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  健章時報 1999年9月  

通信傍受法案、強行採決(8月10日)
 報道によると、組織犯罪対策法の一環として提出されていた通信傍受法案が、9日の参議院法務委員会で採決され、自民・自由・公明の連立与党の賛成多数で可決された。これは、自民党が提出した質疑打ち切りの動議を受けてのもので、審議継続を主張する民主党、社民党の議員らが「決議無効」を訴えて議長席に詰め寄った。
 同法案に関しては、既に国会外でも多くの討議がなされており、問題点はもはや明確化された感がある。あとは、その法律を実際に適用する際の問題(「適用違憲」)をどうするかの問題があるが、それはそれこそ法案が成立してからの話であって、適用違憲を恐れて法案自体に反対するというのはナンセンスである(丁度、逮捕制度が違憲的に運用されることを恐れて、それそのものに反対するようなものである)。実際の通信傍受法案を見れば、それらの点についての配慮はなされており、決して歯止めがないわけではないのに、である。

第145通常国会、閉幕(8月13日)
 数々の「重要法案」を可決・成立させた第145通常国会が、13日閉幕した。報道によれば、今回の国会に上程された政府提出法案124件のうち、88・7%にあたる110件が成立(前回国会は82.9%)したという。政府与党にとっては実に実りの多い国会であった。
 終わってみれば、橋本「自社さ」連立内閣時代には到底考えられなかったような重要法案がきちんと成立しており、改めて政策を結集軸とした連立政権というものの重要性(もっとも、ここで公明党については留保しなければならないが)が感得される結果となった。小渕総理大臣も「真空」「冷めたピザ」との誹謗中傷を受けながらも、経済はおろか、外交・安全保障政策ではむしろ橋本前政権を遥かに上回る積極性を以って対応しており(例えば、99年3月の不審船事件当時における「海上警備行動」の発令、等)、そうした点に関しては、(東西冷戦終結後もなお55年体制的マインドでタブーに挑戦することを避けていた)最近の歴代政権の中では最も評価できる首相の一人なのではないだろうか。
 もっとも、ここで私が小渕内閣を評価しているのは、決して総理が本当に「真空」だったからではなく、「真空」であると見せかけている、と考えられるとの仮定があってのことである(もしそうであれば、私を含む全報道機関がその術中にはまったことになるわけだが)。逆に、マスコミで伝えられているような「真空」ぶりが総理の本性なのであれば、それはやはり問題があるということになろう。
 一方、今回の国会で改めて露呈したのが、一部大手報道機関の実に無責任な報道の仕方である。なるほど、確かに今国会における公明党の閣外協力ぶり、政治路線の変節に対する批判については、それなりに説得力があろう。しかし、例えば昨年以来の何等建設的な議論を生むとは思えない小渕総理批判、自自公三党が多数決によって法案を可決してゆく様子に対する揶揄、果ては「警察にバタフライナイフを手渡すな」といった、真面目な議論に水を差すような評論までも公共の電波空間を利用して流すといったことは、我が国報道機関の水準の低さを物語るものであろう。あるいは、自ら一連の法案を「重要法案」であると位置づけながら、放送時間の少なくない部分をサッチー報道に振り分けるなど、矛盾も目立ったといえよう。

ロック風「君が代」、発売中止に(8月18日)
 報道によると、17日、ロック歌手の忌野清志郎氏が10月14日に発売を予定していた新アルバム『冬の十字架』の中にパンクロック風にアレンジされた国歌「君が代」が含まれていることが判明し、発売元のポリドール側が中止を決定したことが判明したという。それによると、忌野氏側は「7曲で構成したアルバムなのでパワーダウンすることは納得できない。法制化の議論が音楽的な観点からなされていなかった。ロックミュージシャンとしてこういうアレンジがあるという提案だ」「社会的に関心を呼んでいる『君が代』を歌に反映させるのはロッカーの使命で、納得できない」と主張して全7曲での販売を要求し、これに対してポリドール側は「『君が代』をフィーチャーしたCDを出すことで、国論を二分しているような問題に自ら一石を投じるようなことは、政治的・社会的に見解が分かれている重要事項に関して一方の立場に立つかのような印象を与える恐れもあり発売を差し控えるほうが適当と判断した」とのコメントを出しているという。更に、その後の報道によれば、忌野氏はその後自らのライブで問題の「君が代」を演奏し、喝采を浴びたという。
 果たして、忌野氏が主張する「『君が代』のロックアレンジ」が「ロック音楽家としての社会的使命」であり、「君が代」のアルバム収録が「法制化の議論」を「音楽的な観点から」するという真摯な動機に基づいていたのか(氏が本気でそうした政治的な主張をしようと考えているのであれば、このロック・アレンジ「君が代」だけをシングルで出すべきであった)。忌野氏側の主張はどうしても「ためにする反論」の域を出ていないし、実際、芸術家等がその社会的地位を利用して一定の政治的主張をなすというのは全く以って好ましくないが、今回の問題の場合、ポリドール側の対応にも多少の問題点はあったといえよう。無論、ポリドール側の発売中止の理由説明は全く妥当かつ正論であり、私としてこれを支持しないのではないが、基本的にこうした問題はほとぼりが冷めたころであれば容認されるべきであり、単に一ロック音楽家が国歌をアレンジしたことについて大袈裟に騒ぐべきではなかろう。むしろ、それを過度に問題視するのは、却ってその主張を極端に拡大することにつながり、敵を利するだけである(そもそも、ポリドール側は「国論を二分している」というが、国会決議や各種世論調査の結果を見れば、「君が代」問題は国論を二分しているとまでは言えないだろう)。ようは、国歌をアレンジするというような、あるいはそのアルバムを買った人間の「社会的良識」を大いに疑えば済むことであって、自由に発売させておけばよいのである(あとは、その販売枚数がすべてを物語るであろう)。
 この問題が発覚した後忌野氏は、ポリドール社の対応に抗議して、このアルバムの自主制作・強行発売も辞さないとしているが、一旦「言論の公器」に対して「(『君が代』の自由なアレンジは)ロックミュージシャンの社会的使命」であると日本中に向けて宣言した以上は、堂々最後まで(発売まで)完遂してほしい。また、ポリドール社は忌野氏のプロのロック音楽家としての才能や社会的使命を認めなかったのであるから、どうか最後まで信念を貫徹してポリドール社との全面契約破棄までいって頂きたい。糧道の断たれる心配の無い、格好だけの抵抗には終わらせないで欲しい、ということである。それでなければ、名声と国歌をネタにした単なる跳ね上がり、売名行為と受け取られ、厳しい社会的非難を浴びても仕方が無いというものである。

