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同時多発テロと日本外交
〜テロ事件は日本に何を問いかけたか〜

坂口 彰・古屋 智靖・松浦 淳介

はじめに

 「日本国憲法」の前文には、次のようなくだりがある。「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永久に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」と。
 実際、現在の我が国は、戦後半世紀にわたる国民の不断の努力によって、戦争で叩きのめされた三流国から、世界第2位の経済大国にまでのし上がった。未だ占領下にあった朝鮮戦争で経済復興のきっかけを掴み、ベトナム戦争でも特需景気に支えられ、アジア唯一の主要先進国として、遂には世界最大のアメリカ経済にも匹敵する繁栄を築きあげた我が国は、経済的な意味では確かに『名誉ある地位』を占めるに至ったと言えるだろう。
 しかしながら、そうした国民の認識に警鐘を鳴らしたのが、1991年の湾岸戦争であった。この時、大国となった我が国にも相応の貢献が期待されたのだが、国論を二分する議論の果てに出した1兆円の資金と数隻の掃海艇は国際世論にほとんど評価されず、アメリカからは「日本の貢献策は"too little, too late"である」といった厳しい批判を受けた。『名誉ある地位』とは一体何なのか。その答えを出せぬまま政治は混迷を深め、最近では、強かったはずの経済も長期的な不況を前に低落を余儀なくされている。
 あれから10年。突如としてアメリカを襲った卑劣なテロ攻撃は、我々に再び「国際社会における日本の役割とは何か」という難問をつきつけている。しかも、今回の事件は、日本人からも犠牲者が出ているという意味でも、また同盟国・アメリカに対する攻撃という意味でも、我が国は正に事件の当事者になっている。そこで本小論では、「今回の米国同時多発テロ事件に対して我が国は今後どのような対応をとるべきか」を考えることを通して、21世紀の国際社会における我が国の役割のあり方を考えてゆきたい。

事件前のマンハッタン島 事件後のマンハッタン島

事件前(左)と事件後(右)のマンハッタン島
左は9月10日、右は12月1日に撮影。矢印が同じ位置。

第1章 同時多発テロ事件とアフガニスタン

第1節 同時多発テロ事件
 2001年9月11日。後世の歴史家は一体、この日をどう位置付けるのであろうか。この日の早朝、燃料を満載した合計4機の米国国内線の旅客機がテロリストにハイジャックされ、その内2機がアメリカの繁栄の象徴であるニューヨークの世界貿易センタービルに、またもう1機がアメリカの軍事力の象徴であるワシントンの国防部庁舎(国防総省、ペンタゴン)に激突。ハイジャック機の乗客・乗員が全員死亡した他、日本人を含む合計5000人以上の一般市民が犠牲になった。更に、事件発生一週間後に再開されたニューヨーク証券取引所では、取引再開直後に株価が9000ドルの大台を割り込み、減速しつつあったアメリカ経済に深刻な追い討ちをかけた。ニューヨークはその後も炭疽菌入りの郵便物を使った生物兵器テロや航空機事故に見舞われており、重要施設の警備強化、航空業界の大規模リストラ、多くの市民に対する精神的ケア、等の課題に直面している。
 事件後、全米に向けて演説したアメリカのブッシュ大統領は、今回の事件がイスラム原理主義過激派のアラブ人オサマ・ビン・ラディン率いる国際テロ組織「アル・カイーダ」の犯行であることを公表。ビン・ラディンらが潜伏しているとされるアフガニスタン周辺に空母や長距離爆撃機、特殊部隊を配置して、彼らを保護している同国のタリバン政権に対し、身柄の引渡しを要求した。しかし、これに対してタリバン政権側が「客人」であるビン・ラディンらの引渡しに応じなかったため、10月8日、米英軍は遂にアフガニスタン全土に対する空爆を開始。それ以来、北部同盟の首都カブール制圧やタリバン政権のカンダハル撤退等、事態は急速に変化しているが、依然、米海兵隊による対テロ軍事作戦は続いている。

事件現場 事件現場

倒壊した世界貿易ゼンタービルの外壁(左)と損傷した付近のビル(右)
いずれも12月に現場付近にて撮影。

第2節 アフガニスタン情勢
 ところで、今回の事件を考えるにあたって、国際テロ組織「アル・カイーダ」とその指導者オサマ・ビン・ラディンが滞在している「アフガニスタン」という国について、少し詳しく検討する必要がある。何故ならば、彼が同国を根拠地として国際テロ組織を運営しているのは全くの偶然ではなく、彼がそこに拠点を構える上でのそれなりの理由があったからである。
 はじめにざっとアフガニスタンという国の地理的状況について見てみたい。アフガニスタンは、アジア大陸のほぼ中央部に位置し、面積は約65万平方キロと我が国の1.7倍ある。地図を見ればわかるように、日本が周りを海に囲まれているのに対し、アフガニスタンは周りを全て陸地に囲まれている。国土の4分の3は高山地帯であり、また大部分が砂漠気候又はステップ気候になっている。工業化はほとんど進んでおらず、農業も自給自足が中心で、非合法の麻薬取引を除いては外国に輸出するような生産物は無い。1986年の時点での国民総生産は約32億ドルで、これは我が国の約1000分の1の数字である。
 このように、決して繁栄しているとは言えないアフガニスタンだが、歴史を振り返ると、かつてはシルクロードの中継都市として大いに栄えていた時期もあった。しかし、東西交易の内陸ルートの衰退とともに、アフガニスタンの重要性は徐々に低下していった。
 さて、アフガニスタンがテロ組織に活動の場を与えはじめたのは、アフガン駐留ソ連軍が撤退した後の91年から発生した、アフガン内戦の時期であった。そして、その内戦によって生じた「歴史の断絶」が、テロリスト達に格好の隠れ家を提供することになったのである。
 ここでいう「歴史」とは、アフガニスタンにおいて長い間維持されてきた部族間の共存関係のことだ。アフガニスタンは、多民族多言語国家であり、国内には、少なくともパシュトゥーン人、タジク人、ウズベク人、ハザラ人の4つの民族が住んでいる。加えて、それぞれの民族の内部にも、方言の違い等から様々な部族が存在している。このように、アフガニスタン社会は強い分権的性格を持っており、微妙なバランスの上で共存関係が成立していた。時にはそれぞれの民族が、殺し合いをすることもありましたが、戦いの中には最低限のルールというものが存在していた。

