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変り行く「石灰石とセメントの街」を目指す鉄道

− 西 武 鉄 道 秩 父 線 −



TAKA  2006年11月15日





横瀬駅に入る西武秩父線のエース「特急ちちぶ号」西武秩父行き



 「西武秩父線」と言うと、西武池袋線沿線に生まれ育った私にとって「近くて遠い」と言う印象がある路線です。今でも西武池袋線沿線に住んでいるので特急レッドアローを中心に「西武秩父行」と言う列車を見かけますし、小・中学生時代には沿線の学校の多くは「学校の遠足=飯能より先の山に登りに行く」と言う方程式が有ったので、年に1回〜2回は西武池袋線飯能以遠〜西武秩父線に行っていたり、小さい子供の頃に両親が1回〜2回かピクニックに連れて行ってくれたり(一般的に見れば回数は少ないが、家の両親は仕事に忙しく殆ど連れて行ってくれなかったことを考えると記憶に残るものである)、私の父方の親戚が飯能に居る等の事が有り、「縁がある」路線であると言う事が出来ます。
 しかし同時に西武池袋線沿線住民でありながら、今まで西武秩父線に「全線完乗」をした事が無く、実質的な秩父訪問は子供の頃に親が(今までに乗った数少ない)レッドアロー号に乗車し、芦ヶ久保果樹公園村に連れて行ってもらった時に芦ヶ久保まで乗車したのが今までで最遠方までの乗車であり、つい最近まで「秩父方面」には行った事が有っても、秩父にはほとんど行った事が無い(この1回と約10年前に前の会社のゴルフコンペの時に幹事の私が 東都秩父カントリー倶楽部 を予約して会社の課のコンペを開いた時に来るまで訪れた計2回だけでした。

 しかし8月に交通総合フォーラムでご一緒させて頂いている「とも様・KAZ様・さいたま市民@西浦和様」と「 オトナの小旅行 秩父編 」と言う事で西武秩父線・秩父鉄道線・秩父市内を訪ねる機会があり、秩父の風景の綺麗さ・蕎麦と酒の美味さに引かれ、今回土曜日夕方で地元で所用がありその前の時間がフリーだったので、関東鉄道めぐりの取材と「武甲正宗」購入と蕎麦を食べに2回目の秩父訪問に向かうことにしました。

 「参考HP」・ 西武鉄道HP  ・ 秩父鉄道HP
       ・ 秩父市HP  ・ 横瀬町HP  ・ 秩父商工会議所HP
       ・ 秩父地域おこしプロジェクトHP  ・ 石灰石とセメントの輸送に当たった鉄道
       (wikipedia)・ 西武秩父線  ・ 西武池袋線  ・ 秩父鉄道

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☆ 西 武 秩 父 線 訪 問 記 (8:36池袋→10:25御花畑 写真は一部帰り撮影の物も含む)

 今回の目的の一つである「蕎麦と武甲正宗」にたどり着くには、まずは秩父に向かわなければなりません。秩父地方は埼玉県西部の奥地に位置する盆地の為秩父に入るアクセスルートは「荒川沿いを遡上・正丸峠越え・雁坂峠越え」の3つが基本です。車の場合、雁坂峠越えの中央道〜 雁坂トンネル有料道路 もしくは荒川遡上ルートの関越道〜 皆野寄居バイパス 経由が便利ですが、鉄道の場合荒川遡上ルートで熊谷〜三峰口間を走る秩父鉄道ルートもしくは正丸峠を正丸トンネルで貫き東京〜秩父を直結する西武秩父線ルートになります。今回は鉄道で向かう訳で選択肢は「西武秩父線」と「秩父鉄道」に絞られる訳で、家が西武池袋線沿線であり夕方の用事も西武池袋線沿線での用事だったので、単純に「往復西武秩父線使用ルート」で向かうことにしました。
 私のいつも利用する駅は普通しか止まらない駅なので、致し方なく池袋まで出て、池袋から快速急行で秩父へ向かうことにします。池袋から西武秩父へは土曜・休日は 4000系 快速急行が7:06〜8:36の間30分毎に4本運転されていて、その内8:06発と8:36発の2本が秩父鉄道に乗り入れて三峰口・寄居まで運転されています。今回朝寝坊の私は前回の「オトナの小旅行」の時と同じ8:36発の快速急行で秩父に向かうことにしました。
 私が上り普通電車で池袋駅に到着したのは8時20分過ぎでした。一度改札を出て切符を買い(パスネットは秩父鉄道では使えない)昼間は多くは使われない7番ホームに並ぶと目の前を8:30発の特急が通過していきます。特急は空席がちらほら見える程度の乗車率です。又特急発車後に入線の私が乗る快速急行の待ち客も各ドアに10名程度並んでいます。それらの乗客・待ち客の中で「如何にも観光客」と言う人たちが半分位を占める感じです。10月後半の土曜日でこの日が晴天であったことを考えると各列車ともなかなかの乗車率であるといえます。

