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彷徨える「都心ターミナル」の残滓を訪ねて

− 東武鉄道亀戸線と浅草ターミナル −



TAKA  2006年04月09日




  

(左:小村井駅に入線する東武亀戸線8000系2両ワンマン列車 右:東武鉄道浅草駅とターミナルビル)



 関東において数少ない「広域地域間輸送」を目指した東武鉄道は明治32年に北千住〜久喜間を開通させて以来、北関東を中心に路線網の拡張を続けてきて関東民鉄最長の路線網を築いていますが、その路線網拡張の歴史は「北関東への路線網拡大」と同時に「ターミナルを求めての都心乗り入れルート構築」の歴史であると言えます。(東武鉄道HP「 東武鉄道の歴史 」参照)
 各地の都市の民間鉄道はより有利な都心ターミナルを造る為に色々な苦労をしています。只その苦労といっても色々な程度の差が有ります。その中で都心ターミナル構築に一番苦労した民鉄と言えば、多分東武鉄道であると思います。東武伊勢崎線はその都心ルートを求めて、実現しただけでも「業平橋・(亀戸経由)総武鉄道両国橋直通・浅草雷門・日比谷線直通・半蔵門線直通」と言う5ルートを構築していますし、それ以外にも小名木川経由越中島延伸や浅草経由での上の延伸や都心直通地下線の免許を出したと、実現・構想等を入れてもかなり試行錯誤しているのはわかります。

 今回はその「東武の都心ターミナル構築の努力の残滓」とも言える東武鉄道亀戸線と浅草ターミナルを取り上げます。この路線仕事で何回か利用した事が有りますが、総武線亀戸〜東武伊勢崎線曳舟を結ぶ鉄道であり、下町の人口の比較的多い地域を走るに関わらず、2両編成が往復する都会のローカル線です。何も知らずに乗ると「何でこんな路線を造ったのだろう」と疑いたくなります。
 東武亀戸線はその様な不思議な路線ですが、其れこそ「東武のターミナル構築の努力の跡」とも言える路線です。もともとの免許は千住〜越中島間でしたが、明治35年に北千住〜業平橋間・明治37年に曳舟〜亀戸間が完成していますが、亀戸経由の総武鉄道両国橋ターミナル乗り入れは明治41年に廃止されていますし、その先の越中島延伸は明治43年に免許失効しています。つまり明治43年(1910年)からもう1世紀近くにわたり「役割の終わった路線」として「(東武にしてみれば)只なんとなく運営されている路線」と言う状況になっています。
 又東武浅草ターミナルは東武都心ターミナルの苦戦の象徴です。東武亀戸線も東武がターミナルを巡り試行錯誤をした結果の残滓ですが、東武が2つ持った浅草ターミナル(業平橋と浅草雷門)も又東武が都心ターミナル構築に苦戦した象徴であると言えます。今回は東武亀戸線・浅草ターミナルを訪問して、幾ら努力しても東京西郊の私鉄の様な完全なターミナルを構築できなかった東武鉄道の悲劇について考えて見たいと思います。

 ※東武鉄道の越中島延伸・都心ターミナル構築に関しては、和寒様の「 東武鉄道が越えられなかった壁〜JR小名木川支線〜 」が詳しいので、其方も御参照下さい。(今回参考にさせて頂きました)


 ☆ 東 武 亀 戸 線 訪 問 記
 
 訪問日の4月8日は午前中東西線の南砂町で現場に寄ってきたので、南砂町から都バスで亀戸に出て亀戸のサンストリート内で昼食を取った後、亀戸駅平井寄りのガード&東武の踏切を渡り、線路の北側を歩いて総武線亀戸駅の北側に有るJR駅ビルのアトレの中を通り東武鉄道の亀戸駅に入ります。(「 東武亀戸線概要 」wikipedia)

  
(左:東武鉄道亀戸駅とJR総武線線路 右:JR駅ビル内に有る東武鉄道亀戸駅)

  
(左:東武鉄道亀戸駅に入線する亀戸線車両(右の鉄橋は因縁のJR貨物小名木川支線) 右:東武鉄道亀戸駅ホーム状況)

 東武鉄道亀戸駅は1面2線でターミナルとはとても評せ無い程のこじんまりした駅です。上記の歴史を見れば明らかなように東武は亀戸線の都心ターミナル路線としての役割を明治43年に諦めています。その後は「下町の地域輸送のローカル線」としての役割しか与えていなかったのですから、小さな駅と言うのは有る意味当然かも知れません。
 只混雑の激しい総武緩行線に乗客を流し込むと言うのは好ましい事ではないのかも知れませんが、総武緩行線を使えば乗換なしで秋葉原まで8分・新宿まで27分です。このアクセス北千住と比べても決して悪いとはいえません。歴史のIFですが、越中島延伸を諦めてから亀戸線をずっと放って置くだけでなく、総武線のアクセスが改善される 昭和7年の両国〜御茶ノ水間延長・昭和8年の中野までの延伸 以降は東武浅草・北千住に対するサブターミナルとして活用する考えは無かったのかと思ってしまうのは私だけでしょうか?

