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昔見た夢の果実は大きかったのだが・・・・

− 東 武 鉄 道  大 師 線 −



TAKA  2006年07月12日





路線規模に比べて立派な大師前駅の駅名看板


 関東最大の民鉄である東武鉄道は、幹線級の伊勢崎線・日光線・東上線を中心に大は路線延長62.7kmの野田線を筆頭に数多くの支線を抱え、北関東に「東武ネットワーク」を構築していますが、今回はその中でも前に取り上げた「東武亀戸線」と並んで都心に有る物の、極めて短距離の路線で存在感の乏しい「東武大師線」を取り上げます。
 東武大師線は伊勢崎線の西新井と西新井大師の門前である大師前を結ぶ全長1kmの路線であり、西新井大師の門前を結ぶ鉄道なので一見すると「参拝客輸送鉄道」の様に見えますが、実体は西新井と東上線上板橋を結ぶ「西板線」の一部分として建設された路線であり、「東武ネットワーク」の中で「完成したら伊勢崎・東上線を結ぶ重要幹線」だったのが、事情で大部分が未成線になってしまい「夢破れて盲腸線」になった路線と言えます。
 今回は東武鉄道シリーズの2回目として、東武鉄道に取っては「夢と化した連絡線」である西板線の残滓である、東武大師線を訪問してみようと思います。

 ☆ 東 武 大 師 線  訪 問 記

 東武大師線を訪問したのは7月2日の日曜日午後でした。夕方の東上線常盤台での用事の前に、「関東鉄道めぐり」のネタ拾いを方々日暮里〜高砂〜柴又〜金町〜北千住と廻った後、西新井から大師線を訪問しその後バスで大師前〜王子〜常盤台と抜けて目的地に着くルートで訪問の予定を組み、伊勢崎線で西新井に着いたのは2時半チョット前でした。
 北千住から伊勢崎線の普通に乗ると梅島の駅の脇に巨大な空き地が見えます。今は南栗橋に移転してしまった東武鉄道西新井工場の跡地です。西新井はマンションを中心とした開発が進み、駅西口の日清紡の跡地にも 巨大マンション を中心とした 西新井駅前複合開発街区 の開発が進み、東武鉄道も07年11月完成予定で31,000㎡規模の専門店建設を計画しています。(東洋経済06年6/17号「駅(周辺)ビルランキングTOP300」より)この専門店街は東武西新井工場跡地に建設か、それとも西口駅ビル(東武ストア)脇の駐車場の所に建設か不明ですが、いずれにしてもこれ等の巨大開発が進めば西新井の拠点性が竹ノ塚・草加・越谷と比較して遜色ないレベルに高まる事は間違いありません。

   

左:西新井駅西口駅ビル   右:日清紡工場跡地に建設中のマンション


   

左:東武鉄道西新井工場跡地   右:東武の専門店建設予定地?西口東武ストア脇の駐車場


 西新井駅周辺を一回りしたあと、西新井駅に戻り今度は大師線試乗に向かう事にします。大師線のホームは伊勢崎線複々線の脇に1面2線で2両編成+αが停まれるホームがチョコンと有ります。このホームの大きさが今の大師線の輸送量を示していると言えます。
 西新井駅の改札を抜けて大師線ホームに下りる階段へ向おうとすると、階段の手前に自動改札があり「大師前駅改札口」と看板に書いて有ります。「西新井駅に大師前駅改札口」と言うのは非常に珍しい形態でチョット可笑しく感じますが、大師線の場合はこの先には大師前駅しかないので大師前を無人駅にして西新井で料金収受を集約して行っています。他ではそんなに見ないこの集改札形態(似た様な例はJR鶴見線鶴見駅にも有る)が大師線の運営規模の小ささを示していると言えます。
 ですから「大師前が無人駅」「西新井駅で兼務で集改札」「列車はワンマン運転」と言う状況なので、常時東武大師線運行に直接関わっている人員は運転手1名だけと言う事になります。これは極めて効率的な輸送形態で有ると言う事が出来ます。

   