人 種特 徴
パシュトゥン人多数派(40%)、アーリア系、スンニ派
タジク人少数派(20%)、イラン系、スンニ派
ウズベク人少数派(10%)、トルコ系、スンニ派
ハザラ人少数派(10%)、モンゴル系、シーア派

アフガン主要民族

 その最低限のルールこそが、穏健なイスラム教スンニ派ハナフィー学派の伝統であった。必ずしも全ての部族がこの教義を信奉していたわけではないが、少なくとも「イスラム教を信ずる」という一点において、アフガン人は団結し得たのである。ソ連軍介入やアフガン内戦の時のように、女性や子供まで殺戮し、捕虜や罪人に残虐な刑罰を課すことは、過去のアフガニスタンでは全く見られなかったことで、このイスラム教の伝統を壊し、歴史の断絶を招いたのが、1979年のソ連軍介入と、内戦時に大量に持ち込まれた近代兵器であった。この新たに持ち込まれた武器はアフガニスタン住民の大量殺戮を招き、歴史を当然語り継ぐべき人間を皆殺しにしてしまった。かろうじて生き残った人々も周辺諸国に亡命し、彼らの生きているうちに二度と祖国の土地を踏むことは無かった。こうして、何百年もの歴史が、数十年の内に断絶してしまったのである。

第3節 アフガン内戦と国際テロ組織
 ここで、もう少しアフガン内戦の特徴について見ていきたい。端的に言うとこの内戦は、アフガン内部の諸部族対立だけではなく、周辺諸国の思惑が複雑に絡みあった代理戦争であったと言えよう。アフガニスタンは、北にトルクメニスタン、タジキスタン、ウズベキスタンと接し、西にイラン、東と南にパキスタンに囲まれ、更には、東のワハン回廊を通じて中国とも国境を接している。
 アフガニスタン北部に位置するトルクメニスタン・タジキスタン・ウズベキスタンの中央アジア諸国は、ソ連崩壊で誕生した比較的新しい独立国であり、市場経済への移行過程にあって政情が不安定である。そのため、過激なイスラム原理主義の温床で、危険な民族対立を煽る危険性を有しているタリバンの勢力拡大は避けたいという思惑がほぼ共通してあった。この思いは国内にチェチェン・ゲリラ問題を抱えるロシアも同じで、そのためこれらの国々は、人種的にも同一である反タリバンの北部同盟(アフガニスタン救済イスラム国民戦線)、即ちタジク人ブルハヌディン・ラバニ大統領率いるイスラム協会と、ウズベク人ラシッド・ドスタム将軍率いるイスラム国民運動を支援している。また、中央アジア最大の石油・天然ガス田を持っているトルクメニスタンは、アフガニスタンを通ってインド洋に抜けるパイプラインを建設するという、独自の国家目標も持っている。
 西のイランは、スンニ派のパキスタンや同じくスンニ派原理主義のタリバンとは元々宗教的に仲が悪く、またアフガンに住むハザラ人が民族的に近いため、ハザラ人で構成する北部同盟のイスラム統一党や、ペルシャ語系の言葉を話すタジク人らに資金・武器を援助している。そしてこの構図は、イランを「イスラム革命を輸出する敵」とみなしているアメリカやサウジアラビアがパキスタンを支援していること、1998年にマザリシャリフでイラン外交官がタリバン軍によって殺害される事件が発生したこと、タリバン政権自身がイラン国内の非ペルシャ人反体制派に聖域を与えて支援していること等から、一層強化されてしまった。

支援国支援先理 由
トルクメニスタン
タジキスタン
ウズベキスタン
ロ シ ア
イスラム協会(ラバニ大統領派)
(タジク人、故マスード将軍)
イスラム国民運動(ドスタム将軍派)

(ウズベク人、旧政府軍北部方面軍団)
民族的親近感
イスラム原理
主義の封じ込め
イ ラ ンイスラム統一党
(ハリリ氏らハザラ人勢力)
シーア派支援
ペルシャ語族支援
パキスタン
サウジアラビア
タリバン政権
(ムハマド・オマル師)
反イラン
パシュトゥン人対策
アメリカかつてはムジャヒディン支援
現在は反タリバン政権・親北部同盟
反テロリズム
反アルカイダ

アフガン各派と周辺諸国の動向(★が北部同盟)

