ましま君に捧ぐ
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
ましま君に捧ぐ
[筆者注・この文章は、E指さん、Y田、NTのアスレ各部員からの
情報提供に基づき構成しました。この場をお借りして御礼申し上げます。]
ましま君は、おもしろい奴でした。
個性派ぞろいのアスレの中でも、ひときわ異彩を放っていた名部員でした。
彼との思い出をあげるときりがありませんが、そのうちのいくつかを紹介すると、
・87年11月 ましまと、NT・筆者の3人で、大学の学園祭「六甲祭」において 「人間ダーツ」を敢行。 これはましまにダーツの的を首にぶら下げさせ、1回50円でダーツを投げ、 見事真ん中に当たると、賞金 1000円…というルールでやったものだった。 2日間で、3人の打ち上げ呑み代が浮くほどの収益が上がった。
・当時のアスレはボロ負けする試合が多く、最終回(7回)の攻撃を迎えるころには いつも大量リードを奪われていた。当時のキャプテン・稲Dは、「どうせなら試合に来たメンバーを 一人でも多く出場させよう」という民主的な采配を振るっていたので、7回の攻撃になると、 ましまのようなメンバーが代打に出されることが多かった。これには相手の投手もすっかり調子が 狂ってしまい、四球を連発したので、「アスレ名物7回表」の異名で恐れられた。しかし、 そうしてせっかく相手がくれたチャンスも、1・2塁から1塁走者のましまが、いきなり 単独スチールをおっぱじめ、2塁走者が憤死してしまうなど、ドタバタのうちに試合終了を 迎えてしまったりした。
・88年3月 アスレ部員有志で、赤倉へスキー旅行に出かける。 ましまはこのとき、ホテルのゲームコーナーにあった「究極タイガー」という シューティングゲームにはまり、まるで何かに取り憑かれたかのように夜を徹して このゲームにのめり込んでいた。そして3日目の夜、ついにましまはそのホテルでの ハイスコアを叩き出し、歓喜の雄叫びを上げた。最初は「たかがゲームに何もそこまで…」 という冷ややかな目で見ていた部員たちも、彼のこの姿には一種感動さえ覚えるようになっていた。 しかしその時、たまたまゲームコーナーを通りがかった落研ニシダは、 「ふーん、面白そうなゲームやなあ」と言ってゲームの前に座ると、ましまが3日もかけて記録した ハイスコアを、たった1回で更新してしまったのであった。
・88年冬頃、某部員の下宿に頻繁に出没していた外国人ギャルの一人は ある日、ましまを見て、「あなたフィリピーノ?」と聞いた…
かように、いつも陽気で楽しく、我々を楽しませてくれたましま君でしたが、卒業と共に 徐々に連絡が途絶えてしまいました。しかしその存在は強く部員の記憶に刻まれていたので、 先日(2000年11月4日)に行われたアスレOB会でも、誰からともなく
「ましま、どうしてるんやろなあ」
「今日のOB会に呼んだらよかったなあ」
「ホンマおもろい奴やったなあ」
「一回、会うてみたいなあ」
と話し合い、ひとしきり彼の話題で盛り上がっていました。
もちろん、その時のアスレ部員には、その頃ましまがどうなっているのかなど知る由もありません でした。
それから数日後のことでした。アスレ部員・E指さんから、衝撃的なメールが私の元に届きました。
「非常に悪いお知らせです。本日仕事の関係で大学の職員と連絡をとったのです が、合宿の時に話題にもなっていたましま君が、11/1に病気で亡くなったそうで す。彼とはあまり話しもしていないけれど、悲しいことです。 人から聞いた話なので、まず間違いない情報だと思いますが、確認をした方がいいと思います。」
ほんの数日前に、彼の話題に花を咲かせていたばかりでした。まったく信じられませんでした。 我々が彼の話題で盛り上がっていた頃には、ましま君は既に三日前に他界していたのでした。
