第3次世界大戦に発展しなかったのはこの『抑止力の神話』のためであり、つまりは「抑止力」は神話ではなかったのである)。思えば、核保有国は、反対派が説く「原爆の悲惨な被害」を目の当たりにするからこそ、核保有に踏み切るのであって、凄惨な被害から核廃絶という回答が出てくることは必ずしも自明ではない。つまり、核保有国との真剣な対話を欠いたまま、単に「原爆の被害」を訴えるだけでは、核廃絶を実現できないどころか、むしろある意味においては核保有国の論理を補強していることになるのである。よく、死刑廃止論や少年法改正反対論において、「被害者の応報的感情の満足」を主張する反対派に対して、「被害の大きさでショックを受けるのではなく、あくまで犯罪予防のための冷静な議論が必要だ」との論調が聞かれるが、これは、まさに核兵器廃絶論においても同様のこと(核兵器の被害にショックを受ける前に、戦争予防のための冷静な議論が必要だということ)が言えるのではないだろうか。その意味で、「近い将来に核のない世界を実現するよう全力で取り組むことが、世界で唯一の被爆国であるわが国に与えられた使命だ」という森首相の挨拶は、(「政治的な正しさ」としてはともかく)核廃絶へむけた取り組みの方法(被爆国であることの強調)としては説得力を欠くといわなければなるまい。
広島市の式典では、市長の平和宣言朗読に続き、子供代表で小学校6年生の岡田佳那子君と横田翔君が「平和への誓い」を述べ、「被爆した人々の平和への熱い思いを胸に刻み、21世紀に向け平和の架け橋となるよう努力する」と誓った。これは、「無垢な子供達」を使った一種のパフォーマンスであるが、なるほど、核兵器の被害を直接受けていない世代として、彼ら子供達は、ある意味で真の核廃絶論議が可能な世代なのかもしれない。■「わいせつ」よりも「法の濫用」が問題だ
横山ノック前大阪府知事、強制わいせつ罪で有罪判決(8月10日)
報道によると、知事選の最中、運動員の女子大生(22歳)にわいせつ行為をしたとして強制わいせつ罪に問われていた横山ノック(本名・山田 勇)前大阪府知事に対し、大阪地方裁判所(川合昌幸裁判長)は10日、「被告の刑事責任は重大だが、これまで築き上げたものをすべて失ったことや賠償金支払いを考えると、実刑とするには若干のちゅうちょを覚える」と述べ、被告人に懲役1年6ヶ月、執行猶予3年(求刑懲役1年6ヶ月)の有罪判決を言い渡した。
この事件で、女子大生側は実刑判決を求めていたが、判決は執行猶予つきのものとなった。これについて、一部論者からは「強制わいせつ罪という罪の重さに対して、刑が軽すぎる」「裁判長も所詮は男性であり、刑が不当に軽くなった」との評論があるが、賛成し難い。報道によれば、横山前知事のした猥褻行為はそこまで「重大」なものではなく、体の部位が違ったらせいぜい「暴行」にしかならなかったようなことであった。なるほど、たしかに猥褻行為は被害者の心に傷を負わせるのかもしれないが、それは暴行罪とて同じであり、それのみを以って重罪の理由とするわけにはゆかない。判決が言うように、横山前知事はその地位や名声を全て失っており、これが最大の、しかし妥当な制裁だったのではないだろうか(付言すれば、当時街頭宣伝車の車内には警察官も同乗していたというが、女子大生は「横山前知事は権力者なので警察官に言ってもだめだろうと思った」と証言しているという。しかし、よく知られているように、警察官は大阪府公安委員会の指揮下にあり、府知事とは独立した立場にあるのであって、こうした「心配」が及ばないようになっている。むしろ、大学生にもなって公安委員会制度を知らないことのほうが、問題のようにも思える)。
むしろ問題なのは、判決の中で裁判長が「情状酌量」の材料にさえ使っていた、被告人のウソの発言や逆告訴である。よく知られているように、当初横山前知事は、女子大生の告訴を「真っ赤なウソ」等と完全に否定した上で逆告訴まで行い、徹底抗戦の構えをみせていた。今となってはそれこそ「真っ青なホント」だったことが判明したのだが、少なくとも当時としては事実関係は不明だったのであり、その分、知事の発言には重大な責任が伴ったのである。公職にありながら、司法制度を悪用してまで犯罪事実を隠蔽しようとしたことは、それこそ女子大生に対する猥褻行為と比較しても、(社会全体に向けられた犯罪である、という意味で)遥かに重罪ではないだろうか。これについて裁判長は、「全てを失うことの恐怖から、被告人は強く否認する態度に出てしまった」としてかなり同情的だが、それでは同じく「全てを失うことの恐怖から」身内の麻薬犯罪をかばった神奈川県警本部長も又情状酌量されるというのであろうか。「法」は、フランス語では「客観的権利」と表現される。このことからもわかるように、我々が「法」に基づいて「権利」を主張する際は、他人が同じく「法」に基づいて主張する「権利」をも擁護する「義務」を常に伴うのであって、ある特定の場合についてだけ「権利」を主張し、他者の「権利」を否定するが如き行為は、「法」の名を借りた不正なのである。■海自潜水艦救難艦は大丈夫か