左:西新井駅の大師前駅改札   右:大師線ホーム


 大師線は基本的に8000系2両編成がワンマン運転で1編成が単純に往復する形で運転されていて、 平日日中は約10分毎で運行 されています。西新井〜大師前間は運行時間は約2分ですから往復で約4分ですから折返し時間を考えても1編成で十分賄えます。その点でも極めて規模の小さい路線であると言えます。
 西新井駅を出発すると環状七号線の陸橋の下を潜り伊勢崎線と別れ単線になります。単線になると直ぐ高架になり大師前に向います。この区間は平成3年7月に高架化された区間です。「単線の盲腸線なのに何故高架化?」と言う気もしますが、大師線はこの区間で尾竹橋通りと交差しますし、大師前駅の直前でも片側1車線の道路と交差します。どちらも都市計画道路だったので連続立体交差化工事の適用対象となり高架化されたと推察します。それでこれだけ近代化されたローカル線になったのでしょう。

   

左:西新井→大師前間利用状況(7/2 15:00頃)   右:大師前→西新井間利用状況(7/2 15:30頃)


 大師線は「単線でわずか1km程度の盲腸線」ですが、沿線は完全に市街地化されている事もあり2両編成で座席がサラリと埋る程度の利用率が有ります。これだけ合理化が進んでいる路線であればこれ位の利用客があれば意外に「美味しい路線」かもしれません。
 単純に考えて1列車平均40名(1両20名)乗っていたとして、1日の利用客数は40名*114本*2(往復)=9,120名で、収入は単純概算で9,120名*65円(初乗り料金*50%)=592,800円と言う計算になります。特に収入に関しては単価を初乗り料金*50%に設定している為あくまでも概算としか言えませんが、運転手一人で1編成の列車を動かしてこれだけの収入が上がるのであれば、かなり「美味しい」路線で有ると言えます。その点は大師線の見えざる側面と言えるかも知れません。

   

左:伊勢崎線と大師線の分岐点   右:高架の大師前駅


   

左:大師前駅から西新井方面を見る   右:大師前駅構内と8000系2両編成ワンマン車


 走り出して僅か2分で終点大師前駅に到着です。大師前駅は高架で1面1線の構造ですが、ホームの幅は広く出来ています。西新井大師の多客時用に広くしているのかもしれませんが、このホームが人で埋る日は正月等限られているのでしょう・・・。
 しかし駅自体は高架化した時に建替えた物ですが、かなり立派に出来ています。3階が大師線の駅で1階に東武バスの折り返し場と北隣接して千住行きのバス乗り場があり、高架にくっちた形の駅ビルになっている駅舎内にも3階に本屋・2階に医者・1階にケンタッキー等テナントが入っていて、それなりの機能を兼ね備えています。
 けれども前に述べた様に西新井で切符の収受を行っている為、大師前には無人の改札がポツンと有るだけです。(無人のラッチが有るだけ・・・)実際には「無用のラッチ」なので、上の階の店舗へのアクセスを考えると撤去した方が良いのかもしれません。

   

左:大師前駅改札口(自動改札も無く無人)   右:大師前駅駅舎(右側は東武バスターミナル)


  西新井大師 (五智山遍照院総持寺)は「関東の三大師(川崎大師・西新井大師・佐野厄除大師)の一つに数えられるほど知名度の有る寺院で、写真に有る通りかなりの規模のお寺です。
 その為門前には 門前町 が広がっていて、歴史の有りそうな川魚料理を食べさせる料亭や葛餅等の菓子を売る店も多くそれなりの賑わいを見せています。只東京近郊でも「矢切の渡し」「寅さん」で有名な柴又帝釈天や規模の大きい川崎大師の門前町と比べると、賑やかさ・門前町の規模・人出では劣る感じです。やはりそのレベルの規模の寺社と比べるとマイナーなのかも知れません。
 其れは歴史が証明しているのかもしれません。柴又帝釈天には京成金町線・川崎大師には京急大師線と言う参拝客を対象とした参詣鉄道が明治時代に成立していますが、西新井大師には参詣鉄道が成立せず、現在アクセスとして使用されている東武大師線も「西新井大師の参詣鉄道」として建設された鉄道では有りません。(この区間が一番先に部分開業したのは参詣客への便宜と言う側面も有るが・・・)需要があれば参詣客目当ての鉄道は出来ていたでしょう。その様な鉄道が出来ないレベルの参詣客しか居なかった事が西新井大師の規模を示していると言えます。

   

左:西新井大師境内   右:西新井大師の門前町



 ☆ 大師線に残る「東武鉄道が目指した夢」とは?