 次にパキスタンだが、パキスタンとアフガニスタンとの関係は、周辺諸国の中で最も重要と言えよう。パキスタンは、これまでムラー・オマル率いるタリバンを支援していた。その思惑は、一つにパキスタンとインドは宿命のライバルであり、パキスタンにとって後背地であるアフガニスタンに自国の影響が及ぶ政府が存在すること望まれたからである。事実、アフガニスタンは1950年代に、パキスタンのパシュトゥン人居住地域の併合を主張して2度国交を断絶させており、その為パキスタンは東のインドとの対立に加えて西のアフガンとの国境問題は避けたいと思っている。また、二つに、パキスタンにもタリバンと同じパシュトゥン人が総人口の13%を占めており、パシュトゥン人支援が歴代パキスタン政府の政権維持のためにも必要だったのだ。もっとも、パキスタン人はアフガン人をうまく制御していると思っているようだが、現実は必ずしもそうではない。実際のところ、親タリバンの過激派がパキスタン国内にも勢力を拡大しており、またアフガン国境での密貿易やヤミ経済はパキスタンの税収入を落ち込ませる等、国内の政情不安定の一要因となっている。パキスタンがアフガンに与えた弊害も大きいが、逆に被った被害も甚大だと言えよう。
 アフガン内戦には、これらの周辺諸国だけでなく、サウジアラビアやアメリカも間接的に介入した。サウジアラビアは、シーア派のイランと仲が悪いため、イランが北部同盟側についたのをみて、その逆でタリバンを支援していた。またアメリカは、過去を振り返ると、概してアメリカの中央アジア地域への興味は薄く、できることならば関わりを持たないように努めてきたふしがある。ソ連のアフガン侵攻当時、アメリカはイランのホメイニ革命に気を取られており、しかも当時のパキスタンのハク大統領が核兵器開発を表明したことで、カーター政権と対立。結局、アメリカが本格的にムジャヒディンを支援したのは1981年からであり、それもスティンガー携行地対空ミサイル等の高性能兵器を供与しはじめたのは、ゲリラ勢力がやや劣勢になった85年末からのことであった。そして、ソ連軍が撤退した後のアメリカは、アフガン情勢そのものに対する外交的関心を失っていた。但しアメリカは、トルクメニスタンの石油資源に注目が集まった一時期再び関心を示し、イラン経由のパイプラインを阻止してアフガン経由でパイプラインを作るため、タリバン政権を利用する姿勢をとったこともあった。
 様々な利害が衝突し泥沼化した内戦だったが、1994年頃から、つい最近まで全土の9割を実効支配していたタリバンが登場する。最近の報道にもあるように、タリバンは元々パキスタンに避難した貧しいアフガン難民のイスラム神学校の生徒を母体としており、厳しいイスラム法を制定して治安を回復させたこと、当初は他の内戦各派のように略奪や虐殺を行わなかったこと、軍閥や部族各派を政治・軍事の両面で巧妙に攻略してきたこと等から、激しい女性抑圧や娯楽の禁止にも関わらず、急速に支持を拡大した。当初、パシュトゥン人のイスラム党ヘクマチアル派を支援していたパキスタン統合情報部(ISI)も、この時支援先をタリバンに変更。カンダハルで産声を上げたタリバン政権は、95年9月には北西部ヘラートを、96年8月にはジャララバードを、そして同年9月にはカブールを占領して行ったのだった。しかし、パシュトゥン人主体のタリバンは、異民族が住むアフガン北部では抵抗に遭い、1997年5月にはドスタム将軍派の分裂を誘ってマザリシャリフの攻略を狙ったものの失敗。98年8月には占領したものの、この時の失敗でタリバンも又数千人規模の異民族虐殺や略奪に手を染めていく。そして、ちょうどこの頃からタリバンは、96年5月にスーダンを追われアフガニスタンに入国したオサマ・ビン・ラディンらアラブ人一派の強い影響下に置かれるようになり、今日のように過激化してしまった。当初、タリバンの指導者ムハンマド・オマル師はビン・ラディンの身柄と引き換えにアメリカに国際法上の政府承認を求めたこともあったが、タリバンの女性抑圧政策にアメリカが反発したこと、98年のケニアとタンザニアでの米国大使館爆弾テロ事件でアメリカが報復の巡航ミサイル攻撃を行うったこと等で、両者の対話を通じた合意の可能性は、徐々に少なくなって行った。
 結局、90年代のアフガニスタン内戦は、民族毎に分裂した各派がいずれも決定的な勝利を収めることが出来ず、しかも、アメリカやサウジを含む関係各国が、それぞれの思惑で、自国が支援する勢力が決定的な敗北をしない程度に支援を続けたが為に、長期化・泥沼化してしまったということが言えるのではないだろうか。そして、そうした混沌とした無政府状態のアフガニスタンが、9月11日の惨劇を引き起こした国際テロ組織の温床になってしまったことも又、明らかであろう。

