このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
霊山(りょうぜん) (2) |
![]() あたりに、Y字路がある。 右真っ直ぐ:城跡、左:護摩壇。 護摩壇へ進む。 それにしても、気持ちの良い、また、 人生の分岐点の様な、風景だ。 新緑なら、もっと良いだろう。 |
護摩壇への道は険しい。 この道は、修行者達が、岩を削って造ったのだろう。 「親知らず子知らず」なる名前がついている様だ。 ![]() |
![]() 最後は岩穴をくぐる 様だ(中央右1/4)。 胎内くぐり? |
![]() どうも、この隙間を通らねばならない様だ。 ザックが つかえそうだが、何とか通れた。 |
護摩壇。 数人で護摩を焚ける程度の広さだ。 ![]() |
![]() あれっ、 岩壁の中央に鉄製の小橋が見える。 楽しい所に道を切ったものだ! |
幾つかの連絡路と合流するが、常に左(北〜西)へ曲がると、 城跡(北西のピーク)に着く。 ![]() 正面左1/5の丘が北物見、写真左外が西物見だ。 |
霊山の俯瞰図と歴史の説明板があった。![]() 円仁(慈覚大師)が開山し、霊山と命名した。 山号を南岳山山王院霊山寺と称した。 伊達・宇多・刈田を寺領とし、多数の堂宇が 建ち、東北山岳仏教の一大中心地だった。 1337年、北畠顕家は後醍醐天皇の王子 義良(後の後白河天皇)を奉じ、南朝最興を 策し、ここに国府を開いたが1347年落城す。 霊山城は、仏閣を転用した寺院城郭である。 |
北物見から北方を見ると、紫明山が見える。 同じような岩肌の目立った山だ。 お寺の時代は、ここ城跡には本殿があり、紫明山の方が登り口で、 参拝者が最初に立ち寄る様な御堂があった。 らしい。 ![]() |
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