  

左:西武池袋駅に停車中の「特急ちちぶ号」   右:8:36発快速急行を待つ乗客

  

左:西武池袋線のジャンクション飯能駅   右:飯能駅の秩父鉄道直通快速急行と西武秩父行普通

 私の乗った快速急行は座席が埋まる程度の乗車率で定時に池袋を発車し秩父に向かいます。快速急行は石神井公園・ひばりが丘・所沢・小手指・入間市・飯能と停車していきますが。そもそも 奥武蔵秩父 地域は西武鉄道が「沿線の手ごろな観光スポット」としてアピールをしてきており、沿線住民に馴染みの深いと言う事もあり快速急行には途中の停車駅からもかなりの乗車客があり、空いてる車両で座席の半分強・混んでいる車両では10名程度の立ち客が出る状況で飯能に到着します。
 飯能は秩父山脈への入り口に当たり名栗川沿いに開けた町で、昔から秩父山地で産出される木材等の集散地として栄えた街で今は美杉台ニュータウンや飯能・日高ニュータウンが出来て東京のベットタウンとなっています。又西武池袋線は飯能でスイッチバックして高麗川沿いを吾野・秩父方面に向かうため(武蔵野鉄道は設立時は飯能が目的地だったがその後吾野の石灰石運搬のため高麗川沿いに吾野へ延伸した為、このまま延伸すると名栗川水系沿いになってしまい山越えの必要が有ったので飯能でスイッチバックになった。)路線上は吾野が西武池袋線と秩父線の境界ですが、運転上は飯能を境に系統分割され池袋〜飯能間が近郊輸送、飯能〜西武秩父間が山間ローカル輸送になっています。
 飯能自体宮沢湖や飯能河原等の観光場所やバスで旧名栗村方面のハイキングルート等にもアクセス出来るためかなりの観光客が下車します。同時に先行の飯能止まりの列車からの乗換客も乗車してきて、各車座席の50%〜100%の乗車率で山岳区間に入っていきます。

  

左:東飯能〜高麗間に有る武蔵丘車両基地   右:高麗に有る西武線沿線最遠のニュータウン

 飯能を出ると飯能市街を大きく回りこみながら八高線に接続の東飯能を通り国道299号線に沿いながら山間部を目指します。市街地が切れ山間部に入った丁度その場所に丘陵を造成して作られた 武蔵丘車両基地武蔵丘車両検修場 が有ります。元々西武所沢工場の移転先と拡張困難で限界が近い保谷・小手指の両車庫に加わる第三の車庫として建設されましたが、いくら沿線開発が進んで適地が無いと言っても丘陵地帯を造成するのには多大な努力が必要だった筈です。そこまでして車庫・検修場を造る西武の努力には驚かされます。(私は安比奈に作った方が良かったと思うのですが・・・)
 武蔵丘を過ぎると、次の駅が高麗です。高麗は駅の南側に武蔵台団地が広がる「西武池袋線通勤最遠地」と言える所です。又同時に天覧山・ 巾着田 などの観光スポットも多いので観光客の利用も多く「曼珠沙華」の開花時期には西武線各駅にポスターが貼られ観光客が多く来ます。まさしく自然に恵まれたニュータウンという感じですが、この先は風景が一変することになります。

  

左:快速急行車内(東飯能〜高麗 最後部)   右:武蔵横手での上り列車との交換風景

  