ロシア巡航ミサイル原潜、バレンツ海で沈没(8月13日)
報道によると、バレンツ海で演習中だったロシア海軍北方艦隊所属の原子力潜水艦「クルスク」(K-141)が13日、艦首付近に受けた衝撃により浸水し、水深約100メートルの海底に沈没した。同艦は事故後ただちに原子炉閉鎖を行い、付近海域への放射能漏れは無いものの、乗員118人は後部区画に取り残され、救出活動を待っているという。
今回沈没した「クルスク」は、NATOコードネーム「オスカーⅡ」級(ロシア名989A型)原子力巡航ミサイル潜水艦の1隻(但し、テレビで放映された映像は「アクラ」級攻撃型原潜にも見えた)で、全長143、メートル、水中排水量18300トン、SS-N-19「シップレック」潜水艦発射巡航ミサイル(SLCM)(潜対艦ミサイル<USM>)垂直発射筒24基、650ミリ魚雷発射管4門(魚雷、機雷、SS-N-16「スタリオン」潜対潜ミサイル<UUM>)、533ミリ魚雷発射管2門(魚雷、機雷、SS-N-15「スターフィッシュ」潜対潜ミサイル<UUM>)を持つ、ロシア海軍の中でも比較的新しいタイプの、しかも大型(戦略ミサイル原潜以外では世界最大)の原潜であった。同艦の任務は、アメリカの空母機動部隊に接近し、その大型の対艦ミサイルを発射して米空母を撃沈することにあり、空母保有数で格段に劣っていた旧ソ連・ロシアの潜水艦戦略の中核を担っていた。18300トンもの水中排水量があり、かつ、複殻式として脆弱性を弱めた同艦でさえ沈没を余儀なくされた今回の事故は、余程の強い衝撃があったものと見られる。
ところで、13日に沈没した「クルスク」だが、その後の救助活動は遅々としており、事故発生から5日たった18日(同日には艦内の酸素が切れるとされる)になっても解決の兆しは見られない。現場は荒天下の北極海で、救難用潜水艇(DSRV)が海流に流されたり、「クルスク」そのものが45度〜60度傾斜して着底しているためDSRVやレスキューチェンバーの接合が困難なためだが、原潜の機密保持を理由としてロシア海軍当局が外国政府の支援受入を当初拒んでいたことも理由の一つに挙げられている。「クルスク」には乗員脱出装置も装備されているが、衝撃により故障してしまい使用不能であり、個人脱出用のスタンキー・フード(頭まですっぽり覆う救命胴衣。これを着用して直接海中に出る)による脱出も水深の深さと水温の低さから疑問視されているという。
そこで気になるのが、我が海上自衛隊の潜水艦救難体制である。現在、海上自衛隊は練習用も含めて18隻の通常型潜水艦(いずれも水中排水量2000トン程度と、「クルスク」の8分の1)を横須賀、呉に分けて保有しており、ロシア海軍のような重大事故は発生していないが、海自当局には、今回の事故を「他山の石」として、潜水艦の救難体制について改めて点検を行ってもらいたい。例えば、我が国は、DSRV及びレスキューチェンバーを装備した大型潜水艦救難(母)艦を2隻(「ちはや」「ちよだ」)を保有しているが、これらによる救難作業は、はたしてどの程度の荒天下まで可能なのであろうか。また、潜水艦が沈没した場合、必ずしも前後左右水平のまま上手く着底することのほうが少ないだろうが、海自救難潜水艇は、一体何度の傾斜、何ノットの海流にまで対応できるのであろうか。更に、現在我が国の潜水艦にはない乗員脱出装置の装備の必要性についても、再度検討してみてはどうだろうか。
■二重基準擁護に堕落したニューヨークタイムズ
NYタイムズ社説、我が国の調査捕鯨を強く非難(8月15日)
報道によると、アメリカの新聞大手「ニューヨーク・タイムズ」は15日、同紙に「非難されるべき捕鯨」と題する社説を掲載し、我が国が条約上の権利に基づき実施している調査捕鯨、及び同じく条約上の義務として実施している鯨肉販売について、「科学的調査を装った食用目的の商業捕鯨」であり、我が国が署名している商業捕鯨全面禁止(モラトリアム)の合意を公然と無視している、と強く非難したという。捕鯨問題を巡っては、最近、我が国が調査捕鯨の捕獲対象を拡大したことを受けて、アメリカ政府が対日制裁も辞さない構えを見せており、同紙は「他の国々も米国に従うべきだ」と訴えているという。