  
(左:東武鉄道亀戸線亀戸水神駅 右:東武鉄道亀戸線東あずま駅)

  
(左:東武鉄道亀戸線小村井駅(手前の道路は明治通り) 右:東武鉄道亀戸線曳舟駅(左の路線は伊勢崎線))

 亀戸線自体は3.4kmの短い路線で全線乗っても8分ですが本数も毎時6本あるので別に急いで乗る必要も有りませんが、とりあえず列車に乗って車窓を見ながら曳舟を目指します。
 亀戸線は亀戸口の需要の方が多いようで、曳舟から到着した列車を見るとかなりの人数が降りてきます。短区間需要を中心にかなりの需要が有るようです。只運賃上のマイナスがあるにしても今は半蔵門線直通の曳舟〜押上〜錦糸町と言う短縮ルートが存在しています。その状況ですから亀戸線の現在は「線内短区間の利用が中心」と言うのが実情なのかも知れません。
 亀戸駅(27,794人/日)を出て総武線を離れて北にカーブすると亀戸水神(2,867人/日)です。亀戸駅から歩いても10分掛からないぐらいの場所ですが、それなりに利用客の居る駅です。(私も仕事で何回か利用した)亀戸水神を出て川を渡り暫く走ると東あずま駅です。東あずま駅(6,997人/日)は丸八通りに面した所にあり周囲に駅もないので(亀戸まで歩くと20分近くある)かなりの利用客が有ります。次の小村井駅(8,471人/日)は丁度明治通りの交差点のところに有る駅で、周りにマンション等も目立ち、曳舟・東あずま両駅とも駅間が結構あり、此処も亀戸から明治通り1本道ですが歩くには遠いので利用客は結構多いです。

  
(左:曳舟駅に停車中の亀戸線車両 右:亀戸線曳舟行き車内(曳舟到着前))

 小村井を出て暫く直線を走ると、京成押上線のガードを潜り右に再開発事業の工事現場、左に東武伊勢崎線が見えてくると曳舟に到着です。亀戸発車時点には多少居た立ち客が、曳舟到着時点では座席がサラリと収まる程度です。曳舟駅(亀戸線関係客21,238人/日)は2面4線の伊勢崎線ホームの隣にちょこんと2両編成用のホームがあるだけで寂しい限りです。只かなりの利用客が有るだけありエスカレーター等の昇降設備は整っています。
 曳舟駅では降りた客のかなりの部分が伊勢崎線北千住方面に流れる傾向にあるようです。私が乗った列車の感覚は「曳舟⇒北千住(7割):浅草(1割5分):自駅乗降(1割5分)」と言う感覚です。しかしこの東武線〜総武線への流れが、今回のダイヤ改正で半蔵門線直通大増発(10分間隔)になった事でどう変化するか?「曳舟〜亀戸8分140円」に対し「曳舟〜錦糸町6分280円」で乗客はどのように反応するか?(曳舟〜錦糸町だけで比べると亀戸廻りは18分260円になる)これが亀戸線にとっては全線直通客の動向と言う形で影響をもたらす事は間違いないと思います。
只積極的な方策をするほどの利用客は居ないが、無視をするには意外に利用客が多い路線でも有るので、今後とも現状維持で行くのか?何か方策を打つのか?と言う亀戸線の有り方の根本方針については今後考えなければならないとも言えます。只正しく此処も「鶏肋」路線であるのは見て明らかなので、その方針を決めるのは難しいと思います。


 ☆ 東武のターミナルの歴史を振り返えるルートを訪ねて

 曳舟まで東武亀戸線に乗った後、東武のターミナルの歴史を振り返る為に都心への移動と東武の歴代都心ターミナルである曳舟〜業平橋〜浅草と東武の歴代ターミナルを訪問してみることにしました。
 元々東武の都心ターミナルは前述の様に「業平橋⇒亀戸線経由両国橋⇒業平橋⇒浅草雷門」と4回動いています。要は東武ターミナルの歴史は「隅田川越えの歴史」であると言えます。都心に近いより良い立地を求めてターミナルを動かしていますが、都心に向う地形的障害である隅田川を越す事も困難で、加えて既成市街地の中になかなか良い場所が見つからない事もありターミナルの場所獲得に非常に苦労しています。
 今回訪問した東武亀戸線もその「東武の都心ターミナル獲得」の残滓の一つです。そういう訳で東武亀戸線と言う残滓を見た後、残りの東武ターミナルも訪問して見る事にしました。