左:吾野での特急との交換風景   右:砕石を産出する 西武建材吾野鉱業所

 高麗を過ぎると風景が一変して秩父山系の山岳地帯に入ります。高麗川沿いの渓谷に西武池袋線に秩父盆地と飯能を結ぶ国道299号線と少々の集落が寄り添いながら正丸峠を目指して坂を上っていきます。西武池袋線は小規模集落毎に武蔵横手・東吾野・吾野駅が有りますが、この時期の土休日はハイキングを中心とした観光客が大部分の状況です。
 吾野ではかなりのハイキング客が降りると同時に此処で上り特急列車と交換します。この単線区間は各駅に交換施設がありますが、かなり運転本数も多い(特急が1〜2時間毎+普通毎時2本)ので2駅毎位に対向列車と交換します。吾野で交換した上り特急は乗車率にして30%〜40%位です。土休日の上り特急と考えるとかなりの利用率で有ると言えます。
 吾野は池袋線の終点で有ると同時に秩父線の起点で有る駅です。元々武蔵野鉄道は吾野の石灰石を輸送すると言う浅野セメントの要望に答え 1929年に飯能〜吾野間を延伸 し秩父山系東側の石灰石・材木等の産物の輸送を行う様になります。吾野にはその時の石灰石鉱山の跡が 西武建材吾野鉱業所 として残っていますが、今は石灰石を産出しておらず砕石のみを産出しトラックで輸送しています。西武秩父線も武甲山の石灰石輸送が建設の目的の一つで「民鉄最強」と言われたE851系を導入して石灰石・セメント輸送を行っていましたが、今は吾野・横瀬共に石灰石・セメントの鉄道貨物としての輸送は無くなりました。
 「西武の赤い電機」と言うと私の子供時代には池袋線沿線では珍しい存在ではなく、私も子供の時に良く見た記憶が有ります。しかし今や貨物輸送も廃止され「西武鉄道で石灰石・セメント輸送をしていた」と言うのは今や過去の遠い記憶の話となろうとしています。其れが現実として分かっていますが、今回西吾野での貨物用待避線の撤去等の状況を見ると、西武の貨物輸送の根元地で有った秩父線でも貨物輸送は「過去の歴史になっているのだな」と改めて感じました。

  

左:西武秩父線の線路   右:民鉄有数の長さを誇る正丸トンネルの入口

  

左:横瀬駅での分割風景   右:西武秩父駅に有る西武⇔秩父連絡線

  

左:西武秩父駅構内   右:西武秩父駅駅舎と駅前広場

 吾野からは西武池袋線→西武秩父線と路線の戸籍が変ります。しかし飯能〜西武秩父間の山岳区間は一体的に運用されているので、表向きは特に変る物では有りません。しかし西武池袋線飯能〜吾野間の開業が1929年に対して西武秩父線の開業は1969年でありこの40年間の差は大きく、吾野を境に線路の規格は大きく変るのは目に見えて分かります。西武秩父線開業は「101系・5000系レッドアロー・E851系電気機関車」と言う革新的車両を登場させ、西武に大いなる革新をもたらしました。高規格の路線・当時民鉄最長の正丸トンネルの掘削・新型車両の導入等の西武が秩父線に費やした努力を考えると、西武が秩父線に費やした情熱の大きさを改めて感じさせます。今となっては歴史のIFの話ですが、もしかしたら本当に西武秩父〜軽井沢間の延伸を考えていてその一歩が西武秩父線の建設だったのかもしれません。
 正丸トンネルで正丸峠を超えて秩父盆地に入ると、芦ヶ久保・横瀬と停車していきます。横瀬では乗車の秩父鉄道直通の快速急行は編成を分割して別々の列車として進む事になります。西武秩父駅の西武⇔秩父の連絡線の内西武⇔秩父長瀞方面の連絡線が勾配の関係で西武秩父駅のホームが作れない為、運賃上は西武秩父=御花畑の扱いをして横瀬で編成分割の対応をしています。大体目分量で見ると前の西武秩父・三峰口編成6:後ろの御花畑・寄居編成4の割合で乗車している感じです。前の編成の方が先行するので秩父に向う人は先着の西武秩父で降車するので前の編成の方が混んでいるのかも知れません。
 今回は直通列車の乗ってそのまま目的地の上長瀞へ直行したので、秩父における西武鉄道の玄関口西武秩父駅には帰りによる事になりました。西武秩父駅は 昭和40年に大野原へ移転した県立秩父農工高校の跡地 に建設された為、秩父市役所は駅直近ですが、秩父の旧市街地は歩いて5〜10分の距離になります。西武秩父駅には鉄道の駅の他駅前のバスターミナルと駐車場や御土産の買えるアーケードモールの「秩父仲見世通り」を併設していて、「秩父の玄関口」としての機能を一通りそろえています。
 只駅構内は2面3線に加えて殆ど使われていない2本の留置線が有り使われていないスペースが結構多い感じがします。西武秩父線は建設されてもうすぐ40年になりますから、築40年になるのを機会に「仲見世通り」の様な商業施設や駐車場や(秩父に少なそうな)ホテル等を充実させた西武秩父駅の再開発を考えても良いかも知れません。本当には御花畑駅の移設による真の秩父の玄関口としての総合駅化を図りたい所ですが構造上困難(秩父鉄道を地平のままでの今以外の連絡線配置は困難だし、秩父鉄道の高架化による西武秩父駅とレベルを揃えるのは、秩父夜祭の山車の通過の関係で現御花畑駅前踏切の高さのクリアランスが取れないから困難)なので、西武秩父駅⇔御花畑駅の連絡通路の利便性向上を含めて総合的に行えれば利便性も向上してベストでしょう(でも難しいかな・・・)。