二重基準に堕落した、ナンセンス極まりない社説という他ない。
そもそも、上述したように、我が国の調査捕鯨及びその鯨肉販売は、それこそ「我が国が署名した」国際捕鯨取締条約(ICRW)に基づいた正当な権利(及び義務)の下で行われており、我が国として「二重基準」に陥っていることは一切無い。我が国の捕鯨船団は調査捕鯨のために、様々な報告書を提出し、方法も厳密さを極めており、むやみやたらに捕獲する商業捕鯨のようなやり方をしているわけではない。NYタイムズ社の「科学的調査を装った食用目的の商業捕鯨」という見方はかなり悪意に満ちた曲解であり、偏見という他ない。しかも、我が国が商業捕鯨モラトリアムに署名したのは、当時アメリカ政府が遠洋漁業における対日制裁措置をちらつかせたためであり、やむを得ずハンを押したという性格が強い。無論、国際関係の中ではこうした圧力を受けることはままあるが、それを以って更に対日批判を強めるのは、まるで泥棒が人質の約束違反をなじるが如きである。
既に再三述べてきたように、今日の鯨類保護運動は、当初の「資源保存」を大きく逸脱して「動物福祉論」に移行しており、肉牛を大量に塗擦する国家が鯨類の福祉を説く倒錯した状況に陥っている。その自己矛盾は小学生の目にも明らかだが、アメリカで権威のあるメディアの一つがこうした幼児的な誤りを犯し二重基準を擁護しているのは、誠に滑稽という他ないだろう。■北朝鮮についての認識を変えるな
南北離散家族、再会(8月15日)
報道によると、1950年の朝鮮戦争の混乱等で南北朝鮮に生き別れになった離散家族が15日、100人ずつ双方の首都を訪問し、半世紀ぶりに肉親と再会を果たした。南北離散家族の相互訪問は1985年に実施されて以来2回目で、今回は今年6月の南北首脳会談を契機に実施されたもの。 双方の訪問団は、15日には面会場で待ち構える肉親と対面し、年老いた親子・兄弟が激情しながら抱き合っていたという。
今回の離散家族再開を契機に、報道各社は「南北の統一気運が高まった」といった報道をしていたが、果たして本当であろうか。というのも、インタビューを受けた北朝鮮(自称「朝鮮民主主義人民共和国」)側の家族が「再開が実現したのも金正日将軍様のお蔭です」といった受け答えをしており、同地における独裁者のカリスマ支配がなお続いていることを明瞭に物語っていたからである。そういえば、6月の南北首脳会談の際、空港に金大中韓国大統領を迎えた群集は、一様に桃色の造花を手に振りながら、「金正日、決死擁護!」と叫んでいたという。無論、各々の離散家族に罪は無いが、南北の真の和解が可能なのは、こうしたマインドコントロールがとけ、北朝鮮全体が「ムラ社会」から「マチ社会」へと変貌を遂げたときに他なるまい。■日朝国交正常化は北朝鮮側の対応にかかっている
第10回日朝国交正常化交渉、東京で実施(8月22日)
報道によると、22日午前、我が国と北朝鮮(自称「朝鮮民主主義人民共和国」)との第10回国交正常化交渉が東京の外務省飯倉公館で始まった。交渉の席で日本政府代表の高野幸二郎日朝国交正常化交渉担当大使は、「4月の前回交渉から今回までの間に朝鮮半島をめぐる極めて重要な肯定的な変化があった。ぜひこれを逃すことなく、真の善隣友好関係の樹立を実現したい。森首相以下、日本政府全体の強い意向だ」と発言。その上で、「国交正常化をする際には条約という形で、国会の承認を得なければならない。そのためには世論の広範な支持が必要だ。日朝間のいろいろな問題が国民に納得される形で適切に処理されなければならない」と述べ、北朝鮮のミサイル開発問題や日本人拉致問題の解決が国交樹立の前提条件になるとの認識を示した。これに対して北朝鮮政府代表団の鄭泰和大使は、「前回の交渉で過去の謝罪、補償など四つの基本問題を述べたが、これにいささかの変化もない。今回の会談で、過去を清算し、その基礎に立って新しい善隣友好関係の樹立のための第一歩としたい。20世紀のわだかまりを21世紀に持ち込むのは歴史的な責任を果たし得ない」と述べ、謝罪と補償を柱とした「過去の清算」の優先解決が不可欠との立場を強調した。なお、会談に先立って会談した河野洋平外務大臣は、「拉致の被害者の家族の方々は大変な思いをしている。その思いを踏まえながら、我々は(交渉を)やらないといけない。朝鮮側も行方不明者のしっかりした調査をきちんとやってほしい」と述べ、日本人拉致問題の解決を強く求めたが、これに対して鄭大使は「拉致というものは存在しない」と、従来の主張を繰り返すに留まった。