  
(左:曳舟駅より浅草方を望む(左から亀戸線・浅草行・半蔵門線直通) 右:曳舟駅を出発する浅草行と半蔵門線直通)

 先ずは曳舟駅でふらっと様子を見ます。元々曳舟は伊勢崎線と亀戸線の分岐駅として拠点駅でありましたが、近年押上〜曳舟間ルートの開通で第2の都心直通ルートである半蔵門線直通ルートの分岐駅となり拠点性が増しています。
 しかし東武の都心直通の歴史を見る限り、手前の北千住から地下鉄に直通した日比谷線直通を除いて、ずっと「曳舟から先の都心ルートを如何するか」と迷って彷徨った歴史であると言えます。実態としては北千住までは日光街道に沿って進んで来たが、此処から先は日光街道沿いの市街地を避けて曳舟まで来たが此処から先の市街地区間を如何するかと迷い、又市街地を避けて市街地外縁を南に向う亀戸線を作ったり、河沿いに進み隅田川の手前の業平を「浅草」と名付けてターミナルとしたりと試行錯誤をしています。まずはその「迷走の起点」に立ち様子を見る事にします。
 その東武の都心直通ルートの迷走は曳舟駅の浅草よりホーム端に立つと良く分かります。上の左側の写真がホーム端から取った写真ですが丁度都心直通を模索した3つのルートが写っています。市街地を避けて外縁を辿った亀戸線は左に大きくカーブを取っていますし、明治〜昭和初期の歓楽街である浅草を目指した伊勢崎線は市街地へ向い左にカーブしています。それに最新の都心直通ルート半蔵門線直通は半蔵門線押上に接続する為に地下に潜り込んでいます。
 此れこそ今回の ダイヤ改正についての話 で「大都市圏輸送」に転換する為に都心直通を強化したと言う話をしましたが、その象徴が半蔵門線直通であり、左に写真の様に地下鉄乗り入れ車両が頻繁に走る姿です。そういう意味では曳舟は「東武の昔と今が共存している場所」と言えるのかもしれません。

  
(左:業平橋駅と旧業平橋ターミナル跡 右:東武のターミナル浅草駅)

 曳舟を見た後、浅草行き区間準急に乗り業平橋・浅草と進みます。業平橋は昭和6年に隅田川をわたり浅草雷門に延長する以前は「浅草」を称して、両国橋ターミナル使用の一時期を除いて実質的なターミナルとして使用されていた拠点駅です。
 業平橋はその様な「市街地外縁のターミナル」であったので、駅の敷地には余裕が有りチョット前までは、線路の南側にラッシュ用10両折り返しホームが有り、今でも北側には特急車等を置いておく留置線が有る等運転上の機能が残されています。
 業平橋〜京成押上間は東武線・京成線・北十間川に挟まれた場所には東武の駅跡地・生コンの工場・東武と京成の本社ビル・押上地下駅等が有りますが、東武の駅跡地を中心にしてかなりの広さが閑散とした空き地になっており、東武鉄道は建設の推進していてこのたび建設が決定した「 新東京タワー 」を核とした 区画整理地域再開発 が動き出そうとしています。
 この様な新しいシンボルとなる事業が行われる様になった根底には「東武の大都市圏輸送体系への転換⇒地下鉄直通運転最重視への路線転換」が有ると言えます。この業平橋の土地も地下鉄乗入化で捻出された土地です。業平橋を見る限り「東武の輸送体系変革」は輸送体制変革に留まらず「企業全体の変革を促進させる」内容であるのだと痛感させられます。今回のダイヤ改正は「東武の大都市圏輸送体系の完成」ではなく「東武の都市民鉄型総合生活企業への変革の始まり」を意味していると感じます。

 業平橋を訪ねたあと、東武のターミナルである浅草を訪ねます。浅草ターミナルは昭和6年の開業当時は「東京一の繁華街のターミナル」「最新鋭の交通機関地下鉄で都心と接続」「関東初の本格的ターミナルデパートを併設」と言う素晴しいターミナルですが、現在では厳しい条件下で造られたターミナル故に20m大型6両編成をやっと運用している大きさのターミナルであり「東武輸送体系最大の足かせ」となってしまっています。
 東武の浅草ターミナルは昭和6年に完成していますが、その過程において同じくターミナルを押上で足止めされていた京成と激しく争い(京成は京成疑獄と言う贈収賄事件まで起こしている)競願の末に免許を獲得して延長したルートです。京成自身は浅草延長で負けた後筑波高速度電気鉄道の免許を活用して青砥〜千住大橋〜日暮里〜上野に新線を建設して上野ターミナル建設に成功しています。此処も歴史のIFですが、東武も京成も浅草延伸を狙いましたがその先には浅草経由で上野延伸を狙っていました。浅草延伸では勝った東武ですが、最終目的の上野延伸は東京地下鉄道の存在や震災復興計画との絡みや市街地化が進んだ地域と言う事もあり達成できませんでした。長距離ターミナルとしては立地は上野の方が上です。そう考えると東武の成長に足かせを嵌めてしまった今の形の浅草延伸は東武に取り良かったのか?悪かったのか?極めて難しい事になると思います。もしかしたら東武・京成の浅草延長競争は京成の「負けるが勝ち」だったのかも知れません。