☆ 長 瀞 散 策 の 旅 (秩父鉄道上長瀞駅下車〜秩父鉄道荒川鉄橋&荒川河原散策)

 前回は目的の主眼が秩父市街地だったので直通列車に乗って秩父鉄道秩父で下車しましたが、今回は秩父市街地と並んで「長瀞でも行って川でも見てくるか」と言う目的も有ったので、西武秩父線からの直通列車に乗って長瀞方面を目指す事にしました。
 元々秩父鉄道は荒川の北岸を熊谷から北上してきて、荒川に当たる上長瀞を第一期の終点として明治44年に開業しています。その後荒川架橋完成に伴い大正3年に秩父まで延伸し本来の目的を達成していますが、秩父延伸までの短い期間「秩父の玄関口」とされた駅である上長瀞と秩父市街延伸と言う秩父鉄道の飛躍への架け橋となった「 荒川橋梁 」は一見の価値が有ると思っていますし、「荒川鉄橋を見ながら川辺でまどろんでいるのも良いかな?」と言う事で今日の第一の目的地は上長瀞にする事にしました。

  

左:秩父鉄道上長瀞駅駅舎   右:上長瀞駅の駅前通り

  

左:車内から見た荒川鉄橋   右:荒川鉄橋を渡る秩父鉄道1000系(元国鉄101系)

 西武4000系の快速急行崩れの普通が御花畑から秩父鉄道に入り軽快に飛ばしていきます。武州原谷の秩父太平洋セメント第二工場の脇を通り黒谷で101系の下り列車と貨物待避線を利用して西武301系を改造した6000系急行列車の待避を行った後、皆野・親鼻を過ぎ左に大きくカーブを切るといきなり車窓が開けて荒川橋梁に入ります。荒川鉄橋を超えるとすぐ上長瀞です。今回は上長瀞で降りて荒川の河原で荒川橋梁を眺めてみる事にしました。
  上長瀞駅 は駅の造りが非常にレトロでいい味を出しています。多分開業当時のままなのでしょうが今やこの様な風情のある駅はなかなか見られなくなりました。上長瀞は「観光地の玄関口」ですからもっと洒落た感じの駅を作るような動きがあっても不思議では有りませんが、流石にこの雰囲気が惜しいのか(それとも金が無いのか)その様な動きは出ていない感じです。駅舎の脇が駐車場で多少興が削がれますが、本当に数少なくなったこの様な味のある駅舎は使える限りは使い続けて残して欲しいものです。
 上長瀞の駅から道を進み荒川の河原に出てみると、右手に聳え立つ形で荒川橋梁が見えます。荒川橋梁は全長153m・橋梁がレンガ積4段の橋梁で秩父鉄道最大規模の橋梁です。この橋梁が出来たのは大正3年ですからこれだけの規模の橋梁を架設した事は正しく「社運を賭けた大事業」だったのでしょう。この渓谷となっている地勢と規模の大きい橋梁を見るとその事を感じさせます。又この橋梁は 1889年に橋梁改修工事 を行い上路プレートガーター下部を補強すると同時に、4段のレンガ積み橋脚の最上段をコンクリート巻きにして補強しています。これは秩父鉄道特有の石灰石・セメント輸送の重量貨物列車に対応する為の補強工事ですが、これだけ高いところでの補強工事ですからかなりの工事のボリュームだったと思います。それでもやらなければならないほど貨物需要が旺盛だったと言うのは、秩父鉄道の華やかしい歴史を示しています。
 取り合えず荒川橋梁と通過列車の写真を取った後、ラフティング川下りをする人や長瀞ライン下りの船を見ながら、石の上に座り川の風に当たりながら浮世を忘れまどろんでいます。しばらくすると河原に三々五々人が集まってきます。多分パレオエクスプレスの時間が迫っているのでしょう。パレオエクスプレスを此処で見てもいいのですが、時間の関係も有りますし落ち着かなくなってきたので、上長瀞駅前の商店街の手打ち蕎麦屋で蕎麦を食べる事にしました。