第2章 日本は何をなすべきか

 それでは、我々は今回のテロ事件からどのような教訓を読み取り、世界第2位の経済大国として、またアジアに生きる先進国として、一体何をなすべきなのであろうか。

第1節 同時多発テロ事件の教訓
 今回の事件から我が国が学ぶべき最大の教訓。それは、アフガニスタンの貧困と内戦が世界の政治・経済に重大な影響を与え得るということ、即ち、この「日本」という国は決して一国だけで繁栄しているのではないのであって、例え地球の裏側の、私達から見えないところで行われている内戦や貧困であっても、我が国の平和と繁栄という国益に重大な影響を与える可能性がある、ということである。
 そもそも、これまでの我が国戦後外交は、「敗戦からの復興と国際社会への復帰」という消極目標の達成を基本としつつ、国際社会からの求めに応じて、徐々に国際社会における秩序形成の一端を担う、といったスタイルをとってきた。即ち、1952年のサンフランシスコ平和条約と日米旧安保条約の調印によって我が国は西側陣営の一員として国際社会への復帰を果たし、その後も西側の盟主・アメリカの外交的支援を受けながら、GATT加盟や国連加盟といった懸案を処理。経済的には、アメリカの援助と朝鮮戦争の特需景気で復興のきっかけを掴み、早くも1950年代には「もはや戦後ではない」等と言われるまでになった。その後、1960年代から70年代にかけては、IMF8条国への移行や「先進国クラブ」と称されるOECDへの加盟に代表される我が国の経済成長と、ベトナム戦争、ニクソン・ショックに代表されるアメリカの国力の低下を受けて、「敗戦処理」から「西側陣営への積極的な貢献」へとシフトを開始。新安保条約と「日米新時代」、主要先進国サミット参加、旧ガイドライン制定、「1000マイル・シーレーン防衛」、「思いやり予算」等の施策は、いずれもアメリカの衰退を補い国際秩序の維持に貢献するものであった。また、1977年に発表された「福田ドクトリン」は東南アジア重視を謳い、日米同盟の範囲内で『責任ある大国としての外交』を模索する動きも始まった。1980年代にはそうした傾向が一層顕著となり、日米間では様々な貿易摩擦が問題化する一方、『新冷戦』を呼号してソ連との対決姿勢を強めたアメリカを支える形で、我が国も防衛力を強化。西側陣営の一員として、ソ連崩壊・冷戦終結に貢献したのである。
 しかしながら、80年代までの我が国の外交の基本はやはり「国際社会への復帰」を目指す『敗戦国の外交』『小国の外交』であって、現在の国際社会の秩序を与件として、如何に自国をその中に位置付けるのか、ということが主題になっていた。その為、1990年代に入って東西冷戦が終結し、それまで日本外交が「与件」として考えてきた米ソ両超大国を筆頭とする国際秩序が崩壊すると、「国際社会への復帰を目指す中小国」という主観的認識と「国際政治に主要な役割を果たすべき先進国」という客観的状態のギャップが表面化。1991年の湾岸戦争では、ペルシャ湾地域の平和と安定が重要な国益でありながら、国連安保理を中心とした新たな国際秩序形成の模索に参画することが出来ず、多国籍軍に対する1兆円の支援も「少なすぎる、遅すぎる」との批判を受けるに至った。
 その後、そうした国際情勢の変化を踏まえて、1992年には PKO協力法(国際平和協力法) 、97年には日米新ガイドライン、そして99年には 周辺事態安全確保法 が制定され、我が国として世界や東アジアにおける平和と安定により積極的な役割を果たしていくことになった。また、実際に93年にはカンボジア和平プロセスに参画した他、従来より我が国は世界最大のODA(政府開発援助)供与国として、発展途上国に対する経済協力を積極的に推進して来た。しかしながら、これらの一連の外交政策に関して、我が国の国民世論が、「平和で安定した国際秩序の形成に積極的に参画し、先進国として地球上の問題について責任を持つ」という明確な目的意識を持っていたのか、という点に関しては、疑問無しとはしない。つまり、世界第二位の経済大国であり主要先進国である現在の我が国と、国土が焦土と化し外国軍隊の占領下にあった敗戦国しての我が国とでは、おのずと国際社会において求められる役割に違いが出てくるのであって、そうした主要先進国としての『責任ある大国の外交』、国際秩序を与件としてその中で国益を最大化するのではなく、自ら国際秩序の形成に関与する中で、地球全体の平和と安定を確保してゆくような外交の必要性が十分認識されていないのではないか、ということである。
 東西冷戦が終結して10年。21世紀に入り、9月11日のテロを経験した世界は今、正に新たな国際秩序を模索する時代に入った。国際社会において相互依存関係が進展し、我が国の世界に占める政治的・経済的重要性が各段に上昇した今、我々は、オサマ・ビン・ラディンを反面教師として、アフガニスタンその他の紛争地域の情勢が決して他人事ではなく、我が国としても真剣な問題意識を持つべき課題であることを認識すべき時を迎えている。そうした転換期の国際社会にあって、我が国には今、「世界にスタンダードを提示していく」と同時に「責任を持ってスタンダードを守る」、『責任ある大国の外交』が求められているのではないだろうか。

第2節 当面の課題
 それでは、そうした『責任ある大国』としての我が国は、今回の事件を踏まえて、一体何をなすべきなのか。まずは、当面のアフガニスタン情勢に対する課題として、アフガン復興支援に関する提言を行いたい。

1、紛争の終結
 既に前の章で見てきたように、9月11日の同時多発テロのような事件を無くしてゆくためには、現在のアフガニスタンの混沌とした状況を解決することが不可欠である。つまり、まずは復興支援を実施するための消極的な条件整備として、アフガニスタンの平和を回復するのである。具体的には、内戦各派及びそれを支援する周辺諸国に対して、停戦と復興のほうが内戦継続よりも長期的に見てそれぞれの利益に適うような状況を政策的に創りだし、「決定的に負けたくないから戦い続ける」という不毛な循環を断ち切ることで、これには軍事、政治及び経済の諸手段が含まれることになるであろう。例えば、内戦各派の武装解除や停戦監視、諸外国からの軍事支援の遮断と兵力引き離し、責任ある中央政府各民族が共存できる自治制度の立ち上げと、周辺諸国に対する政治・経済的な支援といったことが想定され得る。そして、そうした任務に対して国際連合の仲介や我が国自衛隊が果たす役割は小さくないであろう。同時に、食糧や医療といったベーシック・ヒューマン・ニーズの人道支援も必要で、これは国連難民高等弁務官事務所やNGOに大きな期待が寄せられる分野である。