 この様に極めて中途半端な路線である大師線ですが、何故この様な路線が出来てしまったのでしょうか?大師線西新井〜大師前間は1931年12月に開業しています。昭和6年と言う時代を考えればこの鉄道を「参詣鉄道」として作るには時期が遅すぎます。その需要が有ればもっと早く造っていたでしょう。と言って関東大震災後の市街地拡大にあわせて造った路線としては距離が短すぎます。
 この様な中途半端な路線の建設が何故行われたのか?其処を読み解く鍵が冒頭で触れた「西板線」と言う事になります。この区間は1924年に西新井〜鹿浜〜神谷〜板橋上宿〜上板橋間で免許された「西板線」の唯一の開業区間なのです。
 
 元々北千住〜久喜間で開業し、その後東北線・高崎線の間の空白地帯で東武伊勢崎線を軸に北関東地域にネットワークを広げてきた東武鉄道は、元々同じ根津系で池袋〜川越〜寄居〜高崎間の路線建設を目指していた東上鉄道を1920年に合併し高崎線の西側への影響範囲拡大を図ります。(最終的には旧西武鉄道まで手を出している)
 しかし元々東京を中心に北関東を扇状に展開していた東武鉄道に取り、旧東上鉄道沿線は東武路線網から「孤立した路線」となっていました。その様な状況に加えて私鉄開設の熱が強かったこの時代、既に新規路線開設では勢力拡充が図れなくなっていたので、東武鉄道は東京の郊外として住宅化が進みつつも未だ誰からも免許出願がされていない「環状方向」への路線建設を図ろうとします。その様な方針の中で出願されたのが西新井と上板橋を結ぶ「西板線」です。
 この「西板線」の路線区間は丁度今の環状七号線の常盤台〜西新井間とラップします。環状七号線は1927年に都市計画決定されていて、現在は数少ない完成している東京の環状道路の大動脈として機能していると同時に、道路周辺は完全に市街地化が進み人口密度が高い物の江北・鹿浜等の特に足立区内で公共交通をバスに頼る状況で不便な状況が続いています。

   

左: 環状七号線(西新井大師前)  右:環状七号線(板橋本町)


 良く「歴史にIFは無い」と言いますが、もし「西板線」が開業していたら如何なっていたのでしょうか?東京の北部地域と東武鉄道にとって極めて魅力的な路線になっていた事は間違い有りません。
 
 今 足立・葛飾・江戸川の3区が運動の中心 となり、計画として「赤羽〜葛西臨海公園間」で、環七の地下に地下鉄を作り環状公共交通を造ろうとする「 メトロセブン 」の構想が存在します。
 この構想は「 エイトライナー 」構想と赤羽で接続する事で、東京の環状道路である環状七号線・環状八号線沿いに第二の環状公共交通を作る事を意図していますが、このメトロセブンの足立区内のルートは「西板線」のルートと完全に被ります。
 もし「西板線」が出来ていた場合、西新井〜上板橋間で公共交通が不便な足立区鹿浜・江北地区に対して公共交通を提供すると共に、東武の伊勢崎線・東上線を結ぶだけでなく、板橋本町で都営三田線・十条で埼京線・東十条で京浜東北線・神谷でメトロ南北線と接続する環状鉄道が大正〜昭和初期に出来上がっていた可能性が有ります。
 実際「西板線」に並行する環状七号線を走るバスルートである西新井〜赤羽線・王子〜上板橋線・王子〜(常盤台)〜新宿線・赤羽〜(常盤台)〜高円寺線等はそれなりの利用客が有ります。其処から考えると環状鉄道が出来ていた場合、極めて効率が良く採算性の高い「東武のドル箱路線」が出来ていたかもしれません。
 