  
(左:東武浅草駅改札口 右:東武浅草駅特急ホーム)

  
(左:東武浅草駅普通列車ホーム 右:東武浅草駅に出入線する列車)
 ※本浅草駅写真4枚は4月1日夜に撮影した物です。

 しかし東武浅草駅は見れば見るほど「前時代的なターミナル」である事が分かります。昭和初期であればこの規模でも対応できたでしょうが今では完全に時代遅れです。客扱いが出来るのは20m6両編成までで、特急・快速には乗車の為に踏み板を渡さなければならないと言う状況は「悲劇」としか言い様が有りません。
 関東の大手民鉄は戦後の高度成長期に大なり小なり輸送力増強の為にターミナル改良を行っています。大規模ターミナルで大規模改良工事を行っていないのは東武浅草ぐらいでしょう。只立地・施設等を総合的に見てこの状況では東武がターミナル改良でなく地下鉄直通運転に道を見出した理由が良く分かります。此処に「東武の悲劇」が有るといっても過言では有りません。戦前はターミナル立地を求めて試行錯誤を繰り返し、戦後は20m6両編成運用がギリギリの東武浅草・18m8両編成が限界の日比谷線直通と言う様に追い求めた新天地の相手の輸送力不足に悩まされて、又新天地を求めると言う放浪の旅を繰り返しています。「小田急の輸送力増強の歴史は新宿駅改良の歴史」とも言われますが、東武の場合「東武の都心ターミナルの歴史は新天地を求めての放浪の歴史」と言う事が出来るかもしれません。
 けれども東武浅草も今のまま放って置く事もできません。東武は半蔵門線直通・今回のダイヤ改正で「地下鉄直通を軸にした大都市圏輸送体系」「JR直通での特急の新たな都心直通ルート」を構築できて、浅草のターミナルの地位は大きく低下したと言う事ができますが、それでも浅草ターミナルを捨てる事はできないでしょう。その様な状況の中で如何するかが課題です。
 現実問題として東武浅草ターミナルのターミナルビルも松屋浅草店の営業も苦戦しているようですし、建物自体も昭和6年完成では耐震強度の問題から建替えor耐震補強を迫られていると推察します。其れらにより浅草は全てに問題を抱えたターミナル担ってしまいます。只様子を見ると、駅ビルを全部壊して、路線数を4線⇒3線・ホームを3面⇒2面に減らした上2階スペース全部をホーム・線路にして有効長を伸ばしコンコース・旅客施設を1階にもって行き、その上で改めて駅の上に新駅ビルを建設すれば、今の「6両編成運転でも客扱いで危険な状況」を多少は解消できて、加えて上手く配置すれば8両編成までは入線可能になるかもしれません。只其れには今の駅舎の全面的な解体が必要になると推察します。その困難まで行って改良する価値は有るかは疑問が残りますが、其れであっても改良工事自体は行わなければ成らないでしょう。


 その様な浅草ターミナルの問題点を考えると「東武のターミナル問題」は未だに解決していないと言えます。逆に言えば東京東部では新宿・渋谷・池袋の様な「決定的にターミナルに相応しい立地」が無いだけに(上野も決定的に相応しいとは言い辛い)東武のターミナル問題は悩みが深いと言えます。
 今回東武亀戸線を振り出しにして東武の都心ターミナルの歴史・現状を振り返りましたが、その悩ましい状況に問題の奥深さを感じると同時に、歴史の皮肉や経営判断の難しさを感じました。東武のターミナル戦略・都心直通戦略はその時の判断としては間違えていなかったと言えます。浅草雷門進出も日比谷線直通も東武にとって一時の発展をもたらした事はゆるぎない事実です。しかし長期的には需要の成長の速度に追いつかず逆に発展の足かせになってしまったと言うのは残念ながら歴史を見た上での現実です。  その様な事から考えて「民鉄の都心進出・ターミナル構築」と言うのは、民鉄の経営戦略的には長期的視野で見て判断をしなければならない事項と言えます。しかし長期的視野と言っても、将来は有効でも投資段階では無駄と思われる巨額な投資をする事も経営的には正しくは有りません。そのバランスが難しいと言えます。その経営のバランスが如何に難しいかは今回の東武鉄道の都心ターミナルの歴史を見て改めて感じさせられました。





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