2、貧困の克服
 次に、そうした消極的な条件が整った段階で、我々は次のより積極的な段階としての経済復興、貧困の克服に目を向ける必要がある。かつて、東洋人初のノーベル経済学賞を受賞したインドのアマルティア・セン教授は、著書『自由としての開発』の中で、「極端な貧困という経済的不自由は、他の種類の自由を侵害し、人を無力な犠牲者にしてしまう」ものだと述べている。事実、現在のアフガニスタンは、他の文明を否定する過激なイスラム原理主義が支配する不自由な場所となっているが、その原因には、やはり「貧困」という要素が隠れている、即ち、「貧困」こそが、アフガニスタンの多くの人々に過激な思想に対する郷愁を促しているのである。だから、アフガン復興について考えるには、如何にしてアフガニスタンを貧困から離脱させ、経済的な孤立状態から世界経済の中に組み込ませるかということが最重要課題になる。世界経済は、しばしば冷酷である。しかし、冷酷な世界に挑戦することが、将来への可能性を開くであろう。
 アフガニスタン復興について具体的提言をする前に、まず他地域の復興はどのようになされてきたのか、そして、その地域は今どのようになっているのか見ていきたいと思う。ここでは、タンザニア、カンボジア、ツバルを例に挙げたい。勿論、アフガニスタンとそれらの国々では、国家規模、人種、宗教、文化、政治・経済システム等がそれぞれ大きく異なっているが、そこから見出せる展望、教訓などは大変意義深いものであるし、アフガン復興を考える上においても、十分示唆に富むべきものを与えてくれると考えるからである。
 サハラ砂漠以南の地域、すなわちサブ・サハラ・アフリカは、世界で最も貧しい地域だと言われている。その現状は深刻で、貧困や内戦のため、その地域に住む人々の3分の1近くが40歳まで生きられない。また、1人あたりのGDPは先進国の約50分の1で、そこに住む人々は途上国の平均をも著しく下回る生活条件を強いられている。その中でも、東アフリカの最貧国といわれるタンザニアに注目してみた。タンザニアの歴史はまさに試行錯誤と挫折の歴史であった。1961年に英国から独立し、ニエレレ大統領の下で当時のアフリカの多くの国々がとった社会主義の道を進んだものの、世界経済を取り巻く環境が悪化した1980年代に入って、経済が破綻。1986年からはIMFや世界銀行による支援を受け、それらの指導の下、市場原理の強化、規制緩和、経済自由化などの政策転換を図った。しかし、その後もマイナス成長、高インフレが続き、経済改革の試みは期待された成果を上げることが出来なかった。世界銀行はこの経験を総括して、「適切な政策の導入だけでは、持続的な成長と貧困緩和をもたらすことはできない。適切な政策に加えてインフラや人的資源制度作りへの投資の継続、強力なリーダーシップと良い統治(グッド・ガバナンス)が不可欠」であると述べている。また、この改革は、国際機関が現地の歴史、文化、政治・経済システムを十分に考慮することなしに行なわれた完全に「上からの改革」であり、余りにも急進的な改革であったといえよう。開発途上国には、開発途上国それぞれに合った復興なり開発なりがあるはずで、現にソ連崩壊後、CIS諸国の中で経済の自由化などを急速に行う急進的な改革を行った国が、漸進主義的な政策をとった国と比べて、いまだに経済不況に苦しんでいるという事実は注目に値する。 
 一方、カンボジアは、タンザニアとは対照をなす復興を遂げた。カンボジアもアフガニスタン同様、長い間の内戦に苦しんできた国だが、1991年にパリ平和協定が締結されて内戦は一応終結した。それと同時に、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)による暫定統治が行われた後、93年の総選挙で連立政権が発足し、現在に至っている。その間、カンボジアの実質GDP成長率は、UNTAC時代に7%台、UNTAC引き揚げ後、少し落ち込んたが、またすぐに7%台に戻った。97年にはアジア金融危機に見舞われた関係で低迷を余儀なくされたものの、99年には4.3%にまで回復。このように、何度か危機に見舞われつつも、カンボジアは何とか戦後復興を軌道に乗せつつあるのではないだろうか。これには、UNTACをはじめ、その後の連立政権による適切な政策と先進各国による経済開発援助があったと指摘できよう。具体的には、UNTACは中立性を保ちつつ、かつ当事者の意向を尊重しながら、治安の維持に力を入れ、また経済改革を断行した。また並行して、インフラ整備、農業復興、税制整備などもの指導も行われた。UNTAC引き揚げ後連立政権は、各国の援助を取り付けるため、また外国投資を受け入れるため、経済発展計画を準備し、「カンボジア復興開発国家計画(NPRD)」を発表。3つの柱として「持続的経済成長」「持続的人間開発」「天然資源の持続的管理・利用」を掲げ、それに即した行政改革を断行した。この外国からの援助・投資に最も貢献したのが我が国で、既に70〜80億円の無償援助を行っているだけでなく、積極的な人材育成、技術移転なども行ってきた。