 加えて東武鉄道の路線網を見ても、現在伊勢崎線・日光線を中心とする本線系統と東上線系統は完全に分断されていて、「西板線」が未成線で終わった為東上線系統が孤立してしまった状況が一目瞭然です。実際東武鉄道では東上線に関しては「東上業務部」が別に設けられていて半独立形態で運営されています。元々1920年の東武・東上合併前は別会社で「合併会社間で上手く刷りあわせが出来ずに独立した事業部制を造った」と言う説が有りますが、合併から86年も経過しても関東鉄道で唯一と言える「鉄道事業での事業部制」を引いているのは、やはり東武鉄道の中で東上線系統が孤立してしまっている事が大きく影響していると言えます。
 やはり組織は分割して運営されているより統一されて運営している方が効率的で有ると言えます。(管理部門の重複は大きな無駄だ)その統一にはやはり一体化した路線網は重要で有ると言えます。関東では京王も本線と井の頭線で軌間が違い一体化した路線網を築いては居ませんが、東武も同じ状況です。実際は京王は明大前で接続していますが、東武の場合全く接続していませんから完全に違う会社が並立している感じかも知れません。その点から見ても東武・東上の接着剤と成り得た「西板線」の挫折は大きなダメージだったかも知れません。

 もっと妄想を拡げれば、もし複線電化で「西板線」が出来ていたならば、西新井〜上板橋間の環状接続輸送だけでなく、竹ノ塚〜大師前間と板橋上宿(板橋本町)〜中板橋間に短絡線を作る事が出来れば、伊勢崎線から東武鉄道唯一の山手線への接続ターミナルである池袋への短絡線を作る事が出来たかもしれません。
 そうした場合、迂回ルートになる事・池袋のターミナル容量・東上線の線路容量を考えると、一般列車を頻発と言う訳には行かなかったでしょうが、日光鬼怒川系統の優等列車の一部等を池袋発着に廻す事が出来た事は間違い有りません。
 現在東武は悲願の特急の新宿・池袋直通運転の為に、栗橋での連絡線を経由しての JR直通特急 の運転をしていますが、「西板線」と短絡線が出来ていれば何も昔はライバル視をしていたJRに乗り入れる様な事をしなくてもほぼ同等の効果をもっと前に得られていたと言えます。
 その点から言えば「西板線」が完成していれば、後から色々なインフラを加えるだけで、東武鉄道の輸送形態に大きなメリットを与える事が出来た事は間違い有りません。妄想が入る事を承知の上でその様な「IFの視点」で考えると、西板線は「返す返すも未成線で終わって残念な路線で有ったという事が出来ます。

   

左:西板線が近くを通る予定だった東上線常盤台駅前   右:西板線終点予定の東上線上板橋駅構内(東武練馬方)


 その様な「残念な未成線」で有った「西板線」ですが、未だ残した遺産が散在しているのも事実です。今回取り上げた大師線も「西板線」の遺産の一つですし、上の写真の東上線常盤台駅の北側に広がる常盤台住宅地も「西板線」建設用地買収地を住宅地に転用したと言う意味では「西板線」の遺産の一つであると言う事が出来ます。
 常盤台住宅地は1927年に買収した約8万坪の土地を1935年開業の常盤台駅を中心に1人施工の区画整理1935年〜1938年の間に造成後売却した住宅地で、東京の北西部〜北部には見られない「東武線沿線とは思えない程」の極めて優美な住宅地を作り出しています。
 この土地は 「西板線」の貨物ヤード建設予定地だった土地 を、1932年の鹿浜〜上板橋間の起業廃止で建設を断念した為住宅造成に振り向けたとの説も有ります。
 実際は「貨物ヤードに8万坪」と言うのは大げさな買収面積なので、駅・貨物ヤード・住宅地を含めた総合的な開発を目指した可能性が高いと思います。その中で「西板線」は現実化する事が出来ませんでしたが、残された開発行為が賞賛すべき優美なアーバンデザインの住宅地を東京の北西近郊に作り出したという点で見れば、極めて意味が有る事だと考えます。
 冷静に真実を見れば「西板線」は「完成しなかった未成線」であり其れについて考える事は「死んだ子の齢を数える」事であり、そんなに意味が無いと言えるかも知れません。しかし良く見ると未成線が残した遺産と言う物が今の社会に意外な所で残っているのだなと、今回の訪問記では改めて感じさせられました。

   

左・右:緑が多く優美なアーバンデザインの御屋敷街 常盤台


 参考文献
・鉄道ピクトリアル97年12月増刊号「東武鉄道」
・越沢明 著 「東京都市計画物語」
・森口誠之 著 「鉄道未成線を歩く 私鉄編」





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