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[1] 白河街道 (江戸へ65里(260km)、白河へ17里(68km) )

 ・白河街道は、(越後街道と併せ)新潟・佐渡と内陸〜江戸を結ぶ街道として、
  全国の五街道(東海道・・・)に次ぐ脇街道に上げられている。
   南山通りが、天災で、一時通行不能になってからは、中央への通路として、
  独占的に近い主要街道になった。

 ・会津と中央を結ぶルート(白河街道)は、中世以前にも、あったはずだが、
  その詳細は解らない。
 ・1545年、葦名盛氏が、勢至堂峠 (私が少し若かった頃でさえ!、アスファルト舗装
   ながら、一車線幅で、路肩が壊れ、結構恐かった) 
を切り開き、
  会津〜背あぶり山〜湖南〜勢至堂〜白河のルートが、出来上がった。

  このルートは、豊臣秀吉が、奥州仕置のため、会津下向した道であり、
  蒲生氏郷が会津入りした道である。

  *葦名義広の退路?* 余談かもしれないので、こちら。

 ・葦名時代の黒川城の地図を見ると、八角(やすみ)神社(→)

  (穴沢病院のすぐ北東、市役所栄町庁舎の東北東)の
  少し南側から、背あぶり山に向かって白川道がある。

  八角神社(伊舎須弥神社):伝説では、「大同二年(807年)、
    人皇十代崇神天皇元年、この神船に乗って天降り、鉾をこの地に投ず。
    その鉾化して八角の水晶となる。よって社を建て・・」らしい。
    その船は、石になった(滝沢本陣から峠に向かう中腹にある船石)。
    まっ、この船の話は、嘘ではあろう。

    1397年葦名直盛が会津より下向の際、小田山に城を建て、鶴城と号し、
    この社を修整し、亀宮と名づけた。当時、社領は千余貫、回廊は百八十間
    あったという。

    しかし、1521年猪苗代氏の黒川攻めや、神主と祝子の争いで、社領を
    失った。高田村の神税は残り、葦名氏からの畑銭で、大廃はしなかった。
                                  (「町名歴史散歩」より)

  この白河道と車川、蒲生以降の外堀や、現・若松市役所・
  栄町庁舎の正面(北)から東山温泉に至る道、ほぼ同じ所を走行している。
  !多分、同じなんだ!葦名の車川が、蒲生の外堀になり、その土手道が、
  市役所前から東山への道として、残っているんだ!・・・と私は思う。

 ・加藤嘉明(1627年 会津入封)は、急な背あぶり山をきらい、
  滝沢峠ルートを開き、白河街道とした。その子明成は、城の大手口(正面
  玄関)を、(二・三の丸に続く東側から) 北出丸・甲賀町口に改修した。

 Route:・[市街地]
   (江戸時代に五街道に上げられた)白河街道は、「札の辻」から東に進み、
   六日町角で左(北)に折れ、 六日町通を北上し、
 博労(ばくろう)町(現・相生町)に至る。

 六日町通は、北出丸から真っ直ぐの甲賀町通の、一本東の通りだ。
 城から甲賀町通を北上し、歴史酒造館の手前を右(東)に折れ、
 突き当たり(←写真右上は若松二中裏門&陸軍跡門)を、左(北)に
 折れた通りだ。写真左上の空き地は、大山邸(浩、健次郎、捨て松生家)跡。
  (ここは、まだ六日町角 手前で、白河街道ではない!(説明のため載せただけ))。


 ・博労町を抜けて、東に折れ、養蚕(こがい)神社
(→)(延喜式
  にも載ってる会津の三社の一つ。とてつもない大きさではないが、一応、
  ”杜の中”という雰囲気は保っている。)
の前を通り、滝沢本陣に至る。

 [市街を出て]
  滝沢本陣→滝沢峠→金堀→沓掛(くつかけ)
  [ ここから国道294号線 ]→穴切→小坂→赤井→原→黒森峠
  →(郡山市・湖南町の)赤津・福良・三代→勢至堂峠
   (今は、マ〜マ〜の道路ですが、ほんの、10数年前でも、
   アスファルト舗装ながら、路肩崩れ、対面交通が恐い峠でした。)
  →江花→長沼or惣五郎内→牧の内→白河

 Photo:取材予定、未定。
  滝沢峠ルート(滝沢本陣→滝沢峠→金堀→沓掛峠→穴切→小坂→赤井)と
  背あぶり山ルートの極一部は「 白虎隊の歩いた道 」にあり。




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