 三つ目の事例としてツバルを見てみると、同国は1978年に英国より独立した南太平洋に浮かぶ島国で、国土、資源に恵まれておらず、国内産業は未発達な状態にある。「コプラ」という乾燥したヤシの実作り以外にこれといった産業がなく、主な国家収入源はコプラ輸出、海外出稼ぎ者の本国送金、政府による切手輸出販売(これが切手ファンに売れる)くらいのもの。その為ツバルでは独立以来、慢性的な赤字財政が続いていたが、ツバルは英国の財政援助が削減されること等を理由に、1987年、英国、豪州、ニュージーランドからの拠出金を主体とし、これに我が国及び韓国の拠出金も加えた「ツバル信託基金」を設立。基金の利子を政府経常予算に充てる策を講じた。この基金は順調な発展を続け、その運用益は1998年で国家財政の約18%を担っており、経済発展及び国家運営に大きな貢献をしている。
 それでは、これらの事例からアフガニスタンの復興について探っていこうと思う。まず、復興においては政治的な紛争解決、経済復興を実現できるだけのきちんとした統治機構の存在が大前提となる。アフガニスタンの場合、タリバン政権崩壊後の政府については、国連主導の暫定統治機構が存在することが最も望ましい方法であろう。無論その場合、アフガンのどの勢力に対しても中立性を保ちつつ、かつ当事者の意向をある程度尊重する姿勢を忘れてはならない。政策においても、「本来、復興・開発とは当事者が独自のやり方で挑戦するもの…であるが、当事者にそれを実行するだけの力がないとき、国際機関があくまでも補助的に、当事者がその力を持つまで、またはその力を持たせるように手助けする」という原則に則り、自助努力を促す目的でなされなくてはならない。
 復興における大前提を述べたところで、次に具体的手段を提言したい。最初に触れたが、アフガニスタン復興の最大テーマは「貧困からの解放」である。そのキーワードは2つ、「雇用機会の拡大」と「未来への投資」。「雇用機会の拡大」には、皮肉なことに壊滅的にまで破壊された生活インフラ、産業基盤の整備がそれに貢献しよう。まず、我が国が主体となり他の先進各国にも呼び掛けて「アフガン復興信託基金」創設のための拠出金を準備する。この基金は「ツバル信託基金」をモデルとしているが、その資金は主に国内復興事業に充てられる。政府は、この各国による拠出金を基に創設された「アフガン復興信託基金」を運用し、アフガン国内の労働力を最大限に活用して、地雷撤去を含む生活インフラ、産業基盤の整備にあたることになろう。こうして難民など貧困層に雇用機会を与えることは、貧困の緩和に直結するし、同時にこれによって国内基盤も築かれていくのではないだろうか。
 貧困からの解放におけるもう一つのキーワードが「未来への投資」だ。「未来への投資」とは、人材育成に他ならない。人材の育成には2つの場、即ち学校と職場がある。学校は系統だった知識を身につける場で、これに対し職場は仕事に実際に役立つ職業能力を身につける場だ。我が国は学校の建設に資金を提供したり、専門家を派遣して職業教育を行ったりするなどの協力が可能であり、また実績もある。また、我が国もアメリカのフルブライト奨学金制度に習って対アフガン奨学金制度を設け、奨学生が各自の専門分野の研究を行うための財政的支援を行うだけではなく、何らかのかたちで日本・アフガンの相互理解に貢献することができるリーダーを養成していくことも視野に入れることができるであろう。その意味でこの奨学金制度は、単にアフガンの復興を助けるだけでなく、我が国の文化外交戦略の一環としても重要な役割を担うことが期待されている。東アジアが急速な経済発展を遂げ、貧困から脱しつつある背景には、東アジアの国々が初等教育、中等教育に力を入れてきたということがある。また、インドのソフトウェア産業がめざましい拡大を示してきたことの理由として真っ先に指摘できることは、インドが高等教育を受けた豊富なマンパワーを擁しているということである。これこそまさに、「人材の育成が未来への投資である」といわれる所以なのだ。