東京都、平和祈念館の建設凍結(8月18日)
 報道によると、東京大空襲等の被害を展示し戦争の悲惨さを後世に伝えようという東京都の「平和祈念館」構想が、財政再建や展示内容の問題を理由として凍結されることとなったという。祈念館構想は1979年に作家の早乙女勝元氏らが「空襲・戦災記念館」設置を要望して以来の懸案であったが、今回の建設凍結により今世紀中の完成は不可能となった。
 東京都の平和祈念館については当初からその展示内容の適切性が問題となっており、当初の展示計画では旧日本軍の大陸侵略や東京の軍需工業地帯の存在等を理由に「空襲を受けても仕方が無い」と言わんばかりのものになることが危惧されていた(もっとも、戦争そのものについて言えばそれはやはり悲惨なものであり、広い意味では国家総力戦を戦っている以上「空襲を受けても仕方が無い」のであるが、しかし無論、ここで私が言う「仕方が無い」とは攻撃側・防御側どちらも何等の倫理的優越に立たないという意味であって、決してどちらか一方が正当化され容認されるということではない)。実際、展示内容が公表されてからは、保守系都議会議員や歴史学者から厳しい批判を浴びており、拙速な建設にストップがかけられていたが、今回の建設凍結は、こうした都議・学者らの運動の一つの成果であろう。

韓国首脳、日本の「右傾化」を危惧(8月19日)
 報道によると、韓国(大韓民国)を訪問している山崎拓・自民党前政調会長は18日、韓国の金鍾泌国務総理(首相)、趙成台国防部長(国防相)と会談したが、この中で韓国首脳は、「日本の右傾化を非常に心配している」「韓国国内の一部に日本の右傾化問題の提起がある。十分に隣国の理解を得る努力をすべき」との発言をし、山崎氏は「その認識は全く間違っている」などと反論したという。
  北朝鮮(自称「朝鮮民主主義人民共和国」)の弾道ミサイル発射実験が問題となり、益々日韓両国の連携が重要となっている今日、何故韓国の両首脳は、「右傾化を心配する」等といった礼を失した発言をするのであろうか。恐らく、両首脳が「右傾化」の兆候であるとしたのは国旗国歌法や靖国神社関連の問題、憲法調査会といった一連の事項であろうが、これらの現象を「右傾化」としそれを「心配する」等というのは、我が国国内の低水準の報道機関の報道に幻惑された妄言というほかない。我が国においては、東西冷戦時代、国が分断されている朝鮮半島ほどではないにしても、平和主義、社会主義の思考停止的イデオロギー論争が国家を分断し建設的な論議や対話を阻んできたのであり、そうした状況からようやく脱却しようとする状況を「心配する」というのは、我が国を永遠の無思考国家であると期待するに等しく、少なくとも友好国の首脳がする外交的発言ではない。百歩ゆずってそれらが我が国右傾化の兆候であるとしても、それを心配するなぞ余計なお世話である。

キルギスで日本人技術者ら拉致(8月24日)
 報道によると、23日午前1時(日本時間午前4時)、中央アジアのキルギス共和国(首都・ビシュケク、旧称フルンゼ)南西部にあるオシ州バトケン地区で、ODA(政府開発援助)のための調査で派遣されていた日本人技師4人を含む約120人が、国境を接するタジキスタンから侵入してきたイスラム系武装集団「ウズベキスタン・イスラム復興運動」(ジュムイ・ナマンゴニ野戦司令官)によって拘束されたという。武装集団は3つの集落を占領して住民らを人質にとり、食糧や活動資金などを交換条件に要求している。周辺は、キルギス政府の治安部隊約200人が現場を包囲している。
 その後の報道によれば、武装集団「ウズベキスタン・イスラム復興運動」はタジキスタンから追放された反政府強硬派であり、独自の戦闘機も保有する等かなりの戦闘能力を持っているものと思われる。27日には同国のアカーエフ・アスカル・アカーエヴィチ大統領が全予備役の召集を決定する大統領令を発したが、そもそもキルギル共和国軍は陸軍約9800人の小規模な勢力(陸上自衛隊1個師団に相当)だけに、数百人居ると見られるイスラム武装集団に相当てこずるものと思われる。我が国からは武見外務政務次官らが派遣され、小渕総理は周辺諸国に対しても協力を要請したというが、果たして我が国の対キルギス協力は一片の声明とODAのみに留まるのであろうか。 

民主党代表選、候補者出揃う(8月31日)
 9月11日に告示され、25日に投票が行われる民主党の代表選挙に、菅直人現代表、鳩山由紀夫幹事長代理、横路孝弘総務会長の3人が立候補することが事実上確定した。当初、菅代表の続投の方向で動いていた民主党代表選挙は、菅代表に不満を持つ議員が鳩山幹事長代理を擁立したことで一転して鳩山優位となったが、31日に党内最大勢力である旧社会党系議員を代表する形で横路総務会長が立候補したことで、野党版「自社さ」連立状態を露呈した、保革が衝突する擬似国政選挙の様相を呈してきた。
 それにしても、今回の民主党代表選挙は、彼の党が「自社さ」連立であることを改めて浮き掘りにし、正に民主党の「公党」としての問題点を改めて露呈したものと言えよう。政権与党の行動をチェックし、批判するために存在すべき野党が、与党と同じく「数合わせ」の「永田町の論理」の存在であるとすれば、その存在意義は皆無であろう(無論、ここでは抽象的な理想形態としての「西欧民主主義」を擁護しているわけではないが)。唯一残された道としては、鳩山氏が漏らしたように、代表選後民主党を解党した上で、自由党・自民党も巻き込んだ政策軸を中心とする政党再編劇を起こす起爆剤としての役割ぐらいだろうか(もっとも、それが健全な形で出来るのであれば、既に細川内閣時代に出来ていたはずであるが・・・)。

「政府首脳」、改憲論議を批判(8月31日)
 毎日新聞の報道によると、31日、「政府首脳」が記者団に対して、自民党・民主党代表選挙で憲法論議が出ていることについて、「山崎拓前政調会長ばかりか、加藤紘一前幹事長まで憲法9条の見直しを言い出すのはどういうわけか。あまり続くようだと、われわれも改憲ありきに反対と言わざるを得なくなる」等と批判したという。この報道では、この発言の主は「政府首脳」としか書かれておらず、一体誰の発言であるか不明であるが、いずれにせよ極めて不見識かつ傲慢な意見表明であるといえよう。
 そもそも、政府の高官が、その資格を以って公党の代表選挙に口を挟むなどということ自体、傲慢の謗りを免れ得ない行為であるが、それに加えて加藤・山崎両候補の憲法に関する問題提起を「どういうわけか」等と評論しているというのは、不見識以外の何物でもない。21世紀の我が国の国家像を如何に描くのかを論ずるのは政治の役割であるが、残念ながら現行憲法は、素直な解釈を採用すればそれを論じる土台としての国家の主権、独立をも前文・第9条で否定しているのであり、これを真っ先に改正するというのは、(「法の支配」の原理を否定し憲政という概念を拒否するのであればともかく)真っ当な政治理念を掲げようとした政治家にとっては避けて通ることの出来ない課題である(その限りにおいて、憲法問題は「国会議員が一番やらなければならない問題」と発言した鳩山由紀夫民主党幹事長代理は、評価されよう)。それを、この「政府首脳」の人物は、両氏の見解をまるで跳ね上がりの改憲論であるかの如く扱い、民主党か旧社会党の如き護憲的体質を素直に告白している。
 無論、(この「政府首脳」が幹部公務員であるとすれば)憲法に基づく授権によって行政を担当する者として、現在の事務処理の基準として憲法を守り運用していくというのは重要なことであり、そういった意味での「護憲」は重要である。しかし、現在の事務処理の基準としての憲法を守ることと、将来像を語る「政治」の領域における「護憲」とは意味が全く異なるのであり、(国家公務員たる)政府首脳がしゃしゃり出る場ではない。ましてや、現下の政局に「護憲」的論評を加える等というのは、それこそ「どういうわけか」の沙汰ということになろう。小渕総理には、この「政府首脳」に対して厳重なる処分を要求したい。


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