  

左:「うち田」での蕎麦切り風景   右:「うち田」のきのこつけ蕎麦

 前回の秩父訪問時に食べた秩父駅前の 武蔵屋本店 で食べたとろろ蕎麦が結構美味しかったので、今回も手打ちの蕎麦を食べようと思いとりあえず上長瀞駅前の商店街でたまたま店頭で手打ち蕎麦を打っていた「 うち田 」という蕎麦屋さんに入ってみることにしました。
 元々秩父の蕎麦は「胡桃ダレ」の蕎麦が多いのですが、質と共に「食べた量への充実感」も重視する私は量のあるトッピングのない蕎麦はNGです。と言う訳で今回はのきのこつけ蕎麦を食べる事にしました。この蕎麦は店のHPが「石臼挽きの上質そば粉を使用した自慢の手打ちそば」と言うだけあり、白く透明感のある蕎麦で蕎麦の実を丁寧に引いている事がわかります。実際蕎麦の量が物足りない感じはしましたが、のどごしは良く暖かくて具沢山の漬け汁と合わさって良い味を出していました。
 良く「観光地の食べ物に当たりは無い」と言いますが、此処は例外であると言う事が出来ます。前回の武蔵屋本店の蕎麦も美味しかったですが、上長瀞の「うち田」の蕎麦もこれはかなりポイントが高いと言うことが出来ます。そんなに意識せず「ふらっと入った店」でしたがその割にはラッキーだったと思います。


☆ 「根幹の産業」たるセメント生産が衰退する中で、観光が交通・地域全体を支えられるのか?

 今回2回目になる秩父の「ふらっと旅」でしたが、2回の訪問で秩父に対して抱いていた感じは大きく変わりました。  元々秩父は「ハイキングや遠足で行く所」と言うイメージは有れども「観光地」と言うイメージは持っていませんでした。確かに東京からの時間的距離は箱根とほとんど変わりませんが、箱根の様に有名な温泉や名所が有る訳ではなく、秩父は長瀞など比較的地味なスポットの多い場所で「観光地としての魅力に乏しい」と言うイメージが私の中には強く有りました。
 それに対して「秩父の象徴は 武甲山 」とよく言われますが、私もその印象が非常に強く昔西武の記念切符に出ていた「武甲山を背景にしたレッドアロー(実際はこの写真ではないが こんなアングルの写真 )」と言うのが印象に残っていますが、「秩父の象徴が武甲山」と言うのは観光的な意味合いより、秩父の近代産業の発展は「武甲山の石灰石とセメント産業の歴史」と言う意味合いの方が強いといえます。今回は観光的であった「関東鉄道めぐり」の締めとして、秩父の産業の実態と将来についてセメント産業と観光産業の側面から考えてみたいと思います。