アスレ部員からも、次々と
「びっくりしました。なんていったらいいのか。。。。」
「本当だろうか? 高校ルートで確かめてみます。」
「びっくりしました。まさか、お亡くなりになっているとは非常な驚きです。 アスレの後輩が早くも他界するとは…」
と、一様にショックを隠せぬメールが届きました。
アスレ部員の一人、Y田君が、さすが元新聞記者の取材力をみせて、詳細情報を教えてくれました。
「ましま君が1日、逝去されました。葬儀は3日に行われたそうです。 昨年11月に大腸ガンの手術を受け、以降入退院を繰り返し、 一時は勤務先の水道局に職場復帰するまで快復したらしいのですが、 8月に再発して以降は退院することがなかったそうです。 ましま君は2年前に結婚し、今は10カ月になるお子さんがいるそうです。 遺骨は大阪の実家にあって、お母さんが『よろしければお参りに来てください』とおっしゃっていました。 日曜日午後にでもお参りさせてもらおうと思います。 行ける人は集結してお参りさせてもらいましょう。」
そして11月19日、アスレ部員を代表して、NT、Y田、N出、K村の4名がお参りに行ってきました。 お母さんとお嫁さんと彼の10ヵ月の赤ちゃんが、4人を迎えてくれたそうです。以下はNTからの報告です。
小さな祭壇に故人の遺影が祭られていた。アスレ時代のましまよりかなりふっくらしていた。
彼は大学卒業後しばらくして、大阪市の水道局に派遣され、職についた。
数年後、友達を介していまの奥さんと出会い、1998年春に結婚。驚いたことに彼女は、 私の中学時代の同級生の妹であった。そのことも 彼と連絡をとっていなかった悔しさを一層強めた。
昨年の夏、彼の体の調子がやや悪くなってきたらしい。腹痛や血尿などの症状が 出始めたそうだ。11月ごろ手術。このとき大腸の悪性腫瘍を切り取る。
その後病状は回復し、一時は職場復帰するまでになった。
1月ごろ奥さんが元気な赤ちゃん(男の子)を出産。
今年の6月ごろまでは元気に働いていたそうだ。しかし夏前再び病状は悪化、「絶対元気になって 家にかえるで。」といっていたらしいが、今年11月1日に他界した。
以上、お母さんや奥さんの話を思い出しながら書いたが、 悲しみの最中に拝聴したことなので、事実と異なる部分があるかもしれないのでご勘弁。
とにかくこんなことになるなら、もっと早くにOB会とか誰かの結婚式とかの連絡を回すべきだった。 とくに私なんか、高校も一緒で家も近所だっただけに、とても悔しい。 奥さんと赤ちゃんのことを思うと、大変胸がしめつけられる思いがする。 奥さんもとてもしっかりした人であった。 お母さんもとても良い人で、始終笑顔を絶やすことなく彼の思い出を語ってくれた。
アスレのことについてはあまり家族には話してはいなかったようだったので、 僕がざったに六甲祭の彼の思い出等を伝えておいた。
彼の遺影を目にしても、全く実感が湧きません。 もともと伝説的だったましまが、本当に伝説に帰って行ったという感じでしょうか。 まだまだやりたいことがあっただろうに。彼の分まで精一杯がんばろうじゃないか。 ましまくんのご冥福を心からお祈りいたします。
詳細報告を聞くにつけ、何ともいえぬ寂寥感がこみ上げて来ました。と同時に、 彼が最後に素晴らしい奥さんと可愛い子供さんを得ることが出来たことに、 ある種の安堵感もまた生じてきました。
人間誰でもいつかは死ぬわけです。 我々はそのなかで短い生命を精一杯生きぬいているわけで、 ましま君も短い人生ではあったかも知れませんが、きっと充分その命をまっとうしたことでありましょう。 惜しむらくは、もう一度彼と会ってバカ話しを楽しみたかったです。
ましま君のご冥福を、お祈り申し上げます。
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