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近年のローカル線の廃止問題について考える

−ローカル線廃止の根底に有る物は何か?−




TAKA  2006年04月07日



   

(左:05年3月に廃止された日立電鉄 右:05年3月に廃止された名鉄岐阜市内線)


 ※本文は「 交通総合フォーラム 」「 TAKAの交通論の部屋 」のシェアコンテンツです。


 近年民鉄のローカル線廃止・公的セクターを交えた新事業形態への転換が続いています。
 記憶のある近年の物だけをあげても、廃止された「名鉄岐阜4線」「日立電鉄」や新運営形態に転換された「近鉄北勢線」「南海貴志川線」等々かなりの数になります。加えて「西鉄宮地岳線」「鹿島鉄道」等も近年廃止問題が浮上してきています。ローカル線の廃止問題は昔からずっと存在してきた物です。
 実際歴史を紐解いてみれば、旧国鉄の赤字ローカル線廃止や昭和40年代にモータリゼイションの中で消えていったローカル私鉄と言うは鉄道の廃止から、地方ローカル鉄道の廃止と言う事象は綿々と続いています。
 しかし近年又ローカル線の廃止が増えてきています。何故ローカル線は廃止されるのでしょうか?実を言うとこの話昔に他の掲示板でフォーラム常連の皆様と一度議論をした事が有りますし、交通総合フォーラムでも過去に「 大手民鉄ローか路線の廃止問題の根底を考える (TAKA)」「 鉄道衰退論再掲 (和寒)」等々議論をした事が有ります。
 今回交通総合フォーラムでの和寒様の記事「 ターミナル立地と速さで劣後〜西日本鉄道宮地岳線 」に私もインスパイアを受けて、再度「何故ローカル線は廃止されるのか?」と言う問題について自分の見解を考えて見たいと思います。


 ☆何故ローカル鉄道は廃止されるのか?

 ごく単純な疑問ですが、何故ローカル鉄道は廃止されるのでしょうか?理由は極めて単純です。究極に単純に言ってしまえば「利用客が少ないから」「儲からないから」です。残念ながらこれ以上の理由は有りません。
 しかし其処までにたどり着くには経過があるのは事実です。「地方ローカル線=利用客が少なく儲からない」と言う単純な図式は当てはまりません。地方ローカル鉄道といえども「営業利益を出している会社」「相応の輸送密度の有る会社」どちらかを達成しているか、その両方を達成している会社も存在しています。
 その様な成功の図式に当てはまれないローカル鉄道が、生存競争に生き残れないで廃止して行くのが現在起きているローカル鉄道の廃止の実態であると思います。
 つまりそのインフラを独占するが故に巨額の費用を必要とする施設を維持する必要が有る鉄道事業としては、その費用規模に見合った利用客数が存在しないと成り立たないのは有る意味当然と言えます。その利用客数に必要なのは「沿線の人口」です。つまり「鉄道事業で収益の上げられる地域は限られている」と言う事なのです。
 加えて日本では元々ローカル鉄道は国鉄ローカル線と民間鉄道で運営されてきました。その中で民間鉄道は昭和30〜40年代のモータリゼイションの進展に起因して収益が圧迫され運営の苦しい路線は廃止されています。又国鉄ローカル線も巨額の赤字に苦しんだ旧国鉄の解体時・民営移行時に赤字の度合いの高い路線は淘汰されています。
 この様な点から考えて、「何故赤字ローカル線が廃止されるのか」と言う事を考えると、実態は「利用客が少なく、儲からない」路線、要は「鉄道として生きるだけの糧(収入)を得られない路線」が廃止されてきたと言う事であると考えます。
 

 ☆利用客が少なく、赤字のローカル線は「市場の理論」で淘汰される?
 
 しかしこの事は社会全体の生産性の側面から考えれば、極めて適当な事であると考えます。何故ならば鉄道路線と鉄道車両と言う巨大な設備を独占的に使用しながら、少ない輸送量しか運んでいないローカル鉄道は、輸送の生産性が高く無いと言う事になります。
 その様な鉄道の場合、現在の時代では国民生活の為のシビルミニマムとして整備されている道路を共用して公共輸送を行えるバス輸送の方が効率的な輸送を行う事が出来ます。つまりローカル鉄道で1両編成単行or2両編成で毎時1本程度の本数で輸送している鉄道は、共用の交通インフラである道路を使い複数台でのバス輸送の方がインフラの資本費負担を道路関係の税金を負担するだけで済む分軽くて済みますし、そのインフラを公共輸送以外の色々な目的に使える分社会全体の効率から考えても効率的であると言えます。
 又この様なローカル鉄道の淘汰は、経済学的にも「市場調節」が働くと言う意味で、きわめて自然であると言えます。実態は「市場調節で市場から退場(=廃止)を迫られる基準が採算性」と言う点に関しては「それだけでない物も世に中に存在する」と言う事ができますが、一般的概念で言えば「採算性の悪い鉄道≒利用客が少なく資本費負担すら厳しい鉄道≒社会的概念で行けば効率の悪い鉄道≒田舎のローカル鉄道」と言う図式が成り立ちます。その図式から言えば「採算性に一定の基準を置いて社会が効率の悪い物に市場からの退場を迫る」と言う「神々の見えざる手」は理に適っていると言えます。
 