 ・今や衰退しつつあるセメント産業

 日本のセメント産業は1873年(明治6)に東京深川に官営の「摂綿篤(せめんと)製造所」が設立されたのを嚆矢としてコンクリート構造物の増加に伴い発展してきましたが、その発展の歴史においてセメント産業と石灰石鉱山と鉄道は切っても切り離せない関係を持つ様になります。実際関東では官営深川セメント製造所を払い下げを受けた浅野総一郎の浅野セメントは、原料の石灰石の鉱山を葛生・宮ノ平・雷電山・大久野・奥多摩と求め放浪していくと同時に、鉄道会社のパトロンとして佐野鉄道・青梅鉄道・五日市鉄道・南武鉄道・奥多摩電気鉄道に関与して行き、明治〜昭和初期にかけてセメント産業と鉄道会社の特殊な関係を作り上げていきます。
 そのようなセメント産業の発展は「 推定可採鉱量約4億トンといわれ日本屈指の大鉱床 」である武甲山を有する秩父にも大きな影響を与えます。秩父にはセメントの原料である石灰石が武甲山に豊富であり、大正3年には秩父鉄道が秩父まで開業し秩父山系を超えて秩父から大消費地の東京への輸送手段が確保され、同時に関東大震災でコンクリート構造物が着目されるようになった大正12年、深谷出身の 諸井恒平 が秩父セメントを設立し大正14年には秩父第一工場を作ると同時に秩父鉄道の社長に就任し、秩父セメントを名実共に「秩父を支える企業」に育て上げます。
 その後第二次世界大戦後には経済の発展に比例したセメント需要の増大に伴い、秩父には昭和31年に 秩父セメント秩父第二工場 ・昭和44年には 三菱マテリアル横瀬工場 が建設され一時は3工場で年産400万トンの生産能力を持つまでになりました。同時にそのセメントの原料である石灰石鉱山も武甲山の他に秩父隣接の群馬県中里村に叶山鉱山が開発され、これらの鉱山からベルトコンベアー・鉄道で各セメント工場へ供給する体制(武甲山→(秩父鉄道)太平洋セメント熊谷工場・(ベルトコンベヤー)太平洋セメント埼玉工場・三菱マテリアル横瀬工場、叶山鉱山→(ベルトコンベヤー)秩父太平洋セメント秩父工場)が整えられ、秩父のセメント産業・石灰石鉱山はまさしく絶頂期になります。

  

左:セメントを生産する 三菱マテリアル横瀬工場    右:武甲山からの石灰石搬出駅の影森駅


  

左:石灰石を 太平洋セメント熊谷工場 へ運ぶ秩父鉄道貨物列車 右:「秩父セメント秩父第二工場」だった 秩父太平洋セメント 工場


  

左・右:太平洋セメントの分社で中期経営計画で「環境事業へ転換」が打ち出された秩父太平洋セメント工場と製品搬出用の大規模構内側線

 しかしセメント業界の供給過剰・過当競争・市況低迷に起因して各社間で再編成・合併が進み、秩父セメントは最終的に業界最大の太平洋セメントに飲み込まれる形となります。その中で旧秩父セメント工場の再編成が進み、秩父セメント秩父第一工場は休止→廃止に追い込まれ、秩父第二工場も分社化・生産能力の160万トン→80万トンへの半減・環境事業への転換と言う縮小に追い込まれ、一時期は年産400万トン近い生産量があった秩父地域のセメント生産量は今の生産能力で260万トンと約3分の2にまで減少する状況になってきています。
 このような旧秩父セメントを中心とした過酷なリストラが行われた結果、秩父の主要産業であるセメント産業の衰退は明らかになり、「秩父セメントの城下町」であった秩父市(三菱マテリアルは隣の横瀬町)は窮地に追い込まれると同時に、秩父地域全体が経済的活力を失う結果に追い込まれています。
 同時に秩父第一・第二工場からのセメント輸送を失い貨物輸送量が減少した地元の太平洋セメント関連会社の秩父鉄道は苦しい状況に追い込まれる事になり、又三菱マテリアル横瀬工場のセメント輸送を行っていた西武秩父線も96年に貨物輸送が廃止となり秩父地方の鉄道輸送にも大きな変化をもたらしています。
 この様に時代の変化と産業構造の変化に伴い、今までの秩父の繁栄を支えてきた秩父のセメント産業は、その根幹であり地域の大企業であった秩父セメントが業界再編の波に飲み込まれ事実上消滅してしまった為に、完全に衰退モードに突入してしまい今や地域を支えることが出来なくなってしまい、他の産業に活路を求めなければならない状況に追い込まれていると言えます。

 ・観光産業は地域を支えることが出来るのか?