現在の日朝関係を分析すると、日本側には「拉致問題」「ミサイル開発問題」という2つの懸案事項があり、一方北朝鮮側には「戦後補償」がある。しかし、北朝鮮側懸案である「戦後補償」問題については、我が国としては既に村山談話等で植民地支配に対する謝罪の意思を表明しており、補償額の問題があるにしても、基本的には(国民感情としても、「過去の清算」の為補償金を支払うこと自体には異論は少ないので)政治決断で解決しようと思えば出来るものである。これに対して、日本側懸案である「拉致問題」は、北朝鮮が自国の犯罪行為を認めて謝罪し、拉致した日本人を送還するといった手順を踏まなければ解決できない。だが、北朝鮮という国家の性格からして、彼の国が、恐らくは工作員潜入作戦のための教育目的で拉致したのであろう日本人について、誠意を持って謝罪の意思を伝える可能性は低く、実現可能性は低いと見なければなるまい。何故ならば、一旦日本人拉致を認めてしまえば、当該日本人の帰国後の証言その他によって、北朝鮮がこれまで繰り返してきた工作員潜入、領海侵犯その他の不法行為が一挙に露呈し、北朝鮮としての国家の威厳をいたく傷つけるであろうことは想像に難くないからである。
では、どちらが国交正常化を欲しているかというと、それは基本的には北朝鮮側だということになろう。何故ならば、我が国にとって、北朝鮮との国交の有無は(弾道ミサイル等我が国を射程距離に置く軍備が存在する限り)我が国の安全保障にあまり本質的影響を与えない以上、正常化の利点は「対話窓口の確保」「拉致疑惑の解明」といったことぐらいしか無いのに対して、北朝鮮側からすれば、「過去の精算」を名目として多額の賠償金を得、更に貿易を促進できるといった大いなる利点があるからである。現に、北朝鮮は、国交正常化交渉にかこつけて既に多くのコメ支援を引き出しており、所期の目的を達成していると見られる。
であるならば、この交渉の中で譲歩すべきなのは、北朝鮮側のはずである。無論、彼の国が自国の拉致行動を正面から認める可能性は低いが、「新しい善隣友好関係の樹立のための第一歩としたい」等、「今後は拉致行為を慎む」ともとれるニュアンスの発言もあり、また「行方不明者としての捜索」には既に一度応じている。しかし、こうした通り一遍の対応では、一時的なコメ支援はあり得ても、日本国民をして「友好善隣関係」を樹立したいと思わせるには至らないのは明らかであって、故に、彼の国の一層の踏みこんだ対応が求められるのではないだろうか。■「唯一の超大国」は感情的反捕鯨論に加担するのか
米国務次官、我が国の調査捕鯨に抗議・貿易上の制裁措置発動も示唆(8月31日)
報道によると、アメリカのアラン・ラーソン経済担当国務次官は30日、柳井俊二駐米日本大使を国務省に呼び、日本政府がミンククジラと共にマッコウクジラとニタリクジラを調査捕鯨の対象に拡大したことについて改めて抗議を申し入れた。ラーソン次官は又、(1)9月に予定されていた日米漁業協議の中止、(2)日本での国連アジア太平洋経済社会委員会(ESCAP)環境相会議への米政府代表団派遣の取り止め、(3)国際捕鯨委員会(IWC)年次会合の下関開催の変更検討、の3つの対抗措置を取ることを通告した。また、米国務省のバウチャー報道官は同日、これらの対抗措置を発表すると共に、アメリカ政府が海洋資源保護を定めた国内法「ペリー修正法」に基づく貿易上の制裁措置の発動を示唆した。これに対して柳井大使は、アメリカ政府のこれらの対抗措置発動に遺憾の意を表明すると共に、我が国の調査捕鯨は国際捕鯨取締条約第8条で認められた正当な権利で、その対象もマッコウクジラを含めて絶滅の危機に瀕しているわけではない、と反論するとともに、感情論ではない議論を要請。制裁措置の検討についても懸念を表明したという。
再三強調しているように、今日展開されている反捕鯨論の多くは極めて感情的かつ一方的なものばかりであり、説得力に欠けるといわなければなるまい。アメリカ政府も、残された超大国としてこの問題に関与し、WTO違反の危険を犯してまで制裁措置をチラつかせる以上は、全世界が納得するかたちでの理由を説明すべきではないだろうか。
製作著作:健論会・中島 健 無断転載禁止
©KENRONKAI/Takeshi Nakajima 2000 All Rights Reserved.
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |