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秘湯めぐりの旅(49)
<小鍋温泉・河内温泉−静岡県>
2002.11.9-10
インデックス
11/9小鍋温泉 | 11/10河内温泉 |
*2002年11月9日(土) 韮山→湯ヶ島→河津七滝→小鍋温泉
・伊豆半島へ向かう
今回の旅は、伊豆半島目指して、東名高速を西へ走った。そうしていたら、頭に白い雪を頂いた富士山が、とてもきれいに見えていたので、どこか車を駐車できるところはないかと探していた。そんな時に鮎沢パーキングの標識を見つけたので、思わず飛び込んでしまった。駐車場からはちょっと本線の方へ歩かなければならなかったが、富士山がくっきりと見えて、とてもきれいで、そこだけで何枚もシャッターを切った。
韮山町の江川邸 |
・韮山町の江川邸を探訪
その後、沼津インター周辺の渋滞を嫌って、手前の裾野インターで下りた。それからは三島市街を経由して、韮山町へと南下していった。ここでは、まず国指定重要文化財の江川邸に立ち寄った。何度目かの来訪となるが、いつ来てもこの豪壮な建物には驚かされる。主屋は、棟高12mで、美しいカーブを描く大屋根があり、土間に入ると、それを支える架構のみごとさに息をのむ。1160年代からの歴史を持つ旧家であり、伊豆半島に流されていた日蓮聖人を数日お迎えし、その時に頂いた棟札が残るとのこと。主屋は室町時代に建てられた部分と、江戸時代初期(1600年前後)に修築された部分とが含まれる。江川邸は、江戸時代の代官の屋敷をそのままの形で今に伝える貴重な建造物として、1958年(昭和33)に国の重要文化財に指定され、その際茅葺屋根を銅版葺きに変えられたとのこと。1993年(平成5)に付属する書院、仏間、蔵、門、、塀、神社、及び敷地が国の重要文化財に追加指定され、2001年4月より、屋敷内と蔵も見学可能になった。江川家は清和源氏の出で、保元の乱で崇徳上皇に味方して敗れ、この地に移住して江川を姓とし、その後江戸幕府から世襲代官に任ぜられたそうだ。第36代江川太郎左衛門英龍(坦庵)の善政はとくに有名で、支配地は駿河、伊豆、相模、甲斐、武蔵等の各州に及んだという。坦庵は、洋学にくわしく、海防の必要性を早くから叫び、沿岸測量、品川台場構築、砲術指南、大砲鋳造、種痘、パン製造など文武両道にたけた人で、邸内にそれに関わる展示がしてあった。幕末の激動期に登場した偉人の業績にはすぱらしいものがあり、とても学ぶべきものが多かった。
韮山の反射炉跡 |
・韮山の反射炉を見学後、修善寺へ
江川邸を出てからは、近くにある国指定史跡の反射炉跡へと向かった。坦庵は、1853年(嘉永6)6月、ペリーが来航して開港をせまり、江戸湾の防備が急務となったおり、国防の重要性を幕府に建議し、許可を得て大砲鋳造に必要な反射炉を築造したのだ。これは佐賀藩に次いで2番目に築造されたもので、品川沖に設置された台場(砲台)用の大砲を製造した。幕末期に、全国にいくつかの反射炉が作られたが、現存するものは韮山と萩のみで、完全な形で現存するここだけとのこと。炉は高さ16m程のもの2基だが、 良質の耐火レンガと共にその精巧さは今日の溶鉱炉にも匹敵するそうだ。その煉瓦造りの炉を見上げ、周囲に復元されて置いてある24ポンドカノン砲などを見ていると、幕末期の世相が見えてくるようにも思われた。見学後は、修善寺温泉へ向かい、そこで、昼食に蕎麦を食べてから、さらに南下していった。
浄蓮の滝 |
・「伊豆の踊子」ルートを行く
それからは、川端康成の
『伊豆の踊子』
ルートに沿って旅をした。湯ヶ島温泉、浄蓮の滝、旧天城トンネル、河津七滝と
天城越え
の散策をしたのだが、ほんとうにみごとな山と渓谷だった。紅葉には1〜2週間早かったのが残念だが、枯葉が舞っていて、秋の深まりを感じさせていた。渓谷のいたる所にワサビ田があって、清流がワサビを育んでいたのだ。
最初に訪れた浄蓮の滝は高さ25m、幅7m、滝壷の深さは15mで、天城山中屈指の名瀑だ。1950年(昭和25)毎日新聞主催の「観光百選」に入選し、1990年(平成2)4月に選定された「日本の滝百選」にも選ばれている有名な観光地でもある。天城山中より源を発する本谷川にかかる滝で、狩野川の上流部にあたり、この川の左岸山中に浄蓮寺があったので、滝の名前になったとのこと。この辺りの標高は310mほどだが、断崖の続く峡谷、深い自然に囲まれ、清流が流れ、ワサビ田が作られている。滝周辺の玄武岩には、県指定天然記念物のハイコモチシダが群生し、初夏の新緑、秋の紅葉もすばらしいところだ。
旧天城トンネル |
・旧天城トンネルを越える
その後国道414号線を少し走ってから、左折して旧道に入り、舗装されていないつづら折りになった山道を進んでいった。これが、踊子の通った道で、途中「伊豆の踊子文学碑」もある。その先にある旧天城トンネルは、川端康成著 『伊豆の踊子』 で有名になった。文中で雨宿りをした茶屋はこの近くにあったと言われている。今も、踊子が越えていったのと同じトンネルが残り、通り抜けることが出来、当時の状況を彷彿とさせる場所なのだ。このトンネルは、1904年(明治37)、工期13年を費やして竣工した全長445.5m、幅4.1m、有効高3.15mの石造りのトンネルだ。天城峠付近の標高約710m地点に穿たれていて、2001年(平成13)4月20日、国の重要文化財に指定されている。1970年(昭和45年)に、下を走る国道414号線の新天城トンネルが開通するまでは、天城越えの主要交通路だった。今も、未舗装の曲がりくねった旧道が残され、旅の旅情をかき立ててくれる。ここを通る旧下田街道は日本の道100選(1986年8月)にも選ばれているとのこと。
初景滝と「踊子と私」の像 |
・河津七滝を散策
それから、峠を下ってきて、
河津七滝
を散策した。これは、河津川にかかる7つの滝(釜滝、エビ滝、蛇滝、初景滝、カニ滝、出合滝、大滝)の総称で、伊豆地方では滝のことを「タル」と呼ぶとのこと。また、七滝にまつわる七つの頭を持つ面白い大蛇の伝説もある。その大蛇を退治するために七つの樽に入れた酒を用意し、酔っぱらわせて首を落としたら、大蛇の体はみるみるうちに川となり、七つの首の切り口は滝となって流れたというのだ。それで、河津の七滝のことを「ななだる」と呼ぶようになったとのことだが...。
天城峠周辺の谷は深く、滝がほんとうにすばらしい。水量も多くて、飛沫を上げて、轟々と流れ落ちている。また、玄武岩の柱状節理を見ることが出来、中でも釜滝周囲では、はっきりとそれを確認でき、みごとな景観をつくっている。初景滝の傍らには、「踊子と私」の像などがあったりして、ほんとうに旅情を深めてくれるのだ。1時間くらい散策したのだが、そんなに寒くもなく、歩くにはちょうど良かった。
あまり人のいない渓谷にたたずんで、清流の音を聞いているのが好きなのだが、ほんとうに清い水って美しい。すいこまれていきそうだった。速い流れが、ある所では渦を巻き、あるところでは澱み、また、岩に当たって砕けている。そんな、水の流れを見つめていると飽きないんのだ。そのままずっと見続けていたかったのだが、そうも行かないので、カメラに収めてきた。上手く撮ったつもりでも、やはり、本物の水の流れにはかなわないと思うけど...。
その後は、再び車に乗って湯ヶ野温泉近くの小鍋温泉へと向かった。湯ヶ野温泉から奥へ進んだ山の出湯で、さらにひなびた環境にある。山懐深く自然豊かで閑静そのもの、静養向きといった素朴な温泉だ。この小鍋という地名は、鎌倉時代源頼朝が伊豆で挙兵したおり、天城峠から下り、露営のために鍋を調達した時に、この周辺から小さい鍋を集めたので、それが地名になったという。そこの一軒宿「にかいや旅館」に1泊2食付9,000円(込別)で泊まった。ここは、奈良時代からの歴史を持ち、かつて集落内で唯一の2階立て家屋だったことからその名がついたという。以前は、小鍋川をまたぐように建てられていたのだが、先年の水害で被害を受け建て直されたので、建物はまだ新しかった。それまでは、共同浴場が1階に同居するような造りだったそうだが、建て直された後は、分離されて、川の向こう岸に小さな共同湯が建てられたとのこと。しかし、そこは地元専用で外来客は入れないそうで、ちょっと残念な気がした。この旅館の源泉は、今は湯ヶ野温泉と同じで、湯ヶ野5号源泉を引く、源泉57.7℃、溶存物質総量1,255mg/kgのカルシウム・ナトリウム硫酸塩泉だ。内湯のみだが、掛け流しになっていて24時間入浴可能だった。新鮮で透明なお湯が絶えず注がれていて、気持ちよく、浴後はいつまでもぽかぽかと温かい。また、夕食は、ボタン鍋や鹿刺、山菜などが出てき、野菜は自前の畑で無農薬栽培されたもので、とても美味しかった。もてなしも良くて気に入った。
☆小鍋温泉「にかいや旅館」に泊まる。<1泊2食付 9,600円(込込)>
小鍋温泉「にかいや旅館」の外観 | 小鍋温泉「にかいや旅館」の浴室 |
| *一般的適応症(浴用)
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小鍋温泉「にかいや旅館」の夕食 | 小鍋温泉「にかいや旅館」の朝食 |
*2002年11月10日(日) 河内温泉→下田→爪木崎→伊豆スカイライン→帰途へ
・朝の散歩へ
翌日は、朝早く起き出し、河津川沿いに歩いて、湯ヶ野温泉街の散策に出かけた。湯ヶ野の温泉街は閑静で、河津川にかかる橋の向こうには、川端康成が逗留して、「伊豆の踊子」を書いたという“福田家旅館”が見える。玄関前には、伊豆の踊り子の像があり、旅館の並びには、文学碑も建てられていて、まさに「伊豆の踊子」の宿といった風情がある。それらを見学してから、小説の中に出てくる共同湯にも寄ってみたが、今では河畔の露天風呂ではなくなって、建物に囲われた内湯になっている。ここの河畔に露天風呂があれば、 「伊豆の踊子」に描かれている ように対岸の“福田家旅館”からはよく見えたことだろう。踊子はどんな風に真裸で出てきて手を振ったのだろうかと想像してみたが、こういう所で、小説の場面と比べてみるのはなかなか楽しいことだった。ただ、共同浴場は地元専用となっていたので、入浴することは遠慮した。その後も、ぶらぶらと温泉街を歩いてみたが、昔ながらの風情を保った温泉街が残されている。特に、河津川の渓谷沿いは「伊豆の踊子」の情景を思い浮かべられるような状態のままで、とても感慨深い散策となった。1時間ほどの散策を終えて、旅館に戻り、朝風呂に行ってから朝食になった。温かい味噌汁と美味しいご飯に満足し、食が進んだ。食後は、手早く荷物をまとめ8時半頃には宿を出立した。
河内温泉「金谷旅館」の玄関 |
宿を立ってからは、国道414号線に出て、南下したが、下田市域に至って、旧道沿いの山際にある一軒宿河内温泉「金谷旅館」に立ち寄った。ここは、江戸時代末より創業130余年の歴史を持つ温泉旅館で、1914年(大正4)に建てられたの千人風呂(混浴)で有名だ。駐車場から玄関の方へ歩くと天文台が作られていて、天体観測も出来るという。玄関脇の帳場で入浴料1,000円を払って、廊下を奥の方へ進むと、千人風呂の脱衣場がある。板張りの脱衣場は、ちょっと薄暗いが、籐でできた脱衣篭が置かれていて、湯治場らしいムードがある。浴場への扉を開けると木造の大きな湯船が現れる。かなりの湯気が立ちこめ、視界がぼやけるほどだが、長さ15m×幅5mのプールのようなその大きさと、源泉がとうとうと掛け流しになっているのに驚かされた。天井は丸くカマボコ型アーチを描き、高窓から斜めに差し込む光がゆらゆらとした湯煙と幻想的な光景を現出している。木造の湯船(底はコンクリート)は肌触りが良く、真ん中に丸太が通されていて仕切となり、3体のブロンズ像が置かれている。奥の方へ浴槽の中を進むと腰まで浸かるほどの深さになる。聞くと昔から機能回復用の歩行浴に使われていたとのこと。その突き当たりにある小さな扉をくぐると露天風呂に出ることが出来る。小さめだが、結構気分の良い造りで、隅の方がジャグジーのようになっていて泡が出ていたり、高いところから竹筒で湯が注がれていて、打たせ湯のようになっているのが面白い。源泉55℃、pH8.2、溶存物質総量398mg/kgの単純温泉(弱アルカリ性・低張性・高温泉)で、無色透明の無味無臭。やわらかなお湯で肌触りがよく、長湯出来そうな感じがする。千人風呂には、1992年(平成3)に新しくできた女性専用の万葉の湯から入ってこれるように造られている。この他に、明治の終わり頃作られた、家族風呂の一銭湯(宿泊者専用)もある。
★河内温泉「金谷旅館」に入浴する。<入浴料 1,000円>
河内温泉「金谷旅館」の千人風呂 | 河内温泉「金谷旅館」の露天風呂 |
| *一般的適応症(浴用) 神経痛・筋肉痛・関節痛・五十肩・運動麻痺・関節のこわばり・うちみ・くじき・慢性消化器病・痔疾・冷え症・病後回復期・疲労回復・健康増進
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河内温泉「金谷旅館」の公式ホームページへ |
・下田市内見学
入浴後は下田市街へ入って、まず豆州下田郷土資料館を見学した。それから、唐人お吉ゆかりの宝福寺(唐人お吉記念館)、安直楼と立ち寄り、ペリー艦隊上陸記念碑など幕末の開国にまつわる下田の史跡を巡った。その後は、爪木崎にも立ち寄って、昼食後は東海岸を北へ向かった。
巣雲山駐車場から見た富士山 |
・伊豆スカイラインを走る
伊豆高原のところから伊豆スカイラインへ入って、北上したが、雄大な富士山が全景を表していた。その、
撮影ポイントの一つ巣雲山駐車場
へ車を停め、望遠や広角で、富士山をねらってみた。少し霞んでぼやけてしまったのが残念だ。 その後も芦ノ湖スカイラインを通って、富士山や駿河湾、相模湾の景色を堪能しながらドライブを続け、御殿場インターから東名高速に乗って帰ってきた。
天気も良く、富士山もばっちり見れ、美味しいものも食べられて、とても良かったのだが、帰りは、東名高速で事故があって大渋滞し、帰宅が遅くなってしまったのが残念。いろいろあっても、旅行に出ると、ほんとうにリフレッシュ出来るのだ。
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