 この様なセメント産業の苦境が現実となっても、秩父には他の産業を誘致し新たな地域産業の根幹を築く事はきわめて困難であると言えます。なぜなら東京からは近いものの特に道路環境が悪く物流の便が悪いことが大きなネックであると言えます。セメント産業時代は鉄道がその輸送の主軸であり、秩父鉄道・西武秩父線と言う2本の軸が有ったので輸送の不便さはそれほどではありませんでしたが、自動車輸送が主流の他産業を誘致するとなると、今でこそ関越道花園IC〜皆野寄居バイパスのルートが整備されていますが、それでも迂回ルートですし直線ルートの国道299号線は正丸峠越えの坂道がネックであり、企業誘致には大きなマイナスです。それでも秩父には キャノン電子本社・秩父事業所 と言う様な上場企業の工場も進出していますが、それでもセメント産業の代替となると厳しいものがあります。
 そうなると「地域に眠る資源を生かし」「大都市東京から比較的近い立地」を生かす産業を開拓しなければ、地域の発展は困難な物になると言えます。そのような条件に当てはまる産業を考えると残された産業は「観光」しかないと言えます。秩父では今までは決して「パッとしない」産業であった観光産業ですが、これからの地域の永続的な発展を考えると観光産業を振興させ、「東京から近い観光地」を売りにして観光客を集めてこなければ今後の秩父地方の発展は厳しいものがあるといえます。
 ただ関東地方で東京近郊の観光スポットというと箱根等が思い浮かびますが、何処も「温泉・宿泊・観光スポット」の3点セットが揃っているのが一般的でしかも東京から近いので日帰り旅行も難しくないというのが特徴です。その点秩父の場合はどうなのでしょうか?。

  

左:秩父有数の観光スポット「 長瀞ライン下り 」   右:鉄道が観光資源となっている「パレオエクスプレス」

  

左: KAZ様もご推奨 の「秩父仲見世通り」   右:西武秩父線芦ヶ久保駅と道の駅「芦ヶ久保果樹公園村」

 年間を通じて楽しめる秩父の観光スポットといえばまず浮かぶのが 長瀞三峰 です。長瀞の観光といえば荒川の長瀞ライン下りを中心としたアウトドアや桜や紅葉等の四季の風景や宝登山神社参拝などが有りますし、三峰は大滝温泉・三峰神社・秩父湖などが観光の中心となります。また昔から 秩父札所めぐり 葉有名でしたし、近年では 秩父ミューズパーク が出来たり 羊山公園の芝桜 は人気のスポットとなっています。
 しかし観光地としての中身にはインパクトが欠ける感じは否めません。温泉・宿泊に関してはそもそも秩父は武甲温泉等の温泉はありますが箱根ほど温泉が多くはありません。そのため温泉の魅力に乏しいですし宿泊施設も貧弱という事ができます。又箱根の芦ノ湖や富士五湖地方の富士山+富士五湖の様な風光明媚なスポットも長瀞・秩父湖ではインパクトに欠けます。又観光施設もミューズパークでは富士急ハイランドなどと比べて大きく劣ることは間違いありません。そのような視点で見ると観光地としての魅力は乏しいと言う事が出来ます。
 又東京からの距離は近いものの池袋からレッドアローで約80分と言うのは大きいですが、それ以外の普通列車・自動車交通は秩父は不便であると言うことが出来ます。この点も箱根等の関東近郊の観光地と比べるとマイナスポイントになると言えます。