第3節 長期的課題
 次に、第3節では、長期的な課題として、我が国自身の取り組むべき問題について2点、提言させて頂きたい。

1、国防政策の改正
 5000人以上の犠牲者を出した、9月11日の同時多発テロ。そして、東海岸の都市で発生した炭疽菌テロ。もし、これらのテロ事件が我が国で発生したら、一体どうなっていたであろうか?例えば東京都庁のビルが爆破され、ハイジャックされた航空機が皇居に突撃したりしたとき、我が国は海外に拠点を持つ国際テロ組織に対抗することができるのだろうか。無論、我が国がテロ攻撃を受ける蓋然性はアメリカよりも多少は低いだろうし、テロの形態も、宗教テロよりも北朝鮮の特殊工作員によるもののほうが想定され得るであろう。我が国と異なり、『責任ある大国』として国際政治の中心的プレイヤーを任じてきたアメリカは世界各地で様々な問題に関与しており、アメリカほど多くの人から称賛され、同時に非難される国はない。しかし、もしアメリカの同盟国である我が国が、あるいは在日米軍基地が攻撃を受けた場合、果たして我が国は犯罪者を逮捕することが出来るのだろうか。テロ攻撃を受けて外交政策を変更したり、何等の対応措置もとらなければ、国際的には「日本はテロリズムに屈した」と受け止められるであろう。
 同時多発テロ事件が私達に教えてくれたことは、領土を基準として自国の国境線を守るような「専守防衛」型の安全保障政策は、ボーダーレス化した21世紀の国際社会においては必ずしも有効ではない、ということである。無論、だからといって自衛隊を闇雲に海外に派遣することが有効だということではなく、テロの撲滅には軍事・政治・経済・情報の諸手段を適切に交えていかなくてはならない。また今回の事件で、アメリカの本土防衛力が実は思われていたより脆弱であり、要撃(防空)戦闘機の数などは航空自衛隊とあまり変わらないことも明らかになっている。即ち、「専守防衛」に代る国防方針を考える際にも、結局「本土防衛」が全ての基本にあることは疑いない。加えて、これまで我が国は、ODA等経済協力の面において、開発途上国の貧困撲滅と経済発展に大きな役割を果たしてきたのも事実であり、それはそれとして評価しなくてはならない。しかし、紛争処理の初期段階で必要となる政治的・軍事的なコミットメントは90年代にカンボジアで細々と始まったばかりで、未だに十分とは言えない。我が国が『責任ある大国』として、広く世界の平和と安定に尽力しなければ、最終的に我が国の国益や安全が保障されない、今やそんな時代になっているのである。
 この点、我が国の防衛庁・自衛隊はこれまで、「専守防衛」を防衛政策上の基準として装備を購入し、教育訓練を行い、そして法律を整備してきた。また最近では、一般的な軍事力による直接侵略に対処する部隊の他に、テロや生物科学兵器に対処するための研究部隊を設置し、周辺事態やミサイル防衛にも力を入れている。しかし、それらの施策はあくまで「専守防衛」の文脈で行われている為、現在の我が国自衛隊は、当然のことながら国際社会においてより大局的な視点から我が国の平和と安定を守るための「海外展開能力」に乏しく、またその為の特別な緊急展開部隊があるわけでもない。無論、最近の防衛庁は、空中給油機や大型輸送艦、1万3500トンの大型護衛艦等を整備する方針を示しており、これらの装備は自衛隊の海外展開能力向上に貢献するだろうが、最近でもパキスタンに難民救援物資を輸送した航空自衛隊のC-130プロペラ輸送機がイスラマバードまで3泊4日もかかったように、「専守防衛」の枠に縛られた自衛隊の装備はそうした点において不十分なままである。法制度上も、 自衛隊法第3条第1項 は、「自衛隊は、わが国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、直接侵略及び間接侵略に対しわが国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当るものとする。」と規定し、一連の国際貢献任務や邦人救出任務については、 第8章「雑則」 の中に、「自衛隊の任務遂行に支障を生じない限度において…これを実施することが出来る」と定められるに過ぎない(※欄外参照)。国際貢献任務を巡っては、積極的な外務省防衛庁の事務当局との間に微妙な感覚のズレがあることも指摘されている。

 

防衛庁(左)と外務省(右)

  自衛隊法 を改正して、「世界の平和と安定」という国益を守る任務を国土防衛と同等の重要性を持ったものとして規定し、併せて、それに適合する装備・教育体系の構築海外緊急展開部隊等の編成を目指すべきではないだろう。

※参考・自衛隊法
第3条第1項

 自衛隊は、わが国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、直接侵略及び間接侵略に対しわが国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当るものとする。
第100条の7
 長官は、国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律(平成4年法律第79号)の定めるところにより、自衛隊の任務遂行に支障を生じない限度において、部隊等に国際平和協力業務を行わせ、及び輸送の委託を受けてこれを実施することができる。

2、憲法改正
 第2に、第1節で見てきた我が国外交姿勢の変化を最後のところで阻んでいる、 日本国憲法 前文 第9条第2項 の改正である。
 そもそも、あらゆる「法」は人間が社会統合のために発明した文明の産物であり、その妥当性は歴史的な制約を宿命的に負っているものである。無論、例えば基本的人権に関する 第13条 を改正すべしといった議論はあまり聞かれないが、内閣制度に関する 第66条 は首相公選制導入の観点から昨今改正論が高まっている。これは、 第13条 のほうが 第66条 よりもより普遍性が高い事項を規定していることを意味している。このように、憲法の全ての条文が等しい水準で歴史的制約を負っているわけではないが、それでは前文及び 第9条 はどうだろうか。
 よく知られているように、 日本国 憲法 前文 及び 第9条第2項 は、1945年の敗戦を受けて我が国を占領した連合国軍の手で作成されたものであり、我が国から軍事力を奪うことによって軍国主義の復活を阻止し、併せて外交の手段を大きく制約しようとした初期のアメリカ占領軍の意向を反映したものと言われている。また、戦争の惨禍で塗炭の苦しみを味わい、「自国の安全を自衛することすらエゴイスティックな行為である」と考えるに至っていた当時の国民もそうした方針を受け容れたし、敗戦からの復興と国際社会への復帰を当面の目標としていた当時の政府も、これを容認せざるを得なかった。 憲法第9条第2項 は「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と定め、また 前文第2段 は「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と謳っているが、これらの条文は、正に当時の我が国外交が「平和を愛する諸国民」の形作る国際秩序を与件とし、如何にしてその中に自国を組み込むかを模索する『敗戦国の外交』『小国の外交』を志向していたことを雄弁に物語っている。即ち、 憲法 前文第9条 は、正に1946年の時点における世界情勢を反映した、極めて歴史的・政治的な条文なのである。

     
 日本外交 日本国憲法 
 小国外交1946年小国外交 
 

 

 
 大国外交
1991年小国外交
 
     