 ☆要は社会に必要なことは「バランスの取れた適者生存」である

 この様に社会的に非効率な赤字ローカル線が淘汰される事は「社会の合理性」と言う側面から見れば必要であると言えます。
 社会として全体のパイが複数の交通機関が存在するほど有れば、複数の選択肢が存在して競争してより便益を拡大する事は社会全体の便益が拡大する事になり良い事です。しかし世の中その様な場面ばかりだけでは有りません。競争が成立するほどのパイ(利用客数)が存在しないと言う事例は世の中多数存在します。その実態が地方の現況であると考えます。
 その様な場合如何に有るべきか?と言う事を考えると、「社会的に一番効率的な交通機関が生き残る」と言う「適者生存」が一番好ましい事になります。パイ(利用客数)が少ないのに複数の交通機関が競争するのは効率的であるとはいえません。その様な世界では非効率的な交通機関は淘汰されるのが社会の摂理であると言えます。その様な事は利用の実態に釣り合わない輸送力を持て余して競争も無く運営されている場合にも淘汰の節理が当てはまると言えます。その社会の摂理が働いて淘汰されたのが廃止されてしまったのが、現在廃止されたり運営主体が変更されたり廃止問題が遡上している地方ローカル鉄道であると言えます。
 但し「市場調節の淘汰による適者生存」と言っても、バランスが必要なことは間違い有りません。過疎が進んでしまった日本の地方の状況では、経済原理だけで物事を図ると一歩間違えてしまえば全ての公共交通機関が淘汰されてしまう可能性も大きいと言えます。そうなると「社会のシビルミニマム」すら失われてしまう可能性も多々有ると言えます。その様な「市場調節の失敗」まで進んでしまう事は逆に好ましく有りません。その様な場合には社会の調整主体として公共セクターがシビルミニマムの確保を図る必要が有ります。その様な最低限の線でバランスを取りながら市場の摂理に従い社会全体の効率的な運営を行う事が必要であると考えます。


 ☆ローカル線廃止を悲観する必要は無い?
 
 その様な事から考えて、私は近年頻発しているローカル線の廃止と言う動き自体は「社会全体の効率最適化」のモーションが実体化した事象に過ぎないと考えます。
 ですから「今まで寿命を超えて生き永らえていたor遂に寿命を迎えた鉄道が死を迎えた」と言う事に過ぎず、それは「鉄道にとって最適の効用を発揮できない所が切り捨てられた」と言う事であると言えます。
 前述の近年廃止された鉄道は、実態を見てみれば既に鉄道としての能力を発揮できない状況に追い込まれていたと言えますし、鹿島鉄道に関しても同じ事が言えます。又西鉄宮地岳線も和寒様が指摘されるように、ターミナルの立地・JRの平行路線の存在等が影響して、沿線に人口があっても路線単独で鉄道の特性を発揮するのは難しいですし、競争力の著しく劣った鉄道が生き残れるほどの恵まれた環境が存在している状況では有りません。そういう意味では近年の鉄道の廃止問題は「鉄道と言う世界で見れば衰弱した所が切り落とされ適者生存が図られた」と見ることも出来ます。
 只実際に利用している人たちがそんなに簡単に割り切れないのも又事実です。実際鹿島鉄道に関しては私もかしてつ応援団の活動を実際に見て、有る意味その努力に感激し「 かしてつを救うことが出来るのか? 」と言う一文を書き、ローカル鉄道をすくう方策を考えたりしていますが、幾ら活動に感激して其れを実らせようと知恵を絞っても浮き出てくるのは「存続困難な実態」だけであると言うのが、残念ながら地方ローカル線の実情です。
 まして単独で運営されている鉄道であれば別ですが、近年存廃問題が浮上した前述の殆どの路線は、大手(中小)民鉄の一ローカル路線です。これらの鉄道は「事業者内の内部補助で生き残っていた」と言うのが偽らざる実情です。この様な場合、幹の栄養を吸い取るだけの路線を残してそのままにしておけば幹自体が栄養不足になり枯れてしまう事も可能性として存在します。その様な事も避ける為には、廃止も致し方ない選択であると言えます。


 実態問題として鉄道が今後とも活力を維持する為に、その活躍舞台に相応しくない所を剪定して「鉄道とっての適者生存の場所を残す為の行動」が現在発生している地方ローカル線の廃止の実態であると思います。
 鉄道事業の大部分を民間企業にその運営を委ねる日本で、民間企業としての採算性が重視される世の中になったしまった上に、参入退出規制が緩和され廃止へのハードルが低くなってしまっている現在では、「適者生存の為の選択」を止める事はできません。それは今まで交通総合フォーラムでも述べて来た通りだと思います。
 しかしこの事は「鉄道をより強くする」と言う視点で考えたならば決して悪い事では有りません。適者生存でより能力を発揮できる事を残して強化する事が出来れば、全体としては好ましい事になります。
 ですから和寒様の言われるように「廃止と言う事象だけを見て鉄道は衰退して居ると言う事は出来ない」と言う考えに正しく賛成ですし、私は「ローカル線と言う弱者が無くなる事で鉄道全体の生存力は強化される。だから決して衰退していない」と思います。
 けれども社会全体で見れば(矛盾しているようですが)「行過ぎた淘汰」は決して好ましく有りません。社会として公共交通のシビルミニマムは確保しなければなりません。しかしシビルミニマムに該当する利用客数は鉄道の輸送力では釣り合いが取れる物では有りません。その様な「社会のシビルミニマムと社会全体の効率性」の間でバランスを取りながら「社会の中の交通に関する適者生存」を図る事が社会全体(特に公共セクター)に求められているのではないでしょうか?





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