 その為に秩父自体は今まで観光が盛んであるとはお世辞にも言い難い状況であったと言えます。それは箱根・富士五湖などの観光スポットと比べてマイナーであることが如実に示していると言えます。しかし今後の地域の成長を考えると、これからは今まで以上より一層観光客の誘致に力を入れていかないと秩父の発展は厳しいと言えます。又それだけ観光客の落とす金の多さは馬鹿に出来ないと言えます。
 実際秩父地域でもそれは解っている様で、 秩父市のHP では観光についてかなり積極的にアピールしていますし、秩父に鉄道とミューズパークスポーツの森を持つ西武グループも西武線沿線を中心にこの頃特にポスター等でのアピールをしていると感じます。近年羊山公園の芝桜が注目を集め多くの観光客を春の秩父に呼び寄せているのはその様なアピールの効果が大きいと感じます。
 ただこの先如何にしてより一層秩父の観光を発展させていくか?が問題です。いまや巨大施設を作れば集客が出来る時代は終わりました。ですから巨大施設でないもので個性を打ち出さなければなりません。その様な考えは有るようで「 秩父プロジェクト 」と言う研究が行われていたりしています。
 まずは自然を生かした素朴な観光地と言う売りを強めることが一つのであると思います。箱根や富士五湖は人の手が入りすぎています。その点秩父は地域的広がりも広いこともあり人の手が入っていない所もありますし、山・川など多様なアウトドアレジャーに触れられる事がプラスであると言えます。東京からわずか1時間半ちょっとで手軽に自然に触れ合える所と言うイメージを東京でアピールすると観光的には大きなプラスであると思います。
 加えて「古い町並みが残り名産品が多い地域」と言う秩父の良い所をアピールして、東京から気軽に来れる「古い町並みが残り美味しい物に触れ合える町」として売り込むのも観光客増加にプラスでしょう。アウトドア派は山間の地方に行ってもらい街中には気軽な散策客などに来て貰えれば、山間部から中心市街地まで秩父地域全体に観光のメリットを広げることが出来ます。その為には中心市街地では「古い町並みを残し雰囲気を作り出す」「既存の銘酒・蕎麦等の名産をアピールして観光客に魅力を感じさせる物(たとえば「秩父蕎麦の会」の店を梯子して「少量の蕎麦を複数の店で食べるそばめぐりツアー」を出来るようにして町全体を「 ラーメン博物館 」の様なフードテーマパーク的なものを組織するのも一策である)を作り出したり、「秩父仲見世通り」秩父の名産をいっぺんに食べたり買い物できる施設を作り、気軽に楽しみに来れる町にするのも一つの方策であると言えます。
 後は時間的距離のハンデを逆手にとり、来る途中にも楽しめる物を作ることです。 箱根は小田急がロマンスカーでイメージ戦略 をしていますがこの二番煎じでは面白くありません。鉄道でのアクセスを面白くする戦略の鍵は「パレオエクスプレス」に有ります。秩父鉄道の運転している「パレオエクスプレス」は「東京から一番近い動体保存のSL」で本年で運行開始19年目になりますが、8月と今回見たら殆ど満員で運転されるぐらい未だに人気があります。この集客力を観光に生かし「パレオエクスプレスで客を運び、秩父市内や山間部にに客を流す」と言う流れが出来ればしめたものです。東京から快適にアクセスするのなら西武レッドアローでアクセスできますし、景色と雰囲気を楽しむなら秩父鉄道経由でアクセスしSLも楽しむと言う複数の流れが出来れば、秩父の観光により多様性を生み観光客を引き寄せることが出来るかもしれません。
 少なくとも秩父は懐の深く歴史のある地域です。懐が深いと言うことは潜在的観光資源も沢山ある事を意味します。それならばこれを生かして地域の活性化をすることが重要であると言えます。今や秩父は「セメント一本足打法」には頼れません。そうなると一番手元にある資源は観光になります。その観光資源を生かして地域の活性化を図ることが地域にとっても大切であり同時に地域に根ざした秩父の公共交通機関にとっても大切なのではないでしょうか?

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 今まで私にとって秩父は「近くて遠い町」であった事は間違いありません。西武池袋線沿線に住みながら箱根には数え切れない位(仕事が大部分だが)行っていても秩父に言った事がなかったと言う事が如実に示していると言えます。まして私の中では武甲山・秩父セメントに代表される「セメントの街」と言うイメージが強かったのが事実です。
 その様なイメージもあってか、ある意味箱根は「万人受けする観光地」と言えますが秩父は「通受けする観光地」であったと言う事が出来ます。正直言って今回2回訪問して「こんなに魅力のある街なのか」と改めて感じさせられました。ただそれが世間一般ではメジャーな観光地ほど知られていないと言う点が、秩父を知らない私のような人間を生み出していると言えます。
 その様な中で秩父はセメント産業が斜陽に入り基軸産業を失いつつあります。その中で地域の苦境交通を担う西武秩父線・秩父鉄道もセメント産業が生み出してきた貨物需要が衰退に入り、特に貨物への依存度が高く対東京で遠回りの秩父鉄道は2002年には赤字を計上し今も数千万の黒字と言う「殆どトントン」と言う状況の経営を行っています。これでより一層貨物需要が減退し太平洋セメント熊谷工場への石灰石輸送がなくなったら経営的には非常に厳しくなります。このような状況はいつ産まれても可笑しくはありません。
 このような状況を如何にして打開するか?となるとやはり地域と一体化して協力しつつ新たな柱を作らなければなりません。秩父の場合それが観光産業ということになります。実際経済とは生き物ですから栄枯盛衰が世の常です。その中で如何にして新しいものを発見して次の生き残る糧を発見するのか?其の時代に対応した変身の必要性が地域・公共交通機関両方に求められているのかもしれません。




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