日本外交と日本国憲法の矛盾

 しかしながら、既に第3章で分析した通り、その後の我が国外交は、我が国自身の国力回復と歩調を合わせるようにして『小国外交』を脱し、国際情勢の変化に即して徐々に『責任ある大国の外交』へと進んでいる。またそれに伴って、我が国に対して寄せられる期待も、ODAのような経済的なものから次第に武力紛争処理のような政治・軍事的なものへと変化しており、1946年の世界観・外交観のままでは到底これに対応することは出来ない。昨年、国会には衆参両院に憲法調査会が設置され、21世紀の我が国に相応しい憲法のあり方について議論が始まっているが、『大国外交』が求められている今こそ、1946年の世界を引きずっている 憲法 前文 の一部及び 第9条第2項 を見直し、以って「国際社会の平和と安定に聖域無く貢献する」という態度を内外に鮮明に打ち出すべきではないだろうか。
 ところで、このような主張をすると、識者の中には「我が国が海外で武力を行使することは諸外国に不安を与え、軍国主義の復活につながる」と反発する者もいる。しかし、今日の国際社会においては、武力が行使され得る状況は3種類あり、冷静な議論のためにはそれらを注意深く区別する必要があるのである。第1の類型は、所謂「国際紛争を解決する手段としての武力」であり、これはある紛争を巡って相手国の立場を否定するために直接軍事力を行使するものだ。そうした形態の武力行使は、これまでにも1926年の不戦条約以来一貫して規制されてきており、国連憲章第2条もそうした武力行使を「慎まなければならない」ものと定めている。しかし、国際社会にはこの他にも2種類の武力行使が想定される。

         
    ②環境整備    
  政治的処理
Political Settlement
(国連安保理等)
  
   のための武力   
 
     
 
         
 紛争
Dispute
 ①武力による処理
(国際紛争解決手段としての戦争)
 解決
Resolution
 
         
 
     
 
       
  司法的処理
Legal Settlement
(国際司法裁、国際海洋裁等)
  
         
         

国際紛争における武力の種類

即ち、第2の類型は、国際紛争を平和的に解決する上での環境を整備する武力であり、国際連合の平和維持活動における武力や国連安全保障理事会が決定する軍事的措置がこれに該当する。例えば、国連安保理は、国際の平和と安定の破壊を認定し、国連軍の派遣を含めて必要な軍事的・非軍事的措置をとることが国連憲章第7章で認められているが、これは、国際的な紛争そのものを解決する仕組みというよりは、端的に現在の平和の破壊を取り敢えず停止させるための行政的なメカニズムである。簡単な例で説明すると、例えばある食堂が食中毒事件をおこしてしまった場合、その食堂に対して保健所が行政処分としての営業停止処分を下すのは、「食中毒事件を起こしたことが悪いから」ではなく、「このまま営業を続けさせると食中毒による被害が拡大する恐れがあるので、取り敢えず営業を止めさせる必要があるから」である。同じように、国連安保理がイラクのクウェート侵略に対して武力行使を認めたのは、「イラクの侵略が悪だから」ではなくて「このままイラクの侵略を放置することは国際の平和と安定に対する脅威になるので、取り敢えず侵略を止めさせなければならないから」なのである。また、第3の類型として、国際司法裁判所等で法的に解決された紛争や、国連で政治的に決着がついた紛争について、その結論を実行に移すための武力が想定されよう。これは、国内では裁判所判決の強制執行に相当するものだが、現在の国際社会は国内ほどには中央集権化が進んでおらず、国際司法裁判所には各国の主権を超越するような権威が与えられていないので、現実には強制執行のための武力行使といった制度は、ごく一部の例外(国連憲章第94条)を除いて存在しない。ただ、第2、第3の両類型とも、第1類型の「暴力によって相手の存在を否定し、問題を自国に都合のよいように処理してしまおう」という武力とは性質が異なるし、またそうして「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」することは、決して 憲法第9条第1項 の精神に反するものではない。そして、我々が目指すべき国際政治における我が国の軍事的役割は、この第2・第3の類型に該当するものに限られるべきことは、当然である。

■おわりに

 9月11日のテロ事件に対して我が国政府は、事件直後に「米国を強く支持する」等として当面の6つの対象方針を表明した他、19日には「7つの具体的な措置」を発表。10月29日には懸案だった テロ対策特別措置法 も成立し、今月16日には基本計画の制定に先駆けて自衛艦3隻がアラビア海へ向けて出発した。更に、今月になって北部同盟のカブール占領とタリバン政権の崩壊を受け、東京でアフガン復興会議が開催されることが決まった他、国会では戦後アフガン復興を睨んでPKO法の改正が審議されている。また、9月19日には政府と日米協会主催の「追悼・御見舞いの会」も主催され、25日の日米首脳会談や10月8日のアフガン空爆開始に際しても、小泉首相は繰り返し「テロリズムと戦う米国の行動を強く支持する」と明確なメッセージを発している。
 ドイツではアフガン各派による新政権樹立に向けた討議がはじまっているが、他方でオサマ・ビン・ラディンら「アル・カイーダ」一派の発見にはまだ至っていない。加えて、カブールには多国籍軍が派遣されることになっているが、それに対する我が国の対応は未だ消極的である。
 テロリズムとの「新しい戦争」は、今この瞬間も、私達に選択を迫り続けているのである。

坂口 彰(さかぐち・あきら) 
古屋 智靖(ふるや・ともやす)    大学生
松浦 淳介(まつうら・じゅんすけ) 


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